鈴木光司『なぜ勉強するのか?』

鈴木光司『なぜ勉強するのか?』(ソフトバンク新書)

『リング』『らせん』の作者である鈴木光司さんの『なぜ勉強するのか?』(ソフトバンク新書)。『リング』も『らせん』も読んだことはないのだけれど、この本は一気に読んでしまいました。

鈴木さんはまず、学校では知識を記憶するのではなく、「理解力」「想像力」「表現力」の3つの能力を身につけるのだと言います。

 要するに、勉強というのは、インプットとしての理解とアウトプットとしての表現、その間をつなぐ想像、この3つの力の訓練だと言っていい。国語・数学・理科・社会といろいろな科目を学ぶことで、さまざまな角度から多面的にこれらの能力を磨いていく作業が学校での勉強なのです。(15ページ)

そして、勉強することは「社会をよくする」ことにつながると言います。

 しっかり勉強しておけば、しっかりした判断ができる人間になります。もちろん人間だから失敗することはあるし、いくら学問を積んでも誤った選択を侵すこともあります。それでも理解力・想像力・表現力の訓練を重ねることで、何かのときによりよい決定を下せる可能性が高くなります。(39ページ)

さらに

共同体のメンバー一人一人の学力が高まれば、ある選択をする際に、できるだけ共同体の幸福度が高まるような判断ができるのです。(40ページ)

だから、大人は、子どもたちにたいして「勉強すればいいことがある」「勉強するのは社会をよくするため」と自信を持って言うべきだというのです。

2つめに鈴木さんが強調するのは、「明晰に、論理的に、分析的に」考えること(第2章)。たとえば、「脳死」の問題。「脳死」を人の死とするかどうかという問題では、社会的な線引きは明確でなければなりません。だから、「脳死」と植物状態を混同するのは論外、脳死とは何かということを正確に理解し、脳死を人の死と認めることによる社会的な利益を考え、論理的に結論を導き出す必要がある、というのです。だから

勉強して、広い知識を得て、それらを自分の中で消化できる能力を身につけた人でなければ、きちんとした意見は出せません。きちんとした意見のぶつかり合いの中でこそ、社会をよりよくしていくような選択が可能になっていくのです。(64ページ)

 さまざまな人が理解力・想像力・表現力という思考の回路を通じて出された意見を戦わせなければ、次世代のためのよりよい選択は残せません。大切なことは、明晰に、論理的に、分析的に考えることであって、情緒に流れされることではないのです。(66ページ)

そして鈴木氏は、日本人が「合理的な判断ができなかったがために、過去にもいくつか悲劇を引き起こしています」として、特攻作戦をあげたうえで、次のように指摘します。

 日本人はもっと世界に通用する論理を身につけるべきですし、理解力・想像力・表現力はそのための基礎となる。勉強でこの3つの力をしっかり養い、さまざまな問題を合理的、論理的に判断する人が増えていけば、社会の幸福度がよりアップする確率が上がると信じています。(75ページ)

3つめは「正しい学習法」。鈴木氏はまず作文を取り上げています。

日本の作文指導は、「無難で体裁のよく整った文、要するにお利口さんの文章を“よい作文”と見なし、評価する」だけ。「これでは自分の意見を大胆にはっきり言えるような子どもが育ちません」(79ページ)。作文教育の根幹は、そうではなく、「与えられた素材を理解し、自分はそれについてどう思うかという意見をもち、文章で表現すること」(78ページ)だといいます。だから、子どもたちに「自分の意見をもたせ、個性のある書き方で論理を展開させるトレーニングをすべきだ」(82ページ)というのです。

この途中では、日本の小説について、「日本の小説には、力強いテーマといったものがほとんどありません。日本文学の過去から近現代の私小説に至る流れの中心を占めるのは、人間の心を含めた風景の描写であり、語る主体のテーマや考え方は含まれません」(81ページ)などという批判も登場しますが、作家ならではの的確な指摘だと思います。

さて、正しい学習法が上のようなものだとすると、教える側、教師の力量というものが問われてきます。しかも、教育は社会にとって最重要課題なのだから、要するに「社会の将来は教育現場にどれだけ優秀な教師を投入できるか」にかかっている、ということになります。

