地方紙の憲法社説を読む(2)

憲法記念日にまつわる地方紙の社説の続きです。

社説:憲法施行60年 なし崩しの解釈変更は危険だ
[2007年05月03日 愛媛新聞]

 憲法が施行されて60年を迎えたが、憲法をめぐる状況には大きな変化が見られる。1つは憲法改正の手続きを決める国民投票法案。来週にも可決、成立する見通しだ。
 時期尚早との反対論も強い中で与党単独で押し切ろうとしている。国の在り方を根本から変えてしまいかねない重要な手続きに関する法案だ。合意には党派を超えた幅広い賛意が不可欠なのに、どうしたことか。
 与党は民主党と共同修正案づくりで協議していたが、安倍晋三首相が参院選の争点の1つに憲法問題を掲げる考えを表明したため、民主党が反発し協議は決裂してしまった。
 法案に最低投票率の設定を盛り込むべきだ、などの意見も根強く、論議を尽くしたとはいえない。成立を急ぐ強引な手法は将来に禍根を残すだろう。
 もう1つの変化は戦争放棄、戦力不保持をうたう憲法9条の解釈で禁じられている集団的自衛権行使をめぐる動きだ。安倍政権は一部を容認する方向で解釈変更の検討を始めた。
 集団的自衛権は国連憲章で主権国の「固有の権利」と規定されているが、政府は「わが国を防衛するための必要最小限度の範囲を超える」と解釈し、行使できないとしている。
 長年にわたって政府が積み上げてきた解釈であり、それをあっさりと覆すのは国内外への背信行為ともいえよう。
 解釈変更を検討する4類型のうち、米国を狙った弾道ミサイルの迎撃については、ミサイル防衛システム導入当時の福田康夫官房長官が「集団的自衛権に当たり行使できない」との解釈を示している。
 また、公海上で自衛隊艦船と並走する米艦船が攻撃された場合も、反撃できないというのが現在の政府解釈だ。これらを一挙に容認しようというのは、あまりに乱暴すぎる。
 これまでも9条の政府解釈では、テロ対策やイラク戦争への対応で「後方支援」や「非戦闘地域」などのあいまいな概念をひねり出し、自衛隊を海外派遣して日米の軍事的一体化を強めてきた経緯がある。
 今回も4類型だけでなく、なし崩しに解釈変更を拡大する可能性は否定できない。そうなれば事実上の改憲であり、憲法の平和主義を根底から崩しかねない危険な事態だ。
 イラクで人道支援に携わったボランティア団体の前代表は、国際協力では非軍事活動が大事だと力説する。軍隊と1緒だと中立性を疑われ、敵視されるからだ。安倍政権が目指しているのは懸念される方向だ。
 共同通信社の4月の世論調査では憲法改正に57%が賛成しているが、9条については「改正する必要があるとは思わない」が45%で、「必要がある」を大きく上回った。集団的自衛権の解釈も「今のままでよい」が55%と過半数を占めている。
 国民は安全保障分野での改憲に否定的であることが分かる。改憲の機が熟したとは、とても言えまい。安倍政権はこの事実をよくかみしめるべきだ。

社説:憲法記念日 再確認したい平和主義
[秋田魁新聞 2007/05/03 11:00 更新]

