「公の私化」の始まり?

今日の「朝日新聞」15面は「靖国参拝『心の問題』か」と題して、首相の憲法観の是非を取り上げて論じています。

その中に、憲法学者の樋口陽一氏の長い談話が載っています。これが、なかなか一読の価値ありです。まず樋口氏は、次のように、小泉首相の主張が筋の通らないものであることを指摘しておられます。

 小泉首相は、総裁選挙に立候補する時から靖国神社に参拝することを公約に掲げ、靖国参拝を政治の問題としてあえて提起した。その人物が、憲法19条〔思想・良心の自由を保障した条項――引用者〕を取りあげて、一般私人に「『心の自由」』があるのなら総理大臣にも同じように「心の自由」があるという論理を展開するのは真意をはかりかねる。

「真意をはかりかねる」というのは、研究者らしい婉曲な表現で、ストレートに言えば、「筋が通らない」ということで、まったくその通りです。

さらに、樋口氏は、「憲法は公権力の行使者の言動に制限をかけるもの」という当たり前のことを再確認したうえで、小泉首相の論理をこう批判しておられます。

 小泉氏の論理の矛盾は、内閣総理大臣という最高権力者にかけられている憲法の制限を取り払う根拠に、もともとは権力者を縛るはずの憲法を持ち出していることだ。

 続けて、政教分離原則がヨーロッパで生まれた経緯や、日本の政教分離が何よりも国家神道に向けられていること、そして靖国神社が軍国主義の精神的支柱の役割を果たしてきたことを指摘して、首相の参拝が「憲法との間で緊張を強いられるのは当然」と述べられています。
 そして、入学式や卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱の「強制」や、国を愛する責務を国民に押しつけようとする改憲論に触れて、「最高権力者が自ら意のままに振る舞うために『心の自由』を持ち出す一方で、良心に照らして個人がしたくないことを無理にさせるという強制が現実に起きている」と指摘。私が注目したのは、樋口氏がそれを「公の私化」という形で問題にされたことです。

 日本を含めた近代が前提としてきた、権力を制限して個人の自由を守るという立憲主義の考え方とは全く正反対のことが起きているのである。
 また、小泉氏の言動から、公権力を持つ人々が心のままに行動する「公の私化」が日本社会で進んでいるのではないかという危惧を覚える。

 そして、ライブドア事件を例にあげて、「官から民へ」というスローガンのもとで、実際には「公」から「私」へという形で「公共的なものの価値をおとしめ、私益が優先されるという流れが経済の領域で進んでいる」と批判されたあと、樋口氏は、それと同じ「公の私化」が政治の領域でも始まっているのではないかと批判しておられます。

 総理大臣は、日本国というまとまりをもった公共社会の意思を内外に伝達する一番目につく立場にある。自らの言動に対する国際社会の評価を含め、様々なことを考えてメッセージを発すべきなのに、言動に感情や情緒といった心の問題を持ち込むのは、「公の私化」が政治の領域で始まっていることの表れだろう。

 「かつては権力者の心の自由のままに、権力を持たぬ者の自由は切り捨て御免だった。王侯貴族の所有物だった政治が公共の手に移ったのが、近代であったはずだ。その前提が失われようとしているのだろうか」という最後の言葉が重く訴えてきます。

※引用は全て「朝日新聞」2006年3月2日付朝刊から。

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