ふたたび再建される個人的所有について

またまた、生産手段の共同所有の基礎の上に再建される個人的所有についてさえずりました。ちょいと、論点がひろがったかな?

  • @marukenkyu 共産主義は個人の自由な発達を目的とした社会です。だから、大事なのは享受であって、生産手段の問題はそのための手段だと思います。もちろん、生産手段の社会化は決定的な問題なのですが。 posted at 12:46:20
  • @marukenkyu あともう1つ。大谷先生は、「アソーシエイトした社会的個人の所有」を、再建される「個人的所有」のことだとして話を展開されていますが、そのことは論証されているでしょうか? 私が読んだ限り、そのことの論証はなされていないと思うのですが。 posted at 12:49:47
  • @marukenkyu 「自由の国」の箇所でマルクスは、人間の活動領域全体を「必然性の国」と「自由の国」に二分しました。共同占有された生産手段をつかって、できるだけ合理的に生産を行うというのは、あくまで「必然性の国」の話。それが終わったところから「自由の国」が始まります。 posted at 18:43:04
  • @marukenkyu 覚え書きの読み方については、大谷先生に同意します。問題は、そこで言われている「アソーシエイトした社会的個人の所有」と、「否定の否定」の段落で言われている「個人的所有」とが同じものだということは論証されていますか? ということです。 posted at 18:47:56
  • @marukenkyu 61-63草稿の覚え書きの議論は資本論でどう発展されたか、という視覚が必要ではないでしょうか。アソーシエイトした社会的個人の所有は生産手段の共同占有へ。覚え書きにちらりと書かれた大量の生活手段が個人的所有の再建へ。こういう読み方は成り立ちませんか? posted at 18:57:07
  • @marukenkyu だから、共同占有の中身を「アソーシエイトした社会的個人の所有」と説明することは大賛成。それを明らかにしたのは大谷先生の大発見だと思います。しかし、だからと言って、個人的所有も「アソーシエイトした社会的個人の所有」だということにはならないと思います。 posted at 19:01:41
  • 生産手段の問題と共に生活手段をどうするかというのは、マルクスにとって一貫した大問題。共産党宣言では、労働者には失うような財産などないではないかと言ったが、これは一種の「いなし」。共産主義社会で労働者の生活手段がどうなるかという疑問には答えていない。 posted at 19:09:35
  • それに対して、資本論では、生産手段は資本主義時代の成果として共同占有される、それを基礎として、労働者は、資本主義時代に失った生活手段にたいする所有を回復する、と指摘して、この問題に根本的な回答を与えた。ここが、マルクスの共産主義論の画期的なところ。 posted at 19:14:11
  • その回復された所有は、生活手段だけ見れば、小経営の場合の自己労働に基づく所有のように見えるが、生産手段の共同占有に基づくものだから、私的所有の回復ではなく、個人的所有の再建なのだ、というのが「否定の否定」の段落でもマルクスの説明。 posted at 19:16:53
  • 「フランスにおける内乱」で「生産手段、土地と資本を自由な連合した労働の純然たる道具に変えることで個人的所有を事実にしよう」と言っているが、この個人的所有も生活手段のこと。でないと、「多数の人間の労働」と「少数の人間の富」と言っていることに対応しない。 posted at 20:25:58
  • 生産手段の社会化それ自体が目的などということは考えられない。生産手段を社会の手に移すのは、あくまで享受を豊かにするため。それが「自由の国」。「必然性の国」でも、労働はずっと改善されるが、たとえそれがうんと人間化されてもあくまで「必然性の国」。その彼岸にこそ「自由の国」が広がる。 posted at 20:54:39
  • その「自由の国」を実現するために、アソーシエイトした労働者が生産手段をわがものとしなければならない。だから、資本主義から社会主義・共産主義に進む際には、生産手段の社会化は決定的。しかし、そのあとはあくまで生活手段の個人的所有の再建が大事。それによって「自由の国」が拡大してゆく。 posted at 20:58:15
  • @marukenkyu 草稿の個人的所有が資本論の個人的所有と同じだという根拠は? posted at 21:50:28
  • 所有というのは、いつも誰かが何かを所有する。個人的所有と書いてあれば、何でも生産手段の所有のことだというのは思い込み。したがって「明らか」という言葉を何回くり返しても証明にはなりません。 posted at 22:10:57
  • 草稿と資本論は、まったく同じ論理ではありません。前者では、消費手段の所有問題がはっきりしなかった。そこに踏み込んで、社会主義・共産主義の所有問題を全面的に明らかにしたのが資本論。だから、議論の道筋は同じではない。したがって、議論の道筋は同じだから明らかだというのは論証になりません posted at 22:12:48
  • 大谷先生や @marukenkyu さんが、個人的所有の再建を生産手段のことだと解釈されているのは、私もよくわかっています。しかし、それが「明らかだ」と言われるので、僕は、「明らかではないのではないですか?」とお聞きしているだけです。 posted at 22:15:16
  • @marukenkyu 話は逸れますが、前は「マルクスは労働における自由を重視していました。このことを無視する議論はいかなるものであれ、マルクスの主張とはことなる」と言われていたが、こんどは「マルクスが労働における自由『も』重視していた」と言われる。論点が変わっていませんか? 笑 posted at 22:20:55
  • 再建される個人的所有が生産手段の所有であることがそれほど明らかでないように、個人的所有が生活手段の所有のことだという議論がエンゲルスやレーニンの影響を受けた「独自論」だということも、同じように、それほど明らかではない。 posted at 22:24:32
  • 論点はあくまで「まったく明らか」かどうかという点に限られる。そこから先は、それぞれ見解の自由。誰だって、どんな説でも唱える自由がある。 posted at 22:25:35
  • 61-63草稿の「覚え書き」といわれる部分にも、「増大した量の生活手段を生産する」という話がチラと登場する。これこそ、生産手段を社会化する目的は生活手段の生産にある、という証拠。しかし、その論理は草稿では表に出ていない。そこが草稿から資本論へマルクスが発展させたところだと思う。 posted at 22:31:19
  • 「自由の国」「必然性の国」の話を展開したのは、61-63年草稿よりあと。だから、61-63年草稿でマルクスが生産における労働の自由を展開したのだとすれば、第3部草稿では、そこから話を彼岸の自由に発展させたのではないか。これは論証抜きの思いつき。 posted at 22:37:06
  • @marukenkyu そこは見解の相違。見解は違ってもいいのです。根拠となる事実があって、論理の飛躍がなければ。 posted at 23:11:12

議論はまったく平行線ですが、それは何の問題でもありません。研究者がツイッターのやり取り程度でコロコロと自説を変えていては、話になりませんからね。僕は研究者ではありませんが、資本論は高1の時から35年以上かけて勉強してきたんだから、やっぱりそう簡単に譲るつもりはありません。

問題は、「マルクスを読めば明らかだ」ということを繰り返すだけでは議論がすすまない、ということ。私の解釈でも、草稿の「覚え書き」も『資本論』の「否定の否定」も『フランスにおける内乱』も統一的に解釈できる以上、「明らかだ」では論証したことにはなりません。マルクスはこう言っている、だからここは生産手段の所有のことだ、あるいは、だからここは消費手段のことではない、そういう根拠をあげていただきたいのです。

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

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