 ことしの「憲法記念日」は、昨年までとは趣を異にして巡ってきた。安倍晋三首相は自主憲法制定論者であり、首相在任中の憲法改正に意欲を燃やしている。改憲手続きを定める国民投票法案の与党修正案は先月、賛成多数で衆院を通過し、今国会での成立が確実になった。与党が自民主導で改憲への動きを速めているのである。
 自民党の改憲構想の中心にあるのは結局、戦力不保持を明記した9条第2項の改正であろう。しかし9条の改正を必要とする声が国民の間からわき上がっているのかというと、必ずしもそうではない。
 制定から60年を経て、環境問題や地方自治にかかわる問題など、憲法に盛り込むことを議論の対象にする改憲論議は必要になってきたとしても、世界に宣言した不戦の精神は変えるべきではない。
 改憲を唱える安倍首相の姿勢は、集団的自衛権の行使にかかわる米国からの要求に応えようとする印象が強い。同盟国などに対する攻撃を自国への攻撃とみなし、応戦する権利が集団的自衛権だ。国連憲章では主権国の固有の権利と規定しているが、政府は憲法9条に基づき「わが国を防衛するための必要最小限の範囲を超える」と解釈し、行使できないとしている。
 ところが、日米同盟強化のためには、日本も状況に応じて相応の戦力を行使できる仕組みにしなければならない、というわけである。戦力を行使できるようにするため、憲法9条を改正するにしろ解釈を変えるにしろ、浮かび上がってくるのは米軍と肩を並べて戦線に立つ自衛隊の姿である。
 安倍首相の論理は、端的に言うと次のようなものだ。現憲法には、米国がつくったという制定過程に問題がある。制定時と現在では状況が大きく変化している。このため現在の状況に応じた憲法を国民の手でつくり上げる必要がある?。
 自主憲法の制定は自民党の悲願とされているが、では国民が現憲法を嫌々ながら国の最高法規としてきたのかといえば、そうではない。現憲法の下で敗戦から復興を果たし、平和国家を築いてきた。この歴史と現実は重く受け止めたい。
 戦力不保持については、自衛隊の装備と活動をみれば憲法と現状は矛盾する。防衛庁が防衛省に昇格し自衛隊の海外派遣が本来任務となった現在、自衛隊の武器使用にかかわる議論は憲法との関係から丁寧に議論されてしかるべきだ。安倍首相の初の訪米に合わせる形で、集団的自衛権の行使に関する解釈変更を検討する有識者会議が設置されたことも、その1環と位置付けられる。しかし会議は初めから、集団的自衛権の行使を容認する方向を目指している。
 矛盾を抱えるいら立たしさを解消するため、日本を武力行使が可能な「普通の国」にしたいとの声がある。そこで憲法を改めて「普通の国」になるよりも、戦争放棄と戦力不保持にこだわる「普通でない国」の方がいい。日本はそんな国だと、もっと世界に発信すべきであろうし、そうすれば武力で物事を解決しようとする米国をいさめる立場にもなれるのではないか。

憲法60年(上) 「改正」問う 価値高める道筋探ろう
[中国新聞 2007/5/3]

 日本国憲法はきょう、施行から60年の節目を迎える。だが、還暦を祝うどころか、命脈を保てるかどうかの瀬戸際に立たされているようにも見える。自主憲法制定を党是に掲げ、一昨年秋に新憲法草案をまとめた政権与党の自民党を中心に、改憲を目指す動きが加速している。
 敗戦の苦い教訓に学び、2度と戦争をしないと誓って経済復興に専念できたのは、平和主義に徹する現行憲法があったればこそだろう。こうした評価は、護憲を訴える立場にとどまらず多くの国民に共通する思いではないか。

世界情勢が激変

 その憲法の改正をなぜ急ぐのか。論争の焦点は、発足当初から論議の的になってきた自衛隊の扱いだ。戦後の歩みの中で膨張を続けている自衛隊を憲法にどう位置付けるかのせめぎ合いでもある。今年1月には防衛省が発足し、自衛隊の本来任務に海外での活動も加わった。
 2001年9月11日に起きた米中枢同時テロを境に、きな臭さを増す世界情勢が改正論議を勢いづかせた。北朝鮮の弾道ミサイル連射や核実験、拉致問題への対応も迫られる。
 自主憲法の制定を目指しながら、日米安保条約の改定と引き換えに退陣した岸信介元首相を祖父に持つ安倍晋三首相は、任期中の改憲実現に意欲を燃やす。
 初の訪米に向かう直前、集団的自衛権の憲法解釈の見直しを検討する有識者会議の招集を指示した。今月十8日に初会合が開かれ、今秋には結論を出す予定だ。首相の思いを理解するメンバーが多いとされる。歴代政府が禁じてきた集団的自衛権の一部容認に道を開く狙いがあるとみられる。米軍再編に伴う自衛隊と米軍の「一体化」を加速する効果を期待しているとの見方もある。
 安倍首相の強硬姿勢の真意はどこにあるのか。米側の強い要請に応え、憲法改正に先駆けて究極の「解釈改憲」で事態を乗り切ろうとしているのではないか。あるいは既成事実を積み重ね、改憲への機運を醸成する狙いがあるのかもしれない。いずれにしても、国会の外で政府がなし崩しで「改憲」をリードすることがあってはならない。
 連立を組む公明党の太田昭宏代表もきのう、東京都内の街頭演説で「グレーゾーンの個別的研究は否定しないが、9条の1、2項を堅持し、集団的自衛権の行使を認めないのは当然だ」とくぎを刺した。
 安倍首相をはじめ自民党の改憲派はどんな国づくりを進めようというのか。全体像がはっきり見えないだけに疑問と危惧(きぐ)の念を禁じ得ない。

