終戦記念日の社説あれこれ

終戦記念日にあたっての各紙の社説をチェックしてみました。

北海道新聞は、戦争責任の問題を取り上げ、「事実を事実としてとらえる前に自虐的、東京裁判史観などのレッテルを受け入れてしまう」風潮を批判しています。中国新聞は、米軍再編にふれて「米軍の世界戦略に自衛隊を組み込む『軍事一体化』そのものではないか」と指摘しています。戦争の性格について様々な議論があるけれども、「未来を築く作業は、過去の過ちを正しく知ることから始まる」(神奈川新聞)という立場を共有したいものです。

終戦の日に考える*戦争責任を問い直す重み(北海道新聞)
終戦記念日:「不戦の誓い」、今新たに(神奈川新聞)
終戦記念日・静かに平和祈念したい/体験者の願い次世代にも(琉球新報)
社説 [61回目の「8・15」] あらためて専守防衛を(沖縄タイムス)
社説 61回目の「8・15」/平和への願いを呼び覚ます日に(神戸新聞)
終戦記念日 61年前の誓いを原点に(中国新聞)

終戦の日に考える*戦争責任を問い直す重み
[北海道新聞 8月15日]

 極東国際軍事裁判(東京裁判)を研究している立教大学の粟屋憲太郎教授が「研究者として衝撃だ」(雑誌「本」八月号)と危機感を訴えている。
 東京裁判の内容が若い世代ではほとんど知られていない。一方でこの裁判や先の大戦の知識が乏しい人ほど現状の靖国神社を肯定する傾向が、世論調査などで分かってきたからだ。
 東京裁判は六十年前の一九四六年五月に開廷した。戦争指導の責任を問われたA級戦犯二十八人のうち病気と途中死亡を除く二十五人が有罪とされ、うち七人が絞首刑に処された。
 裁判は敗戦後の日本に計り知れない衝撃をもたらし、戦後のあり方に決定的な影響を与えた。にもかかわらず裁判のもつ意味が継承されていない。
 昭和史を研究する保阪正康氏も若い世代の現状を心配する一人だ。
 大学で、日本がいかに無謀な戦争を戦ったかを講義すると、学生から必ずといっていいほど「先生は自虐史観ですね」と言われるという。
 保阪氏は「私は自省史観だ。批判すべきは批判する」と答えているというが、事実を事実としてとらえる前に自虐的、東京裁判史観などのレッテルを受け入れてしまう若者の姿が浮かぶ。

*今に突きつけられた課題

 小泉純一郎首相が内外の反発を無視して靖国神社参拝を続けてきた。一方で、昭和天皇がA級戦犯の靖国合祀(ごうし)に不快感を表明したことを示す、元宮内庁長官メモが最近発見された。
 これらは、「あの戦争とはなんだったのか」という問いを、戦後六十一年を経た今の時代に突きつけている。
 将来を担う世代にこそしっかり考えてもらいたいと思う。その世代が、判断する知識を持ち合わせなかったり、レッテルを張って分かったつもりになったりしているとすれば事態は深刻である。
 東京裁判には「勝者による敗者の裁き」という不満がつきまとっている。このため「裁判は正当か」という議論が長く続けられてきた。その一方で、日本自らの戦争責任を問おうという動きは乏しかったといえる。
 さまざまな問題が起きている今を、戦争の問題をあらためて考える機会にしてはどうだろうか。

*次を担う世代のためにも

 世論も変わってきた。無謀な戦争に突入した責任や、敗戦が避けられない状況になっても戦争を続けた責任をただそう。今そうしなければ、将来に悔いを残すという考えが広がっている。
 出版、新聞などにそうした動きがある。曖昧(あいまい)にされてきた日本の責任を問い直すことは、次の世代のためにも意義あるものだろう。
 戦争責任を考える場合、四一年十二月八日の日米開戦前後の検証だけでは不十分だと指摘する専門家は多い。
 たとえば、二八年の張作霖爆殺事件や、三一年の満鉄線爆破によって始まり満州国建国に至った満州事変は、いずれも日本軍の謀略だった。これらの事実は戦前・戦中は伏せられ、国民は東京裁判によってはじめて知った。
 満州事変で政府は不拡大方針をとったが、現地の中堅エリート将校の暴走を止められず、その責任を問うこともなく侵略の道を歩んだ。
 軍の横暴がまかり通ったのは、五・一五事件(三二年)、二・二六事件(三六年)など、軍が血なまぐさい事件を度々引き起こしたからでもある。
 日中戦争、日米開戦、終戦に至るその後の経過すべてをここで検証する余裕はないが、歴史を顧みれば、軍部の根拠なき強気と、それに引きずられた政府の責任を直視せざるを得ない。