では、優秀な人材を教育界に供給するために、どうしたらよいか。教師の給与を引き上げるのも1つですが、鈴木氏は、お金をかけずに優秀な教師を集める方法があるといいます。それは「夏休み・冬休み・春休みをすべて休暇として教師に保証する」ことです(93ページ)。

しかし、いま学校の先生は、夏休みでも毎日学校に通わなければいけないことになっています。「教師だけが長い休みを謳歌しているのはずるい」という訳で、こんな奇妙なことがまかり通ってしまっているのですが、こんな「醜い妬みがはびこっているようでは、日本の教育はけっしてよくなりません」(94ページ)。「学校の教育現場には、おおらかさがあった方がいい」(同前)と鈴木氏は書いています。

もう1つ、鈴木さんが指摘するのは、「世の中は断じて競争社会ではない」ということ。もちろん、競争がないわけではないけれど、それは「社会全体で見れば、ほんのわずかなこと」「実社会においても、競争ではなく、協力が大前提」だと、くりかえし強調されています。

 社会に出てからは、競争はほとんど行われていません。むしろ、他人同士がいかによい協力関係を築き上げられるかが大切になっています。企業内では少人数のグループが協力し合って研究成果を上げ、グループが集まってさらに大きな成功をめざしています。もちろん、ライバル企業に打ち勝って、自分たちがサクセスを収めなければならない場面もあるでしょうが、そのライバルも内部には膨大な協力関係があります。
 学問の世界もしかり。現在では経済学や物理学、心理学などあらゆる学問がそれぞれの専門分野だけを追究するのではなく、お互いに複雑に絡み合って発展していきます。もはや研究者一人の能力では立ち向かっていけなくなっているし、他分野の人間が協力しあう方がはるかに得るものは大きいのです。(101ページ)

これは、学校教育でも同じこと。

子ども同士が協力し合う関係を作っていく方が、教育上のメリットは圧倒的に大きいのです。英語の得意な子は他の子に英語を教え、代わりに理科や数学の秀才から、わからないことを教えてもらう。ある子どもは歴史の面白さをみんなに話し、別の子は日本語の奥深さを周囲に伝える。……自分の得意な分野を自分だけのものにしておいても、その子の成績は伸びないし、逆にグループや組織が協力し合えば、全体の成果が上がるはずです。(102?103ページ)

で、現実の社会が競争社会でないからこそ、「子どものときぐらい勝ち負けの体験をさせた方がいい」。勝った喜び、負けた悔しさ、仲間と協力して何かをなしとげる喜びや充足感を感じた方がよいのです。

 大切なのは、子どもたちが喜びや悲しみ、苦しさや悔しさ、幸福感や充足感、不安や恐怖に至るまで、さまざまな感情をバランスよく体験することです。そのことによって困難にぶつかったときに克服する力が強くなる。そして、自分も伸びるし、他人も伸ばす。この形にもっていった方が、結局は自分のためになる。これが協力社会のすばらしいところです。世の中は決して競争社会ではなく、「協力社会」であるという前提を一人一人が信じなくてはいけません。(104ページ)

そして、結論はこうです。

 教育の現場に競争原理を持ち込むべきではありません。(同前)

学校の現場には「おおらかさ」がほしいという指摘とともに、これはまったく正当な指摘。いま政府・文部科学省がやろうとしている「教育」は、これとはまったく逆方向であり、ますます子どもを勉強嫌いにすることは確実です。

最後に鈴木さんは、「世界の仕組みを知ること」と「世界に通用する論理を手に入れること」の重要性を詳しく論じています(第4章)。文化相対主義への批判など、ちょっと専門的な議論になっていますが、それぞれの社会の文化や価値を尊重しつつ、「世界に通用する論理」を手に入れることが重要だということです。それといっしょに、「父性」「母性」をキーワードにした鈴木氏の日本文化論あるいは日本人論が展開されています[1]が、それはともかく、なるほどと思ったところを上げておきましょう。

 日本人は決断する力が弱く、何かと言えば全会一致、皆の総意で決めようとします。軋轢を恐れるあまり論理的思考をたどろうとせず、雰囲気に流されがちで、決定に曖昧さ、不明瞭さを残したがります。自分を殺してでも全体に合わせる。そういう考え方を美徳とするような傾向が強すぎるのです。
 一人一人の人間がきちんと意見を出し、それぞれが責任ある意見を戦わせることは、わがままや個人主義とは異なります。これをやらないと、よりよい答えは見つからないのです。もちろん、物事をクリアに考え、はっきりと意見を述べるには勇気が必要です。日本人にはこの勇気が欠けています。(139ページ)