弱者守るトリデ

 国防論議はもとより、憲法の理念を日々の暮らしに生かすためにも、憲法への関心が高まり、論議が深まるのはいいことだ。しかし、忘れてはいけないこともある。国の最高法規と明記した98条の重みである。
 憲法には、時の権力の暴走に歯止めをかけ、国民を守るための規定も盛り込まれている。国民主権をうたい、個人の尊厳に力点を置いているのもそのためだ。国民の権利を制限する各種の法律や条令は、憲法に反して執行されることは許されない。国民1人1人の人権に最大の価値を置く憲法は「弱者のトリデ」ともいえる役割を担っている。
 為政者の恣意(しい)的な運用を避けるため、憲法改正へのハードルは高い。衆、参の両院の3分の2以上の賛成があって初めて改正が発議され、主権者である国民に提案される仕組みである。
 その憲法改正手続きを定めた国民投票法の与党案が衆院を通過。今月中旬にも参院での採決が予定されている。しかし「過半数の賛成を得るため、最低投票率や得票率の規定を設けないなど、ハードルを意図的に低くしている」との批判もある。
 戦争中のように物言えぬ時代はまっぴらだ。言論の自由を保障する現行憲法の価値をさらに高める道筋を探りたい。

憲法60年(中) 9条の行方 「理想の灯」絶やすまい
[中国新聞 2007/5/4]

 自衛隊は憲法で禁じる戦力に当たるのか。「専守防衛」に徹する国防の基本理念は、本当に時代遅れの考え方なのか。改憲論議の攻防は、平和主義に貫かれた日本国憲法の命運を左右しかねない。戦争の放棄と戦力の不保持を定めた9条の扱いが焦点になるのもそのためだ。
 拉致問題をはじめ、弾道ミサイルの連射、核実験など理不尽な振る舞いを続ける北朝鮮の脅威が、論争の行方をより不透明にしている。平和憲法を心のよりどころにする人たちにとって、強い逆風が吹く時代ともいえる。

被爆地の訴えも

 だが、先の読めない不確実な時代にこそ、日本が世界の中で唯一の被爆国である事実を思い起こす必要がある。ヒロシマやナガサキは、惨禍を乗り越えて怒りや悲しみを不戦の誓いに高めた。核廃絶を軸とする訴えが報復の連鎖を断ち切る道筋を示してきたのではなかったか。辛酸をなめた多くの被爆者の思いは憲法の理念にも通じる。いま1度、「理想の灯」を絶やさないように高く掲げ直し、あすを信じて不断の歩みを続けたい。
 岐路に立つ憲法の現状を映すようなできごとがあった。先月25日、国会近くの憲政記念館であった施行60周年記念式典でのひとこまだ。衆参両院が共催し、三権の長が出席した。
 河野洋平衆院議長は「憲法の下でわが国の部隊が海外で1人たりとも他国の国民の生命を奪うことはなかった。この平和の歩みは誇って良い実績だ」と強調。「憲法論議は幅広い視野に立ち、謙虚に歴史に学ぶ心を持ちたい」と慎重な議論を求めた。9条の重みをにじませた発言だったが、同席した安倍晋三首相の胸にどこまで響いたか。
 初の訪米を翌日に控えた安倍晋三首相は「新しい国づくりに向け、国の姿、形を語る憲法の在り方についての議論が国民とともに積極的に行われることを切に願う」と述べ、改憲への意欲をのぞかせた。
 1連の強硬路線の背景に、一昨年秋の「郵政選挙」で得た衆院の圧倒的多数の議席があることは間違いない。長年の懸案だった防衛庁の省昇格法案や教育基本法の改正を強行。目指す先に改憲を見据える。
 しかし、有権者の中には「憲法改正まで1票に託したつもりはない」との思いを募らせている人も少なくないのではないか。