*裁判批判で済まされるか

 戦争を振り返るとき、昭和天皇の存在はどうとらえられるだろうか。
 天皇が日中戦争の拡大を望まず、日米開戦に消極的だったことを示す資料は数多い。しかし戦争は天皇の名で行われ、多くの兵士が天皇のためだと信じて戦い、戦場で倒れた。
 側近の日記は、天皇自身が敗戦の責任をとって退位する可能性を考えたことを示している。だが、占領行政の混乱を恐れた米国は、東京裁判で天皇の責任を追及しない方針をとった。
 問題は立ち消えになり、新憲法に基づく象徴天皇を国民は受け入れた。
 東京裁判では「平和に対する罪」や「人道に対する罪」が問われた。ならば東京大空襲や広島、長崎への原爆投下で多くの市民を死に追いやった米国の責任をなぜ問わないのか。そもそも罪状は後からつくられたものではないか。そんな疑問は今もくすぶる。
 だが、だからといって裁判は不当だと非難するだけで済むだろうか。アジアの国々を侵略し深い傷跡を残した責任と、膨大な犠牲を国民に強いた責任がそれでなくなるわけではない。
 日本は五一年のサンフランシスコ講和条約で東京裁判受け入れを約束し、国際社会に復帰した。条約で一部を除いて賠償責任を免れた日本は、苦しい復興期を経て経済大国に成長した。
 講和条約は日本が選んだ戦後の枠組みであり、憲法とともに今の姿の基礎をなす。戦争指導者を有罪とし、天皇を免責した裁判を「強いられたものだから無効だ」という一部の主張は、国際的にも国内的にも通用しない。
 現実は現実としてまず受け入れ、冷静に戦争をみつめ直す。若い世代を含めて、その努力が今必要だろう。

終戦記念日:「不戦の誓い」、今新たに
[神奈川新聞 2006/08/15]

 六十一回目の終戦記念日である。戦争に敗れた年に生まれた赤ちゃんが定年を迎え、第二の人生に入ろうかという歳月。社会が、戦争を知らない世代だけになってしまう日もそう遠くはない。
 戦いの記憶を語り継いでいく努力を怠ってはならない。戦争の時代を生きて、人が殺し合うことの不条理を体験した人たちから学び、次の世代に伝えていく必要がある。
 戦争で死んだ無数の人たちを悼むとともに、生きながらえ、不戦の誓いをたてた人たちにも思いをはせたい。平和の尊さ、争いのない穏やかな日々を営むために、今を生きる私たちに何が求められているのか、あらためて考えてみたい。
 あの夏の日、多くの国民はラジオから途切れ途切れに聞こえる、初めて耳にした昭和天皇の声で、戦争に敗れたことを知った。相次ぐ空襲で国民の生活は疲弊し、三年八カ月に及んだ戦いの日々は痛ましい記憶のみを残した。
 県内では毎年、終戦記念日に合わせ、そうした悲惨な戦いの記憶を語り合い、新たにすることで、二度と戦争を起こさない誓いを確かなものにする催しが続けられてきた。横浜市中区の日本新聞博物館では今、日本が戦争に突き進むきっかけとなった満州事変から敗戦までの十五年間を、写真家・江成常夫氏の作品と、当時の戦況を報じる新聞でたどる企画展が開かれている。
 守備隊が全滅した太平洋上の島々に朽ち果てるままの砲台や将兵らの遺品。事変の発端となった満鉄の爆破を中国軍の謀略とし、ミッドウェー海戦を日本軍の勝利と報じる紙面。戦争とはいったい何なのか、展示された写真と新聞が教えてくれる。
 国民は敗戦という無一物の中から立ち上がり、豊かさを追求する旺盛な意欲と勤勉さで、類例のない経済発展を成し遂げた。焼け野原の街の姿など想像もできない繁栄を駆け足で手に入れた。そうした戦後の軌跡は誇っていい。
 しかし、応召の末に祖国から遠く離れた島々で戦死した将兵や、戦火に巻き込まれて死んでいった島民らの悲憤、とりわけ、日本軍が攻め入ったアジア諸国の人たちが被った理不尽な災禍を忘れてはならない。未来を築く作業は、過去の過ちを正しく知ることから始まる。日米がかつて太平洋で戦ったことを知らない若者すらいる現実。戦争の愚を語り継いでいく試みは、ますます重要になるだろう。
 小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題をめぐり、日本と中国、韓国などアジア諸国との関係が悪化している。戦争は長い歳月を経てなお、暗い影を落としたままである。互いに立場を言い募るだけでは問題は解決しない。過去を踏まえ、何が求められているのか、冷静に考えなければならない。

