岩城宏之氏が死去

指揮者の岩城宏之さんが、本日未明、亡くなられたというニュースが流れています。

去年10月にショスタコーヴィチの「森の歌」を聴いたのが最後になってしまいました。7月に東フィルのオペラシティ定期への出演が予定されていたのですが…。心からご冥福をお祈りします。

指揮者・岩城宏之氏が死去(読売新聞)

指揮者・岩城宏之氏が死去
[読売新聞 6月13日14時42分更新]

 日本を代表する指揮者でエッセイストとしても活躍した岩城宏之(いわき・ひろゆき)さんが、13日未明、死去した。73歳。告別式の日取りと喪主は未定。
 東京生まれ。東京芸大在学中の1954年、NHK交響楽団の副指揮者に就任し、56年にデビュー。
 オーストラリアのメルボルン交響楽団首席指揮者などを歴任した後、88年に日本初のプロの室内楽団、オーケストラ・アンサンブル金沢の設立に尽力。同楽団の音楽監督を務めていた。ベルリン・フィルやウィーン・フィルの指揮台にも立った。
 2004年と05年の大みそかには、ベートーベンの交響曲全9曲を一気に演奏するマラソン・コンサートを敢行。今年に入ってからも車いすで指揮を続けた。
 インスタント・コーヒーの出演の他、「棒ふり」と名乗った軽妙なエッセーでも人気を集め、「フィルハーモニーの風景」で91年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。96年紫綬褒章を受賞した。2003年に日本芸術院会員。妻はピアニストの木村かをりさん。

 さらに23面に続きの記事が載っていて、5月28日に東フィルを指揮して武満徹の曲を演奏する予定で、26日、車いすでリハーサルにやってこられたものの、重度の貧血などでめまいを訴えられて、結局指揮を断念されていたそうです。

嗚呼、こんなことなら大晦日のベートーベン交響曲全曲演奏会、聴きに行くんだった…。合掌。

【追記】
岩城さんのエピソードがいろいろと紹介されています。

EK創設、岩城宏之さん死去(朝日新聞 マイタウン石川)

OEK創設、岩城宏之さん死去
[asahi.com マイタウン石川 2006年06月14日]

 ≫≫「金沢」世界へ指揮≫≫4月、県立音楽堂でタクト

 13日に亡くなった岩城宏之さんは、「音楽の街・金沢」のイメージを定着させた最大の功労者だった。オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)を設立し、音楽監督として日本を代表する「室内オーケストラ」に育て上げた。関係者や岩城さんを知る人から、惜しむ声が相次いだ。
 岩城さんが金沢にオーケストラを作ろうと決心したのは70年代後半。すでに「イワキ」の名は世界に知られていた。かつて北陸3県の演奏旅行で最も客が集まらなかった金沢。その地をあえて選んだ理由について、朝日新聞の取材に「洋楽を拒否するのは、邦楽に自信と誇りがあるから。工芸品から料理まで数多くの文化の花を開かせている。洋楽も根付く可能性が高いと思っていた」と答えている。
 県などに働きかけ、88年、OEKを設立。オーケストラの名前に文化の薫りがする「金沢」を使用する一方で、メンバーは実力本位で世界から公募した。積極的に海外でも公演。「プロはアマチュアと違って厳しいステージのみで上達する」というのが持論だった。
 金沢との縁はOEKだけではない。01年に完成した県立音楽堂の芸術総監督にも就任した。旧制中学時代には、空襲で東京を焼け出され、金沢に疎開。終戦は金沢で迎え、学校の先生から聞いた言葉が音楽の道へ進むきっかけの一つになる。「これからは、鉄砲を捨てて文化の兵隊さんになろう」
 岩城さんの音楽人生は、病との闘いでもあった。頸椎後縦靭帯骨化症(けいついこうじゅうじんたいこっかしょう)、胃がん、咽頭(いんとう)がん、肺がんなど30回近く手術を繰り返したが、その度に不死鳥のごとく復帰してきた。今年4月28日に県立音楽堂であった演奏会でも車いすでタクトを振ったばかり。それだけに、訃報(ふほう)は関係者にとっては衝撃だった。
 10年以上前から、岩城さんが訪れていた金沢市柿木畠にあるスペイン料理店「カサ・デ・リブ金沢」。今年に入ってからも2度ほど訪れたといい、オーナーシェフ松田登さん(57)の妻の千鶴子さん(52)は「びっくりした」と何度も話した。OEKの専属医「ドクター・イン・レジデンス」として海外公演に同行し、楽団員の健康管理をしていた川北篤・川北病院理事長(75)は「OEKを世界のオーケストラにしようと一生懸命な人でした」と偲(しの)んだ。
 OEKのメンバーに岩城さんの死が知らされたのはこの日午後2時半ごろ。リハーサル中の約40人に山田正幸ゼネラルマネジャー(63)が説明し、全員が舞台で約1分間の黙祷(もくとう)をささげた。
 コンサートマスターの松井直さん(41)は「ある程度覚悟していたが、残念です。岩城さんに怒られないよう、あす(14日)のコンサートでもしっかりと演奏したい」と話した。
 今月1日、山田さんが入院中の岩城さんを見舞った際、話は出来なかったが、両腕は小さく円を描いていたという。傍らにいた岩城さんの妻でピアニストの木村かをりさんに聞くと、「タクトを振っているんですよ」。
 最後まで、タクトを振り続けた人生だった。

岩城氏死去 岡山に音楽の種まく 功績計り知れない(山陽新聞)

岩城氏死去 岡山に音楽の種まく 功績計り知れない
[山陽新聞 2006年6月14日掲載]

「いい音」にこだわり

 指揮者・岩城宏之さんが13日死去した。岩城さんの舞台は世界だった。と同時に「いい音にベルリン・フィルも学生もない」と肩書に頓着せず、岡山県内にも音楽の種を幾つもまいた。
 「大学嫌い」を公言する中、唯一かかわったのが、くらしき作陽大(倉敷市玉島長尾)。松田英毅学長(68)は「日ごろの練習ではこれ以上厳しい人はいないくらい厳しかった。どれほど多くの学生が貴重な体験をしたか」と悼む。プロの楽団員を学生と交互に座らせての指導など「面白いこと」を次々に打ち出し、徹底的に「いい音」にこだわった。
 特に関係者をあっと言わせたのが1997年、学生を率いてクラシックの名門・サントリーホールで大成功を収めた東京公演だ。難曲ぞろいで無謀との前評判の中、「先生の『とにかく音楽が好きだ!』という情熱が学生に乗り移って、必死で演奏させた」と、ホルンで出演した同大職員山田敬彦さん(32)は思い返す。

東京にいると、ついつい東京でオケを振っている岩城さんばかりを思い浮かべてしまいますが、こうやって地方紙の記事を読むと、地方に本物のクラシックを根付かせるために努力されてきたんだなと思われました。

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  1. えすどぅあ - trackback on 2006/06/14 at 00:18:06

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