冷静さ取り戻せ

 共同通信の世論調査では、憲法改正に賛成する人が半数を超しているが、2年前の61.0%から先月は57.0%とわずかながら減少した。警戒感の表れとも受け取れる。
 とりわけ戦争放棄と戦力不保持を規定した9条については、44.5%が「改正する必要があるとは思わない」と回答。前回の調査より微増し「改正する必要がある」は26.0%にとどまる。ほかの世論調査でも同様の傾向がうかがえる。
 改憲路線をひた走る安倍政権に比べ、民意のほうがよほど冷静といえる調査結果である。憲法の改正には、国民投票で過半数の支持が要る。仮に今国会で審議中の国民投票法案が可決、成立したとしても、改正に至る道筋は容易ではあるまい。謙虚さに欠ける政権運営を続けていては、有権者の支持の広がりも期待薄だ。7月の参院選でどんな審判が下るのか。予断を許さない。
 一昨年秋に自民党が発表した新憲法草案には、自衛軍の保持が明記されている。一方で、集団的自衛権を認めるかどうかの規定は見当たらない。「専守防衛」の枠組みが外れた場合、同盟国の要請に応じて、海外での戦闘行為に加わり、命を落とす将兵が出るかもしれない。
 対米追従外交を続けるだけでは、こうした悲劇を防ぐ手だては考えにくい。9条の理念をしっかり守り、新しい時代に対応した国際貢献でも尽力する。それは決して両立できないことではないだろう。

憲法60年(下) 新しい権利 立法や制度の充実こそ
[中国新聞 2007/5/5]

 9条の改正には慎重だが、新しい権利は盛り込むべきだ――。こんな意見の人が各種の世論調査で増えている。衆参両院の憲法調査会最終報告書や自民、民主、公明党も新しい権利の新設を提起している。
 このうち「新しい人権」と呼ばれるのは、環境権、プライバシー権、犯罪被害者の権利などである。特に反対する理由がないようなテーマが並ぶ。憲法の性格と現状に照らし合わせて、いま1度考えたい。

現状では弱いか

 環境権は大気、水、静かな自然環境や文化遺産などを個人が享受できると主張する権利。中の1つ、景観権は1960年代から司法で争われ、東京都国立市のマンション訴訟で住民の利益として最高裁が5年前に初めて明確に認めた。
 プライバシー権は情報化社会の進展に伴い、「自分に関する情報をコントロールする権利」とされる。
 これらは個人の尊重や幸福追求権を定めた憲法13条を主に根拠としている。新たに憲法に規定すべきだとの主張は、制定時には想定されていなかったことや、ほかの権利と衝突した時に積極的に保護される――などの論拠に基づく。
 一方で、「13条で十分」とする識者も多い。新しい人権が十分に保障されていないとしたら、立法や行政、司法がその精神を実現する努力を怠っているという指摘である。
 実際2年前には、自治体が景観地区で建物の制限ができる景観法が完全施行された。尾道市や京都市などはビルの高さを厳しく規制する条例を制定。開発1辺倒だった経済活動とのバランスを探り始めた。
 犯罪被害者の問題は、その苦悩や裁判での配慮のなさといった実態が、当事者の訴えによって知られてきた。支援組織の結成や裁判への参加など官民の多様な動きが出ている。できることはまだまだある。
 地方自治の分野でも、憲法は物足りないとの声がある。小泉政権の三位一体改革が地方にとって不本意に終わったのは、憲法に地方財政の明確な規定がないからだとし、全国知事会が財政や課税の自主権新設を求めているのも1つの例である。
 しかしここでも、地方自治法の改正や独自の条例で改革できる余地は大きいとの見解は根強い。
 例えば東京都杉並区。区政運営の原則と住民参画を保障した自治の基本、プライバシー保護に配慮した防犯カメラ運用、区長の多選自粛といった独自の条例を次々につくった。
 前提には国と自治体を対等な関係にする地方分権1括法がある。憲法や法律に書いていないことを条例で補強する。それが分権時代の自治体の責務だとして、区と議会が政策論議を重ねる。

急ぐ理由がない

 こう考えると、新しい人権や今の地方自治への不満の多くは、行政などが積極的に仕事をしない結果ともいえる。それが憲法問題にすり替わっている面がないだろうか。権利の実現を憲法が邪魔をしているわけではないし、そもそも憲法は良識的な行為を禁じてはいない。
 近年、ワーキングプアや生活保護の切り捨てが問題化している。憲法25条で「健康で文化的な最低限度の生活」を掲げ、国に努力義務を課しているにもかかわらず、である。時代の変化に伴って新たな問題が起き、政治は憲法の精神に近づけようとその都度施策を打ちだす。憲法に書き込めば解決、ではないのだ。
 新しい権利は、「もし改正するなら入れた方がいい」といった程度の位置付けといえないだろうか。ましてや急ぐ必要など全くない。となると、改憲論議の争点は9条に絞られよう。国民に強い異論のない新しい権利を理由にした改憲は、9条改正への「露払い」役になりかねない恐れがある。
 それよりも地方自治、国会、司法の場などで確立するのが先ではないか。そのために私たちは声をあげ、1票を行使するのである。

憲法60年(上) 論議を国民の手に戻せ
[信濃毎日新聞 2007年5月3日]