小学校での英語教育を必修化させようとの議論もあるようですが、ぼくはまず書かせる、論述させる国語教育を優先させるべきだと考えています。
 その教育は徹底的に論理を磨くものでなくてはなりません。理解力・想像力・表現力の3つの能力をベースに、論理的思考を身につけていけば、父性を多少なりとも獲得できるようになるでしょう。物事を男性的にとらえ、情緒ではなく、論理に従って判断できるようになっていくはずです。(144?145ページ)

「父性」とか「物事を男性的にとらえる」とか、こういう鈴木氏の議論は、率直に言ってイデオロギーであって、通俗的な説明概念としては説得力を持ったとしても、まったく賛成できません。しかし、小学校では、書かせる、論述させる教育を優先し、理解力、想像力、表現力を基礎に論理的思考を身につけさせるということには賛成です。第4章での「父性」論は、とりあえず無視して読めばよいと思います。

さらに最終章では、根拠もなく未来を悲観し、「世の中はどんどん悪くなっていくばかりだ」という考え方を、鈴木さんは、きっぱり否定しています。江戸時代より現代の方がよいに決まっているし、昭和に入っても、貧困が理由で身売りされる人がいたり、病気が治せなかったり、労働条件だって今と比べようがないほど悪かった。だから、「世の中どんどん悪くなっている」というのは断固間違っている、というのです。これは、僕も大賛成です。これは、わが恩師・佐々木潤之介先生がくり返しくり返し強調されていた点でもあります。佐々木先生流に言わせれば、社会的な問題解決能力という点でも、現代の方がすすんでいるのだ、ということです。

で、本当に最後の結論。これは、なかなかスケールの大きな話であり、ちょっと感動的でもあります。

 世界は過去よりもよりよくなっていると確信してください。いくら理不尽や不合理を解決しても、次々と新しい問題が湧き出てきます。手をこまねいて静観するわけにはいきません。解決するためには、若い世代の知恵を結集して、より質の高いディスカッションが行われなければなりません。
 質の高いディスカッションに必要とされるのが、「理解力(読解力)」「想像力」「表現力」です。……一般的に通用している固定観念で判断せず、物事を正確に知った上で、自分の判断を行うべきです。
 勉強は小金稼ぎのテクニックを身につけるためにするものではありません。「理解力(読解力)」「想像力」「表現力」の能力を養って、世界を覆う膨大な量の情報を取捨選択し、世界に共通なものさし(論理)で判断し、価値あるディスカッションによってそれぞれの立場をた戦わせ、よりよい解答を発見する可能性をほんのわずか高めることに、勉強の目的はあります。
 なぜ勉強するのか……、答えはおのずから明らかになります。
 人類の進歩に貢献するためなのです。(169?170ページ)

前にも書いたように、鈴木氏の「父性」論はイデオロギーそのものであり、そのまま受けとることはできません。それこそ、「一般的に通用している固定観念」、非科学的な通俗的説明です。さらに、「秩序をひたすら求めれば、行き着く先は共産主義ということになります」(155ページ)という鈴木氏の共産主義論も賛成しません。これも「一般的に通用している固定観念」であって、マルクスたちの考えた社会主義・共産主義の未来社会がそのようなものかどうかは「物事を正確に知った上で、自分で判断すべきもの」です。

しかし、上に引用した結論は、本当にその通りだと思います。世界は確かによりよくなっている。だからこそ、新しく生まれてくるさまざまな問題を解決し、よりよい社会にしていくために、「理解力」「想像力」「表現力」をつかって、問題を理解し、議論をたたかわせる。そのために必要なのが教育であり、勉強なのだ、ということです。

出版元ホームページ

【書誌情報】著者:鈴木光司/書名:なぜ勉強するのか?/出版社:ソフトバンク クリエイティブ/発行年:2006年12月/定価:700円+税/ISBN4-7973-3344-8

  1. それ自体は、鈴木光司の作品における「父性」、として、研究テーマの1つになるでしょうが。たとえばこちらのインタビューや、こっちの書評:鈴木光司『父性の誕生』(角川oneテーマ21)参照。 []

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