終戦記念日・静かに平和祈念したい/体験者の願い次世代にも
[琉球新報 2006-8-15 9:46:00]

 61年目の終戦記念日が巡り巡ってきた。先の大戦で亡くなられた戦没者を追悼し、平和を祈念する日だ。今年はどうも静かに平和を祈念できそうにもない。小泉純一郎首相の靖国神社参拝がほぼ確実とみられているからだ。
 自民党の山崎拓前副総裁は「公約を守るという立場で参拝すると思う」と述べた。これは2001年の自民党総裁選の候補討論会で「首相に就任したら8月15日に、いかなる批判があろうとも必ず参拝する」との公約を実行するとの見方を強調したものだ。

小泉首相参拝へ

 小泉首相の任期は9月までで、公約を実現するためには、最後の機会となることなどから、参拝との見方が政界などで広がっている。
 靖国参拝問題では、このところ大きなニュースが続いている。7月には昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとの元宮内庁長官のメモが明るみに出た。今月に入って、小泉後継有力候補の安倍晋三官房長官が4月に靖国神社を参拝したことが発覚した。
 麻生太郎外相が「靖国神社の自発的解散後に国営化を」と提言した。
 これまでにもA級戦犯分祀(ぶんし)、靖国神社の非宗教法人化、国立追悼施設の建設など、いくつかの打開策が模索されてきたが、いずれも具体化のめどはまだ立ってない。
 現状での首相の靖国参拝には、憲法20条の政教分離の原則に触れるのではとの憲法問題。アジア近隣諸国、とりわけ中国、韓国との外交問題がある。
 一国の首相が「心の問題」と説明して靖国参拝を続けることは近隣諸国からは理解してもらえず、反発を受けるだけだろう。国益にも反する。
 小泉首相の靖国参拝には反対だ。自制してほしい。静かに平和を祈念する本来の終戦記念日を迎えたい。
 61年前の8月15日。沖縄では6月23日に旧日本軍の組織的戦闘は終わったが、その日になっても戦争が終わったことを知らず、知っていても捕虜になることを拒むなどして南部の壕や北部の山中などを逃げ回って、生死をさまよう避難生活を送っていた人たちもいた。
 米軍の日本軍敗残兵の掃討作戦に巻き込まれたり、日本軍にスパイと疑われて処刑されたりして犠牲になった人たちも少なくない。
 20万余人が犠牲になった沖縄戦では、戦火が激しくなると日本兵は一般住民を守るどころか、壕から追い出し、食料を強奪したり、スパイ容疑で殺害したり、軍の命令でマラリアのはびこる山岳地帯に強制退去させたりした。

不戦の誓いの日

 戦争は人が人でなくなる。人を狂わせる。平時では考えもできないことが起こってしまう。
 戦争は二度としてはならない。終戦記念日は“不戦”の誓いの日でもある。
 国内では北朝鮮のミサイル脅威を背景に、「独立国として憲法の範囲内で国民を守るために限定的な(敵地攻撃)能力を持つのは当然」との防衛庁長官が発言した。専守防衛との整合性が問われる提起だ。
 イラクでは、陸上自衛隊は撤収したものの、航空自衛隊の任務はバグダッドまで拡大されている。
 これらの防衛、自衛隊の海外派遣、国際平和協力の在り方の問題などについては、冷静かつ丁寧な論議が必要だ。
 世界に目を広げると、レバノンでのイスラエルとイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとの戦闘は国連安全保障理事会の停戦決議を受け、停戦が実現したが、一カ月余の戦闘では双方で1100人以上が死亡した。まだ戦闘への不安が残る。
 イラクでは戦闘状態がまだ続き、宗派戦争の様相まで呈し、いまだに収拾の見通しがつかない。アフガニスタンでも戦争状態が続いている。
 長崎原爆の日の平和宣言の中にもあったが、「人間はいったい何をしているのか」と思う。
 広島、長崎での被爆者、沖縄戦などの体験者の高齢化が進み、被爆、戦場の悲惨な状況の語り部が少なくなりつつある。
 わたしたちは、体験者の平和への願いを受け継ぎ、次世代に伝えていく責務がある。
 平和への共感と連帯がより大きな力となっていけば、平和な世界が広がっていくはずだ。