 憲法をめぐる動きが急である。
 防衛庁を「省」に昇格させる法律は昨年の臨時国会で成立、新・防衛省が発足した。安倍晋三首相は集団的自衛権について論議する研究会を先日、発足させている。平和主義のかなめである9条の足元は、大きく揺らいでいる。
 憲法とセットで定められた教育基本法は、昨年12月に改正された。憲法改正の手続きを定める国民投票法案は、早ければ6月中にも成立する可能性がある。
 任期中に憲法を改正する――。安倍首相は就任以来、繰り返してきた。改正の是非を夏の参院選の争点にする考えも示している。

<自民党案の乱暴さ>

 安倍政権が発足してからの流れを見ると、首相が主導する改憲プログラムが、自民党内慎重派とのあつれきなど各面に摩擦を生じながら、動き始めたようにも受け取れる。
 それでは、自民党内で交わされている改憲論議の中身はどうだろう。国民の広い理解が得られる方向に進んでいるのだろうか。
 困ったことに、これがいかにも乱暴なのだ。
 自民党は2年前、新憲法草案をまとめている。特徴は2つある。
 1つは現行憲法の9条2項、戦力不保持の条項を削って「自衛軍」を持つことを明記したことだ。
 「軍」が新たに日本の社会に登場する。内外の各面わたり、大きな変化が訪れるだろう。
 第2は「国民の責務」を強調し国民の権利に制限を加えたことだ。国民は「国や社会を…支え守る責務を共有」すると定めている。
 「すべて国民は、個人として尊重される」との文言はいまの憲法から引き継ぐものの、「公益および公の秩序に反しない限り」という条件が付く。
 国民は国家、社会の構成員としての側面が強調される。社会の在り方はここでも変容を迫られる。
 安倍首相は著書「美しい国へ」で憲法が米軍の占領時代につくられた経過に触れつつ「国の骨格は、日本国民自らの手で、白地からつくりださなければならない」と述べている。「日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である」とも述べる。

<安倍首相の情念>

 〈この憲法ある限り 無条件降伏続くなり〉。中曽根康弘元首相は1956年、こんな詞を盛り込んだ「憲法改正の歌」を作った。
 安倍首相がよく使う言葉の1つに「戦後レジームからの脱却」がある。首相の言う「戦後レジーム」は憲法を基礎とする戦後の政治体制を指している。元首相ら自民党保守派と共通する情念が、安倍首相にも脈打っている。
 防衛力はなるべく小さくとどめ、力を経済建設に注いで暮らしをよくしていく。世界の安定に尽くす。
 そうした路線が見直されれば、国民生活は大きく変わる。ブッシュ米政権からは歓迎されても、周辺アジア諸国が日本を見る目は変わり、対日警戒心が頭をもたげるだろう。
 憲法は何のためにあるのか、あらためて確認しておきたい。
 憲法は、人々が生まれながらにして持っている権利の行使を妨げられることのないよう、権力を縛るためにある。憲法学の常識だ。「立憲主義」と呼ばれる。
 99条が掲げる憲法尊重義務の対象に国民は挙げられていない。この憲法を守れ、と憲法が命じている相手は国会議員や公務員だ。

<人類の歩みを踏まえ>

 この憲法はそもそも「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」て定められた。前文はそんなふうにも述べている。
 憲法は国民の権利だけが前面に出ている、義務規定がないのはおかしい――。自民党内に根強いこうした議論は、立憲主義を踏まえれば、筋違いであることが分かる。
 今の政治は憲法の問題を任せるには危なっかし過ぎる。見直し論議を国民の手に取り戻したい。
 施行から60年。世界が激動に見舞われる中で、日本の憲法が1度も手を加えられずに元の姿を保ってきたのはなぜか。そこを考えるのが出発点になる。
 理由は1つには、戦争のない世界を求め、戦争の非合法化を進めてきた世界の努力を、日本の憲法はしっかり踏まえていることだ。1929年の不戦条約をはじめ、さまざまな国の憲法や条約が戦争放棄をうたっている。日本は戦争に負けたために、何か突拍子もない憲法を持つに至ったと考えるのは間違いだ。
 憲法が占領軍から押しつけられたものと考えるのも、1面的な見方でしかない。戦争の惨禍が骨身に染みた日本人は、平和憲法を心から歓迎し、60年の間、支えてきた。無理やり押しつけられたものならば、こうはいくはずがない。
 安倍首相が掲げる改憲路線を無批判に受け入れ、身を沿わせるようでは、日本の将来が危うくなる。

