ペンデレツキ「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」

映画「トーク・トゥ・ハー」にこの曲が登場することに関連して、何かの雑誌に、どこかの誰かが書いていたという話(読売日響第440回定期演奏会 スクリャービン交響曲第5番「プロメテウス―火の詩」)を載せたところ、友人のD井君から、それは『平和運動』7月号に載った尾崎明「犠牲の意味について――ペンデレツキ『ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌』」では?とのメールをいただきました。

その通りです。ご指摘、ありがとうございました。m(_’_)m

それを読むと、この曲について、こんなふうに書かれています。

 もともとこの曲は、ヒロシマの被爆を念頭において作曲されたものではない。
 原題を『8分37秒』という非標題的な作品である。ペンデレツキは、広島の惨状にふれた後、この曲は、そこで犠牲となった人々に捧げることがふさわしいと思い至り、『ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌』としたのである。

尾崎氏は、さらに、「この曲は、被爆の惨状を描写するものではないし、被爆者に哀悼を示す旋律も出てこない」と指摘。重要なことは、ポーランド人であったペンデレツキにとって、「ヒロシマ」は「アウシュビッツ」や「南京」「ドレスデン」などと並ぶ「一つの表象」であると述べ、「重要なキーワードは『犠牲』である」と書かれています。

「犠牲者に捧げる」とはどういう意味か。それは、祈りや鎮魂ではなく、聴く者一人ひとりに、抜き差しならない形で問題をつきつけ、それと格闘することである。破壊と死滅の荒廃を直視し、そのなかから人間をとりもどす営みにこそ、「犠牲」の真意が現われる。

こうのべて、尾崎氏が、映画「トーク・トゥ・ハー」の、ベニグノの自死と、昏睡状態だったアリシアの宿した胎児の「処理」との重ね合わせに、「『犠牲』と『救済』の普遍的な関係を感じさせる」と指摘されているのが、なるほどと思われました。

※『平和運動』は、日本平和委員会が発行する月刊の理論情報誌です。

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