社説 [61回目の「8・15」] あらためて専守防衛を
[沖縄タイムス 2006年8月15日朝刊]

外務省が「極東条項」削除案

 歴史には「もし」という言葉はない。しかし、もし日本が太平洋戦争で沖縄を本土決戦の捨て石にする前に降伏していたら、沖縄戦はなかっただろう。広島、長崎への原爆投下ももちろんなかったに違いない。
 これと同じような例えが日米安全保障条約にもある。一九六〇年の安保条約改定に向けた交渉の初期段階で、外務省が「極東条項」を削除する案をまとめていたことが今年三月の外交文書公開で明らかになった。
 極東条項は、米軍の日本駐留目的として「日本の安全への寄与」に加え、「極東における平和および安全の維持への寄与」を掲げたもので、旧安保条約に盛り込まれていた。
 削除案が作成されたのは、これを残した場合、アジア地域での米国の軍事行動によって日本が戦争に巻き込まれることになりかねない、という国民不安が背景にあったようだ。
 削除案は最終的に実現せず、極東条項は改定された現在の安保条約に引き継がれている。しかし、当時の外務省が日本防衛に限定した安保体制の枠組みを模索していたことをうかがわせる。
 もし日本が極東条項の削除を求め、米国がこれに応じていたら、復帰後、安保条約の下に組み込まれた沖縄の米軍基地も日本防衛のためのみの基地になっていただろう。今日のように沖縄から直接、湾岸戦争やイラク戦争に出撃することもなかったに違いない。
 だが、米国にとって在日米軍基地はアジア、中東への前方展開の足場であり、特に沖縄基地はアジア戦略の要として本土復帰後も自由使用するのが米国の意図だった。
 外務省の極東条項削除案が表舞台に出なかった理由も、そこからうかがい知ることができる。
 問題は、こうした国の針路を左右する重大な選択が安保条約、特に極東条項との関係を十分吟味しないまま、なし崩し的に実施されてきたことだ。
 日米同盟の進展に伴い、今や米軍を支援する自衛隊の活動も極東の枠を踏み出しインド洋やイラクにまで拡大、さらに全世界を対象とする方向に変質しつつある。

相次ぐ自衛隊の海外派遣

 戦後六十一回目の「8・15」が巡ってきた。だが、悲惨な第二次大戦を教訓にひたすら平和国家を目指してきた日本は今、「いつか来た道」への危険な流れの中にいることをあらためて感じずにはいられない。
 自衛隊が初めて海外出動したのは九一年、湾岸戦争後のペルシャ湾への掃海艇派遣だった。翌九二年には国連平和維持活動(PKO)協力法、九九年には周辺事態法が成立した。
 さらに、二〇〇一年の「米中枢同時テロ」を受けて、テロ対策特措法が成立し、海上自衛隊がインド洋で米艦船などの給油活動に踏み切った。
 そして、陸上自衛隊が二年半にわたってイラクへ出向き、事実上の戦地派遣という戦後の安全保障政策の大きな分岐点となった。
 小泉内閣の五年余間に、米軍再編などを含め米軍と自衛隊の一体化が大幅に進んだといえる。
 専守防衛が任務の自衛隊を海外派遣するに当たっては、集団的自衛権の行使やシビリアンコントロール(文民統制)の問題をはじめ常に厳格な歯止めが必要であるのは言うまでもない。
 小泉政権は九月で幕を閉じるが、同盟国支援の名の下に強引な憲法解釈で自衛隊を派遣した首相の判断の是非は今後も問い続けなければなるまい。