    ×    ×

 施行60年の節目に、改正の是非を考える上で踏まえるべきポイントを3回続きで考える。

憲法60年 日米一体化が9条を壊す
[信濃毎日新聞 2007年5月4日]

 本望として散る桜まだ紅し
 長野市の関口1男さん(84)は戦争末期の自作の句を見ながら、こう言った。「憲法9条を変えてしまえば、またあの時の二の舞いです」。
 1944年11月。関口さんは人間魚雷「回天」の基地があった山口県大津島に、整備兵として配属された。人間魚雷は人が魚雷に乗り込んで操縦し、敵の戦艦に体当たりする決死の兵器である。
 笑顔をつくって死地へと赴いた同世代の若者たち…。その時の彼らの表情が、いまも脳裏を離れない。
 「軍事力を強めて、『美しい国』になんかできっこありません」

<戦争体験を踏まえ>

 9条は、憲法の根幹をなすものである。
 1項で、通常の戦争だけでなく、武力による威嚇や行使を永久に放棄すると宣言している。さらに2項で、戦力を持たず、国の交戦権を認めないと厳しい足かせを課した。
 侵略戦争の禁止は、何も日本の専売特許ではない。多くの国が戦争否定の規定を憲法に盛り込んでいる。その中にあって、日本の平和主義は群を抜く。「比類のない徹底した戦争否定の態度を打ち出している」と、憲法学者の芦部信喜さんは「憲法」に書いている。
 制定過程に関しては、さまざまな見方があるだろう。“押しつけ論”も根強い。だが、この条文が先の大戦の惨禍を踏まえてできたことを、あらためて確認しておきたい。
 旧日本軍による戦争はアジア・太平洋諸国におよんだ。犠牲者は国内だけで軍人や民間人が300万人以上。中国、フィリピン、オーストラリアなどの死者は合わせて2000万人以上とも言われている。

<せめぎ合う両論>

 国民の平和への強い願い、近隣諸国からの厳しい目…。その渦中にあって、日本が国際社会で信頼を取り戻し、天皇制を維持しつつ、戦後の再出発を期すためには、9条は不可欠の旗印だった。
 戦後の歴史を振り返ると、9条をめぐる動きは2つに分かれていく。1つは、日米軍事協力の強化と、それに伴う自衛隊の任務の拡大。もう1つは、9条の原則を貫くべきだ、という世論である。
 2つの極は、さまざまな中間的な層を含みながら、拮抗(きっこう)して戦後史を織りなしてきた。
 最初の分岐点は54年の防衛庁・自衛隊の創設である。実質的な軍隊と言えるが、時の政府は自衛隊を「軍」とせずに「隊」とし、防衛庁も「省」ではなく「庁」とした。9条に配慮しての結果だ。
 政府はなぜ改憲に踏み切らなかったのか。世論が許さなかったからにほかならない。
 例えば、56年の参院選は改憲問題が事実上の争点となった。結果は、社会党など護憲勢力が憲法改正の発議を阻止できる3分の1以上の議席を確保し、歯止めをかけた。
 憲法史の古関彰1独協大教授によると、「護憲派」「改憲派」という言葉が定着したのも、この時期である。労働組合など民間団体が改正に反対したことなどで「憲法の平和主義は国民の中に定着した」という。
 2つの極のバランスが崩れ始めたのは、91年の湾岸戦争である。日本の軍事協力を迫る米国に対し、政府は掃海艇のペルシャ湾派遣へと踏み切った。これを皮切りに、政府は海外派遣への道を開いていく。
 重要なポイントは、湾岸戦争以来、「国際貢献」が改憲理由の主流となったことだ。当時、外相を務めた自民党の中山太郎衆院議員は「憲法を変えないとどうしようもないと痛感した」と述べている。
 この後の96年、当時の橋本龍太郎首相はクリントン米大統領と日米安保共同宣言に署名した。「アジア太平洋地域の平和と安定」に向けて、同盟の強化を打ち出したのが特徴だ。国際貢献と言いながら、中身はむしろ自衛隊が米軍と行動をともにする方向が強まったと言える。

