d.h.は何を言い換えているか?

『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」の第15章「この法則の内的諸矛盾の展開」の第3節「人口過剰のもとでの資本過剰」で、次のような文章が出てきます。

(1)Sobald also das Kapital gewachsen wäre in einem Verhältnis zur Arbeiterbevölkerung, daß weder die absolute Arbeitszeit, die diese Bevölkerung liefert, ausgedehnt, noch die relative Mehrarbeitszeit erweitert werden könnte …; (2)wo also das gewachsene Kapital nur ebensoviel oder selbst weniger Mehrwertsmasse produziert als vor seinem Wachstum, so fände eine absolute Überproduktion von Kapital statt; (3)d.h., das gewachsene Kapital C + DeltaC produzierte nicht mehr Profit, oder gar weniger Profit, als das Kapital C vor seiner Vermehrung durch DeltaC.(MEW S.261-262)

(1)Sobaldで始まる条件節と、;で区切ってそれを言い換えた(2)woで始まる条件節とがあって、それらを受けて、so fände eine absolute Überproduktion von Kapital statt(「そういう場合には、資本の絶対的な過剰生産が起きているだろう」)と言ったあと、ふたたび;で区切って(3)d.h.でまた言い換えをおこなっているわけですが、問題は、このd.h.以下の部分は、どこの言い換えになるのか?ということです。

邦訳を読むと、たとえば新日本出版社の邦訳は次のようになっています。

(1)したがって、労働者人口に比べて資本が増大しすぎて、この人口が提供する絶対的労働時間も延長できないし、相対的剰余労働時間も拡張できないようになれば……、(2)すなわち、増大した資本が、増大するまえと同じかまたはそれより少ない剰余価値総量しか生産しなくなるときには、資本の絶対的過剰生産が生じているであろう。(3)すなわち、増大した資本C+ΔCは、資本CがΔCだけ増大するまえに生産したより多くの利潤は生産しないか、または、それより少ない利潤しか生産しないであろう。(新日本新書、第9分冊、428-429ページ)

訳文の上手い下手はともかく、(3)以下の部分は、その前の「資本の絶対的過剰生産が生じているであろう」という結論部分の言い換えになっていることは明瞭です。長谷部訳でも向坂訳でも岡崎訳でも、その点は同じです。

しかし、これは本当に正しいでしょうか? 実際、言い換えたあとの日本文をつくってみると、「増大した資本が、増大するまえと同じかまたはそれより少ない剰余価値総量しか生産しなくなるときには、増大した資本C+ΔCは、資本CがΔCだけ増大するまえに生産したより多くの利潤は生産しないか、または、それより少ない利潤しか生産しないであろう」という、前提条件と結論部分とがまったく同じというトートロジーになってしまいます。

マルクスが言っていることは難解であるかも知れませんが、こういうわけの分からないことを言っているはずはありません。明らかに従来の邦訳はどれも独文の解釈を誤っていると言わざるを得ません。

この箇所は、その前のところから、「資本の絶対的過剰生産」とは何か、どういう場合に「資本の絶対的過剰生産」と言えるのか?ということを問題にしています。こういう場合には「資本の絶対的過剰生産が生じているであろう」と、例をあげながら説明しているわけです。そういうところで、「資本の絶対的過剰生産が生じている」という結論部分を言い換えたりするはずはありません。

むしろ、(3)以下の部分は、(2)と同じことを、CとかΔCとか記号を使って言い換えた部分と読むべきでしょう。「資本の絶対的過剰生産が生じているであろう」という結論部分は自明なので、(3)のあとに省略されている、と解釈することもできます。そう読めば、(2)と(3)がほぼ同じことを言っていることもきちんと説明がつきます。

したがって、この部分を正しく訳せば、次のようになります。新日本訳を基本にしてありますが、このさい、他の気になる箇所も含めて、訳文をあらためてあります。

(1)したがって、資本が労働者人口に比べて、この人口によって提供される絶対的労働時間を延長することも、相対的剰余労働時間を拡大することもできない……ほどに増大するやいなや、(2)すなわち、増大した資本が、増大する前と同じかまたはそれより少ない剰余価値量しか生産しなくなる場合には、(3)言い換えると、増大した資本C+ΔCが生産するであろう利潤が、資本CがΔCによって増大する前に生産した利潤を超えないか、それよりまったく少ない場合には、資本の絶対的過剰生産が生じているであろう。

マルクスが「資本の過多(プレトーラ)」「資本の絶対的過剰生産」と呼んでいる事態は、非常に簡単明瞭で、ここでもあるように、追加資本を投下したにもかかわらず利潤が増えない、そういう事態です。なるほどそういう事態になれば、資本は「過多」であるし、資本は過剰に生産されたと言えるでしょう。問題は、どういう状況になれば、そういう事態が生ずるか? という点にあります。それについてはマルクスの考え方が正しいかどうか、マルクスが想定したような事態が現実に生じるのかどうかをめぐって論争があります。

【追記】
既訳では、宮川実氏の『学習版 資本論』だけが、ここで私が述べたとの同じ解釈にたって翻訳をされています(同書、第6分冊288ページ参照)。

作成者: GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

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