「えひめ丸事件」とは何だったのか

『えひめ丸事件』(新日本出版社)カバー

『えひめ丸事件』(新日本出版社)を読み終えました。というか、ずっと前に読み終えていたのですが、いろんな思いが僕の中で渦巻いて、なかなかブログに感想を書き込めないでいました。でも読んでいていちばん強く思ったのは、この本を読んで初めて、「えひめ丸事件」がどういう事件だったか分かった、ということです。この本がなかったら、「えひめ丸事件」の真相を知らないままだったのではないかと思えるほどです。

米軍による事件・事故は、この間の横須賀の事件、八王子のひき逃げ事故など、いろいろありますが、しかし、えひめ丸事件は、訓練とはいえ米軍の正規の作戦行動中に引き起こされた事故だという点で、はるかに重大な意味を持っています。

にもかかわらず、この事件に関して裁判で責任を問われた人物は1人もいない、ということは驚くべきことです。ワドル艦長は海軍のキャリアを失ったけれど、彼は軍法会議にかけられた訳ではなく、太平洋艦隊司令官の「審問委員会」にかけられただけでした。もし軍法会議がひらかれていたら、どうなったでしょうか?

もちろんえひめ丸にぶつけた潜水艦グリーンビル、その艦長ワドル氏に決定的な責任があることは言うまでもありません。しかし、もし「招待客ツアー」がなければ計器の故障が見つかった時点で訓練は中止されていたかも知れず、また海上の安全を十分確認もせずに緊急浮上をおこなうなどといった「見せ物」的な操縦もおこなわれず、したがってえひめ丸が沈没することもなかったかも知れません。軍法会議がひらかれれば、ワドル艦長の弁護人はきっとそうした問題を追及したでしょう。そうなれば「招待客ツアー」を押しつけた軍上層部の「責任」が問われることになる――だから、米海軍当局は軍法会議を避けて、「審問」だけですませてしまったのです。

それだけではありません。じつは、えひめ丸は衝突後わずか数分で沈没してしまったのです。ということは、高校生が学校教育の一環として安全に実習ができるような船だったのか? えひめ丸自体の安全・構造上の問題がなかったかどうかも問われてくるのです。実際、この本で紹介されているように、えひめ丸では、生徒たちが普段集まっている場所(「生徒食堂」)は船底にあって、生徒は階段を2階分駆け上って脱出しなければなりませんでした。ところが、同じ水産高校の実習船でも、東京の大島丸では「生徒食堂」は水面より上にあって、もし事故が起こってもすぐに逃げ出せるようになっているのです。また、大島丸が全部二層甲板であるのにたいし、えひめ丸は一層甲板でした。だから、現実的な話として、えひめ丸が大島丸と同じように生徒の安全を最優先にした構造になっていれば、潜水艦に衝突されても、もっと犠牲者は少なかったかも知れないのです。実際、犠牲となった人の中には、生徒たちが避難したかどうか確かめようと船底へ降りていくところを目撃されたのが最後だという先生もおられたそうです。

もし被害者が米軍を相手に裁判を起こしていれば、当然、こうしたえひめ丸の安全構造上の問題も問われたはずです。グリーンビルがぶつけたのが原因であることは明らかですが、えひめ丸がもっと安全にできていれば、9人もの犠牲を出さずにすんだかもしれない――当然、それが裁判の争点になったはずだったし、そうなれば、米海軍だけでなく、生徒の安全を軽視した愛媛県当局の責任も問われることになったはずだったのです。

ところが、愛媛県は、被害者や犠牲者の遺族に示談による補償交渉をすすめ、県の所有物であったえひめ丸の船体の損害賠償交渉を担当した弁護士・法律事務所に、被害者・犠牲者の補償交渉も担当させたのです。愛媛県が、みずからの責任を意図的に隠蔽したかどうかは分かりませんが(その可能性は大きいと著者たちは見ているようですが)、実際に、裁判は起こされず、愛媛県の責任は問われることなく、またえひめ丸の構造上の問題点が議論されることもなく、事件は終わってしまったのです。

本書では、こうした問題が「利益相反」という法律にたずさわる人間が当然わきまえていなければらない基本的なモラルの問題として厳しく問われています。「利益相反」とは聞き慣れない言葉ですが、被害者と加害者の弁護を同時に引き受けてはいけないという当たり前のルールです。米海軍相手にどんな補償交渉の道があるかを、米海軍の弁護士たちによって被害者たちに説明させると言うことが、実際に愛媛県の主導によっておこなわれたのですが、その場に立ち会った米軍側の弁護士たちは、一方で米海軍の利益を最大限に守る責務を負っていながら、他方で、被害者に対し十分な保証を得るための方法を説明しなければならないという矛盾した立場におかれたのです。こういう矛盾した立場を「利益相反」といい、法律にたずさわる人間は、職業倫理として、そうした「利益相反」を犯してはならず、「利益相反」になりそうなときは、その旨を伝え、別の弁護士を立てるなど、「利益相反」にならないようにすることが厳格に求められているのです。被害者から船体の安全責任が問われる相手となったであろう県の弁護士・法律事務所が、被害者の補償交渉を担当するというのも、あってはならない「利益相反」なのです。