<国際貢献論の危うさ>

 陸上自衛隊のイラク派遣は、そのさきがけだった。自衛隊が戦闘が行われている場所へ行くのは、初めてのことだ。
 それでも無事に帰国できたのは、9条があればこそだ。9条はまだ、かろうじて機能している。
 ここにきて、安倍首相は集団的自衛権の研究をする有識者会議を発足させた。米軍が攻撃された場合は自衛隊も阻止できる――。それを検討しようという狙いである。
 極端な場合には、自衛隊が米軍と一体となり日本から遠く離れた場所で武力行使という事態にもなりかねない。国会を経ずに、一部の有識者が論議するテーマではない。
 9条が禁じている課題を、首相は解釈の変更と改憲の両にらみで突破しようとしている。戦後日本の基本政策の変更である。言い換えれば、日本をいままでとは異質の国にするということだ。
 9条の普遍性に目を向け、その理念を世界で実現することを目指すのか。米国の求めに応じ、再び戦争ができる国に進めるのか。
 いま国民に問われているのは、この1点である。

憲法60年(下) 人権を守る思い新たに
[信濃毎日新聞 2007年5月5日]

 妊娠できない娘の代わりに、祖母が孫を産む。夫婦の子どもがほしいと、代理母を求める――。新たな不妊医療が注目を集めている。
 わが子を抱きたい気持ちは痛いほど分かる。だが、なぜ養子ではなく、血のつながった子でなくてはいけないのか…。ある産婦人科医師はそこに違和感を感じるという。
 医療の進歩は人の幸せに役立つはずなのに、保守色の強まる雰囲気の中で、「跡継ぎ」を産めと女性を縛ることにならないか、と心配する。
 戦前、結婚には戸主の同意が必要だった。夫が不倫をしても妻からは離婚を切り出せなかった。女性は自分の財産を管理する力も、子どもの親権も持てなかった。
 1947年に施行された憲法で、法の上での男女平等が実現した。結婚は親が決めるのではなく、2人の同意で成立する。家長支配を否定し、個人の尊重が明文化された。
 それから60年が過ぎた。
 結婚の時期こそとやかく言われなくなり、男性と肩を並べて働く女性も増えた。

<男女平等になっても>

 しかし、「嫁に行く」という言葉は健在で、大半が夫の姓に変わる。妊娠すると7割の女性が仕事を辞めており、育児の負担は母親にのしかかる。離婚したくとも、経済的な面から尻込みする女性が多い。
 憲法がうたう男女平等や個人の尊重の実現は、いまだおぼつかない。
 その上、安倍政権下では「伝統的な家族」を重んじる発言や動きが強まっている。
 その1つが、民法をめぐる国会の動きだ。
 離婚した女性が産んだ子どもの戸籍の扱いをめぐる問題で、「貞操義務や性道徳を考えなければいけない」と、発言したのは長勢甚遠法務大臣である。離婚前に妊娠した子への救済策を否定している。
 現在でも、旧憲法時代につくられた民法の規定が生きている。女性が離婚して300日以内に生まれた子は前夫の子とする規定は、子どもの父親を明確にするという当時の福祉の視点があった。
 しかし、離婚後の妊娠でも早産で日数が足らない場合があるほか、家庭内の暴力などで、離婚より妊娠が先のケースも増えている。前夫の名前を戸籍に残すのがいやで、出生届を出さないままの子どももいる。
 子どもの権利を守るために法律を変えるべきなのに、一部の政治家が抵抗を示すのはなぜか。この問題に手を付けると、女性の離婚禁止期間短縮や夫婦別姓など民法改正論議の再燃につながりかねないからだ。
 法務省の法制審議会は、民法改正の答申を1996年にまとめている。しかし、自民党内の「夫婦別姓は家族のきずなを弱め、家族崩壊の芽をはらむ」との反対で、法案提出すらできなかった。
 300日規定への対応では、自民党内に「家族」をめぐる法律を変えることへのアレルギーが、いまだに強いことが明らかになった。生まれてきた子どもの人権への配慮は、後回しにされている。

<「公益」優先では…>

 個人の尊重が行き過ぎた自由主義になっている、よって勝手な行動を許さず、公に奉仕せよ――。そういった政権の思いが明らかなのが、昨年の教育基本法の見直しである。
 憲法とセットで制定された前の基本法は、個人の価値の尊重と人格の完成を教育の目的に掲げていた。
 改訂後の基本法は、教育の目標に「国と郷土を愛する態度」や「公共の精神」を入れ、個の尊重が薄まった。家庭教育の項目を新設し、家の中の教育に国が踏み込める枠組みができている。
 そして問題の核心、憲法である。
 自民党のプロジェクトチームは2004年、「家族や共同体の価値を重視する観点から」男女平等の規定の見直しを提言している。
 批判を受けて、05年の憲法草案では見直しをとりあえず封印しているが、国民に保障された自由や権利の前に「公益や公秩序」を置いた。「公益」は聞こえのいい言葉だが、権力者の都合でいかようにも解釈できる。国民の自由を縛るあやうさが潜んでいる。