北のミサイルに先制攻撃論

 七月五日の北朝鮮ミサイル発射を契機に、額賀防衛庁長官ら政府、自民党幹部から「敵基地攻撃能力の保有を検討すべき」との発言が相次いだ。
 日本は北朝鮮のミサイルによって直接脅威にさらされる距離にあるため、国民の不安感は大きい。米軍嘉手納基地への迎撃ミサイル・パトリオットの配備計画にも拍車を掛け、逆に県民不安を増幅させている。
 だが、「目には目を」とばかりに、敵基地攻撃論を持ち出すのは先制攻撃論につながりかねない。専守防衛の枠を踏み外し、憲法の趣旨からも逸脱し許されるものではない。
 小泉首相の靖国神社参拝問題で関係悪化が著しい中国や韓国を含め、アジア諸国に無用な警戒感を抱かせぬよう冷静な対応が必要だ。
 六十一回目の「8・15」を迎え、自衛隊の国際平和協力活動の在り方や首相の靖国参拝問題を含めていま一度徹底的に論議していきたい。

61回目の「8・15」/平和への願いを呼び覚ます日に
[神戸新聞 2006/08/15]

 セミしぐれが響く夏の盛りに、ことしもまた終戦記念日が巡ってきた。
 あの日から六十一年になる。日々、戦争の記憶が薄れゆくが、平和の手ごたえはどれだけ増しただろう。「靖国」をめぐって中韓との関係が冷える一方、日米同盟、大量破壊兵器への備えが声高に語られる。日本はどこに向かいつつあるのか。むしろ、漂うのは漠然とした不安である。
 あらためて、きょうという日がもつ重みをかみしめてみたい。

        ◇

 さまざまな戦争体験を県がまとめた「共生と平和の世紀をめざして-兵庫の援護50年」のページをめくってみる。六十一年前のきょうの様子を、たとえば神戸市の平川満里子さんは、こう記している。
 「長い長い夜が明けて、窓を開けると早朝から珍しく飛行機の爆音が聞こえない」 「…憤り、無念さ、持って行きどころのない悔しさ。それなのに身体のどこかで『ほっと』した安堵(あんど)感」
 おそらく、あの日、だれもが抱いた印象に違いない。奥底にあったのは「二度と戦争はいやだ」という願いだったろう。
 現在、当たり前のようにわたしたちの身の回りにある平和と繁栄は、そんな「8・15」から始まった。
 しかし、いまや戦後に生まれた人が国民の七割以上を占め、戦争体験の風化が着実に進む。人々の感じ方の変化に、驚き、たじろぐことも珍しくはなくなった。

変わる戦争への意識

 今春の内閣府「自衛隊・防衛問題に関する世論調査」は一つの例かもしれない。
 日本が戦争に巻き込まれる「危険がある」との回答は45・0%で、過去最高を記録した。「危険がないことはない」を含めると全体の八割近くを占め、「危険はない」とみる人は五人に一人もいない。
 北朝鮮の核や多発するテロなど、最近の国際情勢が背景にあるのは間違いない。それにしても、いま「戦争」が、ここまで切実に感じられていることに、時代の移り変わりを感じるほかない。
 それでも、日本は痛切な反省に立って戦争放棄を誓った。海外での武力行使を許さない憲法を守っている。現に、戦争にかかわったことはない。「だから…」との見方に、こんな事実が突き付けられる。
 昨年六月二十三日、イラクのサマワ。陸上自衛隊の車列のそばで爆発が起きた際、隊員は銃に実弾を装てん、戦闘態勢を整えた。発砲が許される緊急事態まで紙一重だったことが、最近になって分かった。
 たしかに「一発も銃弾を発することなく、一人の死者も出さずに任務を果たした」(小泉首相)。だが、一歩間違えば戦後、自衛隊が経験したことがない状況に陥る危険もあったことは軽視できない。
 もちろん、こうした事例は戦後日本の内外情勢を抜きには語れない。
 冷戦体制が崩れ、わが国を取り巻く環境も複雑になった。国の安全や国際社会での役割について、より踏み込んで考えなければならなくなったのは確かだ。脅威が現実のものになれば、備えも欠かせない。
 とはいえ、動きは急である。とりわけ五年前の米中枢同時テロ以降が際立つ。
 小泉首相はブッシュ米政権が掲げる「テロとの戦い」に歩調を合わせ、自衛隊の海外活動が広がった。日米の軍事一体化が進む。さらに北朝鮮がミサイル発射を強行すれば、敵基地攻撃論が当然のように語られ、議論が交わされる。
 それぞれ曲折はあっても、一つの方向に動いてきた。日米関係は大切だとはいえ、再び危うい道に踏み出しているのではないか。平和の旗印は守れるのか。懸念する声はあるが、流れは変わらない。
 わたしたちの意識の中で、戦後日本の出発点は遠くなるばかりである。