本書の著者ピーター・アーリンダー氏は、たまたま事件当時日本にいたという偶然から、この「利益相反」の現実に直面し、これではえひめ丸の犠牲者たちの権利が守られないと強い憤りを感じたのです。それが、この本の出発点になっています。そこから、公開された資料から事件の真相にせまり、そうして、いかに事件の真相が隠蔽されてきたかを徹底的に追及したのが、この本です。

いま、世界的に米軍の戦略的再編がおこなわれ、米軍は、これまで以上に太平洋地域に潜水艦部隊を配置するとしています。米軍と自衛隊の一体化もすすめられています。こんどは日本の近海で、第2、第3の「えひめ丸事件」が起こらないとも限りません。それだけに、事件5周年を前に、えひめ丸事件の「語られざる真実」を追った本書は、書かれるべくして書かれた貴重な一書だと強く感じました。1人でも多くの人に読まれることを切に願ってやみません。

追記:
それから、この本で著者たちは厳しい姿勢で事件の真相に迫ろうとしていますが、同時に、文章からは、事件の被害者や犠牲者の遺族にどこまでも寄り添っていこうとする、優しい気持ちが伝わてきます。

以下は、個人的なこと。

本書の翻訳・共著者とは、かつての職場の先輩。アメリカ人と結婚して退職したあと、どうしているのかなと思っていたところ、たまたまある日、NHKのお昼のニュースで、グリーンビルのワドル元艦長が来日して愛媛水産高校の慰霊碑に花輪をささげたというニュースを見たら、ワドル元艦長の隣に彼女が立っているのが映っていて、びっくりしました。そんなことがあったので、今回の本を手にしたとき、真っ先に読んだのは、実を言うと、ワドル艦長の来日を実現するためにどんなに苦労したかを紹介した部分でした。

彼女が翻訳・共著者という形で、こんな素晴らしい、そして貴重な本を世に送り出してくれたことを僕は本当に感謝したいと思います。本当にご苦労さまでした。そして、ありがとうございます。

【『えひめ丸事件』関係で書いたもの】
『えひめ丸事件』 東京新聞「こちら特報部」で大きく取り上げられました!
不覚にも

【関連ブログ】

「えひめ丸事件」でブログを検索してみると、意外と(というと失礼なのですが)たくさん取り上げられていることを発見し、ちょっと心強く思いました。「忘れちゃいけない」という気持ち、それを大切にしたいですね。

masatyのてんぱり日記:事件の風化
弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」
Cross Road Blues:海の悲劇を忘れることなかれ。
えひめ丸|はみだし講師ラテン系!
ジャアイアンの一人暮らし日記:あれから5年
えひめ丸事件から満5周年 angrydiary
どんぶり勘定:あれから5年
荒野のpengin | えひめ丸

【書誌情報】書名:えひめ丸事件――語られざる真実を追う/著者:ピーター・アーリンダー/翻訳・共著:薄井雅子/出版社:新日本出版社/出版年:2006年1月刊/定価:本体2200円+税/ISBN4-406-03236-3

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

6件のコメント

  1. TBありがとうございました。
    紹介なさっている書籍の存在はぞんじておりましたが、内容は知りませんでした。
    とても刺激的で、ショッキングな内容のようです。
    米軍、日本政府、そして愛知県当局、三者による共犯事件であるとの感をつよくもちました。
    この本を書いた著者に敬意をはらいつつ、事実を知ったものの責任を思わずにはいられません。

  2. kyawaさん、コメントありがとうございました。
    なんだか一方的にTBを送りつけてしまったようで気になっていたのですが、コメントをいただき安心しました。「忘れてはならない」だけでなく、「もっと知らなければならない」事件だと思いました。

  3. 「TBありがとうございます。」
    本書はまだ読んでいませんが、是非読んでみたいと思います。
    米国も愛媛県も、結局は“弱者”を見捨てているのですね。
    “お役所仕事”で犠牲になった方々は死んでも死に切れません。
    勉強になりました。

  4. トラックバックありがとうございました。
    えひめ丸事件(自分の記事でも書いたことですが、これは決して事故ではなく事件だと思います)は地元でも風化しつつあります。
    もちろんアメリカを責める風潮は残っていますが、記事にあったように県の責任は問われていません。

    五年経って、誰も取り上げてないかもしれない事件だから書いた記事でした。
    だから思いを共有する方がいらっしゃることを教えてくださった管理人様には深くお礼を申し上げます。

  5. この事件、真相が究明されずに記憶から消え去った感がありますね。
    しかも、ワルド艦長をはじめ乗務していた数名の処分で終わってしまいました。
    軍事機密の名の下に真相を究明できない日本政府。県の管理責任を追及できない被害者。実習船の目的を履き違えている教育機関。
    本当に情けなくなりますね。
    Gakuさん、TBありがとうございました。

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