<個を大切にする国に>

 個人として家族が大事と考えるのはいい。だが憲法に「家族が大事」と書くことは、女性に家庭を守る役割を押しつけかねない重大な問題である。
 国があるべき家族の姿を強調すれば、事実婚やひとり親家庭など、多様な生き方を否定することにもなる。家族のきずなを強調するだけでは、少子化、子どもの荒れ、虐待といった問題は解決しない。
 明治、大正、昭和の時代を生きた平塚らいてうは、女性の解放と子どもの権利擁護を訴えた。新憲法と女性参政権を得て「女性の心の底から、大きな、大きな太陽があがるのだ」と宣言した。世界平和の実現のためにも、「憲法を守り抜く」ことが遺言になった。
 女性の権利だけが問題なのではない。1人ひとりを大切にするいまの憲法を守らなくては、こころ豊かな社会は築けない。

論説:憲法施行60年 解釈変更でゆがめるな
[岩手日報 2007/05/03]

 日本国憲法は3日、施行満60年の節目を迎えた。
 愚かしい戦争の過ちと反省を経て、戦争の放棄を明示した第9条に象徴される平和憲法として誕生。戦後日本の平和や民主主義、人権主義の礎となってきたが、ここにきて憲法をめぐる動きが慌ただしさを増してきた。
 改正手続きを定める国民投票法案は既に衆院を通過。中旬の参院本会議で可決、成立する見通しとなっており、改憲が現実味を帯びてきた。
 しかし、同法案が与野党の対立の中で成立しようとしているのは不幸な事態だと言わざるを得ない。
 施行以来初めて定められる国民投票法は、国会が発議する憲法改正案への賛否を、主権者の国民に直接問いかける仕組み作り。憲法調査会で政局とは切り離して審議が進められたいきさつがあり、与野党が党派の利害を越え、民意をくみ取りつつ制度の実現に向けて合意を達成するのが筋だったはずだ。
 1政権の政治的思惑に左右されてならないことはいうまでもない。この基本を無視した安倍政権と、それを許した民主党の責任は重い。

集団的自衛権が焦点

 可決見通しの法案内容自体も十分審議を尽くしたとは言い難い。問題点の検討を先送りするような「付則」が何カ所もあることがそれを物語っている。
 最低投票率制度の必要性や、公務員・教育者の地位利用による国民投票運動の禁止規定、有効投票数の2分の1とされた「過半数」の定義の見直しなど、各方面から問題点を指摘する声が多い。
 政府はまた、安倍首相の訪米にタイミングを合わせ、集団的自衛権の解釈変更に着手。憲法で禁じられている集団的自衛権の行使に関し、一部容認する方向で検討する有識者会議の設置を決めた。
 政府はこれまで、自衛権について「わが国が有する自衛権はあくまで個別的自衛権であり、集団的自衛権の行使は憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示している。
 安倍首相は、一方で改憲手続きの法整備を進めながら、もう一方で9条の解釈改憲に道を開こうとしている。集団的自衛権行使を一部でも認めた場合、これまでの国会答弁との整合性を厳しく問われるのは間違いなく、慎重な議論が求められる。

丁寧な説明欠かせぬ

 日本の国際的役割の増大、経済のグローバル化や情報化社会の進展に伴って改憲の機運がでてきているのは間違いない。共同通信社の4月の世論調査で改憲賛成は57.0%、反対は34.5%だった。
 半面、戦争放棄などを規定した9条については44.5%が「改正する必要があるとは思わない」と回答、「改正必要」の26.0%を大きく上回り、集団的自衛権の政府解釈については「今のままでよい」が54.6%を占め、安倍首相の意気込みと国民の受け止め方の落差を示した。
 わが国は戦後62年間、海外で1人の戦死者も出さず、1発の銃弾も撃ったことがない。これは現在の憲法抜きでは語れない誇るべき歴史だ。
 「戦後レジーム(体制)からの脱却」を掲げる安倍首相は、7月の参院選で「憲法改正」を争点にしたい意向を表明している。ところが憲法のどの部分をどのように改めたいのか、詳しく語ろうとはしない。
 自衛隊のイラク派遣同様、集団的自衛権の解釈変更で既成事実を積み上げ、改憲に結びつけるようなことはあってはならない。

小笠原裕(2007.5.3)

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

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