「語り継ぐ」を大切に

 終戦記念日を前にした丹波市の人権学習交流集会で、シベリア抑留の経験がある芦田史朗さんが「生かせ命尊し-捕虜3年」と題して中学生たちに語りかけた。
 極寒の収容所生活や仲間との支え合い。聞き終わった生徒たちからは「実感がわかない」「そのときも戦争がどんなものか、よく分からないから、あんなことになったと思う」など、感想がでた。
 不幸なことに、いまもこの世界で戦争は絶えない。レバノンからは、逃げまどう市民らの姿が連日のように伝えられた。
 だが、テレビ映像だけをみていると、どこか遠い別世界の出来事に映ってしまうことがある。本当の痛みは、ますます分かりにくくなっているのではないか。
 それだけに、戦争を知る世代が経験を語って聞かせる機会は貴重だ。県は、戦争体験集の二作目づくりを始めている。戦争というものの実相を広く語り継ぐために、大切にしたい取り組みである。
 大きな流れの中では、小さな動きかもしれない。しかし、こうした地道な努力の積み重ねがあってこそ、間違っても同じ道を歩まないという国の未来につながる。
 まずは一人一人がいま、立っている足元を見つめ直し、考えたい。平和な国への第一歩となった「8・15」との距離の広がりを、しっかり認識することだ。
 きょう六十一回目の八月十五日を、そんな一日にしたいと思う。

終戦記念日 61年前の誓いを原点に
[中国新聞 2006/8/15]

 終戦記念日を迎えた。人々が六十一年前、平和は何物にも替え難いと実感した日である。しかしレバノンで、イラクで、戦火はいつ絶えるのだろうか。英国では旅客機同時テロ計画が摘発された。暴力と報復の連鎖はとどまるところを知らないかのようだ。
 「今度の戦で つらく悲しくみじめな目にあった私たちは…のびのびとおだやかに生きることが…大切であると信じるようになった」。作家の井上ひさしさんが、子どもむけに「翻訳」した憲法前文の一部である。井上さんは、戦争放棄を掲げる憲法を「話し合いですべてを解決しようという究極のかたち」と高く評価する。
 自らの主張をどこまでも押し通したりせず、相手の考えや立場を理解する。暴力でなく話し合いによる解決を目指した国づくりの出発点は、六十一年前のきょうにあった。国内だけでなく国際社会へ向けた決意でもあったはずだ。しかし広める努力は十分だったか。
 イスラエルとレバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとの戦闘で先月末、子どもや民間人の犠牲が相次いだ。それを受けてベイルートの国連施設にデモ隊が殺到、窓ガラスなどを破壊する事件が起きたのが忘れられない。
 「国連は正しい決定を下せない。機能していない」。市民はいら立っていた。各国の利害がぶつかり、話し合いがなかなか進まなかった国際社会の難しさが浮き彫りになった。やっと停戦が発効したが、日本政府の動きはついに見えてこなかった。
 イラクでは今年に入って内戦の様相がいっそう強まった。一方で明るみに出た旅客機同時テロ計画。ブッシュ米大統領は「米国はイスラム教のファシストと戦う」との緊急声明を出した。軍事力を過信し、憎しみをあらわにする。そんなブッシュ大統領に、小泉純一郎首相はぴたりと寄り添う。
 政府が合意した米軍再編の最終報告は、米軍の世界戦略に自衛隊を組み込む「軍事一体化」そのものではないか。戦後一貫してきた不戦の誓いが大きく揺れている。
 そしてきょう、小泉首相が靖国神社を参拝するとみられる。中国や韓国の反発だけでなく、国内でも賛否両論が渦巻く。
 国際社会で「名誉ある地位」(憲法前文)を目指す日本である。復興を成し遂げた経験もある。戦禍にあえぐ国のため、もっとできることがあるはずだ。六十一年前を原点として考えたい。

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