勉強する上で何が大事か

こないだ学生に講義をやっていて思ったことなのですが、大学に入って勉強していくとき、“分からないことがある”ということに耐えられるかどうかということが意外と大事ではないでしょうか。自分の疑問や「分からないこと」と上手につきあって、うまく育てることができるかどうか、そのあたりが大切なように思います。

高校までの勉強と大学での勉強(というふうに、あまり機械的に対立させない方がよいのでしょうが)と違って、大学では、自分が何を勉強したいか、テーマや研究方法それ自体も、自分で勉強しながら見つけていかなくてはなりません。

たとえば経済学で言えば、アメリカの誰はどういう説を唱えたか、このテーマについては誰それと誰それがこういう説を述べていて、というようなことを覚えるのが勉強ではありません。問題は、それらの説が現実に当てはまるのか、当てはまらないのか、それらの説明が正しいのか正しくないのか、それを現実と照らし合わせながら考えることです。で、もしその学説が現実にあわなければ、なぜあわないのか、どこに理由があるのか、現実の何を見落としているのか、なぜそれを見落としたのか、などを考え直すことが求められます。

ところが、受験勉強的な仕方だけが勉強のやり方だと思っていると、こういうことがよく分からない。そこをどうのりこえるか、というのが大学での勉強を進める上での関門になっているのではないでしょうか? 大学の教員の中にも、往々にして、「学生にそんなこと分かるわけがない」と高をくくって、教科書的な知識を教えるだけでいいという間違った授業をする人もいるから、さらに混乱させられるのですが、こういう勉強の仕方は×です。

大学での学問、科学にとっては、疑問を持ったり、「分からないこと」がたくさんある、というのは楽しいことであり、その疑問や「分からないこと」を上手に育てることが大切なのだということです。受験勉強型のやり方では、それが上手に育てられない(というか、疑問や「分からないこと」を育てるという発想そのものがない)。

もちろん、とっくの昔に誰かが考え、答えを出していることを学ぼうともせずに、自分の疑問にこだわってみても、何の意味もありません。自分の疑問に執着しているだけでは、疑問は上手く育たないし、だからといって、「分からないこと」に何の引っかかりも感じないようでは発展はありません。これまでの学問、研究の蓄積というものに謙虚に学ぶことは必要ですが、だからといって、過去の枠組みだけからしか物事がとらえられなくなってしまっても困ります。そのへんが、学問研究における現実感覚の問題であり、自分の疑問を上手く育てるコツなのかも知れません。

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