『フォイエルバッハ論』を使った研究講座の感想

昨年の話になりますが、エンゲルスの『フォイエルバッハ論』を使った「科学的社会主義研究講座」が連続5回で開かれました。研究講座の内容そのものは、いずれ講義をした御本人が公表されることでしょうから、ここでは、その中で僕がなるほどこれは大事だと思ったことに限って、メモします。

1つめは、科学的社会主義を学ぶときの学び方について。これについては、内容的には、『前衛』2007年1月号に掲載された不破哲三「科学的社会主義の学説の研究方法について」と重なるので、ぜひそちらを読んでほしいと思います。

この点で強調されていたのは、現実の中で新しい問題とぶつかったとき、その問題について徹底的に事実に即して研究し、かつ、科学的社会主義をふまえて、この両者をむすびつけて解決する、そのときに、「これまでの理論ではこうだ」ということですませない、ということです。そのために、これまでの通説的な解釈、解説――たとえそれがレーニンの解説であっても――というものに頼って古典を読むのではなく、古典そのものに即して読むことが求められます。「歴史の中で古典を読む」ゆえんですが、「歴史の中で古典を読む」というのはどういうことかと言えば、次の3点が強調されました。

  1. その文献が、どういう歴史的な背景、事情、事件のなかで書かれたか、ということをわきまえて読む。
  2. それにとどまらず、その事柄について、マルクス、エンゲルスがどんなふうに研究し、議論を深めてきたか、またその後も深めていったかをふまえて、読む。マルクス、エンゲルスの「理論の発展」の歴史の中で読む、ということ。
  3. さらに、マルクス、エンゲルス以後の自然と社会の発展、人類の知識の発展の歴史に照らして、読む。

ということで、これは“言うは易しく行うは難し”ですが、大事なことだと思いました。とくに、世に流布する多くの「マルクス論」は、とくに2の視点が欠けているように思います(これは僕の感想)。

これに関連して、中国ではしばしば「中国化したマルクス主義」と言われるのにたいして、なぜ日本では「日本化したマルクス主義」と言わないか、という問題がとりあげられました。たとえば日本の綱領などは、科学的社会主義を日本や世界の諸条件に適用して具体化したもので、だから中国流にいえば「日本化したマルクス主義」だということも可能ですが、しかし、だからといって綱領を学習すれば科学的社会主義そのものを学んだことになるかといえば、そうはならない、やっぱり科学的社会主義そのものを独自に学ぶ必要がある、だから綱領などを「日本化したマルクス主義」とは言わないのだ、と解明されました。

中国では、たとえば毛沢東思想を「中国化したマルクス主義」だと位置づけていますが、そうなると、毛沢東思想を勉強すれば科学的社会主義を学んだことになり、結果的に科学的社会主義の古典そのものの研究が棚上げされてしまうことになります。最近、中国では、新しく、マルクス主義理論研究プロジェクトが立ち上げられ、古典そのものの研究が目ざされるようになったことは、この点で、大いに注目される訳です。

2つめは、唯物論か観念論かという「哲学の根本問題」にかんして。従来の哲学の解説書などでは、この問題が文字通り「哲学の根本問題」として大きく論じられてきました。しかし、世間を見渡してみると、いま、自分は唯物論の立場をとるのか、それとも観念論の立場をとるのか、ということが大きな問題にならなくなっています。これを、どう考えるのか、という問題が提起されました。

そして、これは、自然科学の大きな発展によって、観念論のよってたつ基盤、余地があまりなくなってきたからではないか、ということが指摘されました。この解明は、今日の哲学界の“配置地図”を考えるとき、非常に重要な指摘だと思いました。

マルクス、エンゲルスの時代は、時間と空間、宇宙の起源、生命とは何か、脳の働きと人間の精神活動、意識との関係、などなど、まだまだ科学的な解明は緒についたばかりで、言ってみれば“分からないことだらけ”の状態でした。だから、科学ではなお未解明であった事柄を根拠にして、観念論哲学が展開される余地が広くあったわけです。レーニンの時代にも、「物理学の危機」といわれる問題から、新しい観念論、不可知論が生まれました。しかし、今日ではそうした問題もすでに過去のものとなり、宇宙の起源にしても、生命活動や人間の精神活動をささえる物質的基盤についても、相当なところまで解明されていて、意識から独立した外界の存在に疑問を差し挟む余地はなくなっています。だからこそ、唯物論か観念論かということが、かつてのような大問題にならない状況が生まれている訳です。

しかし、大事なことは、そうした“ぼんやりとした”唯物論的見地を、自覚的なものとしてつかみなおすことです。その点では、依然として唯物論か観念論かは大事な問題なのですが、ただそれをいまの若い世代にどう論じるか。その点で、上に述べたような自然科学の大きな発展をふまえた接近、アプローチの方法を工夫すべきだということだと思います。

3つめは、イデオロギー論の解明です。『フォイエルバッハ論』第4章で、次のようなくだりが出てきます。

 国家は、われわれにたいして、人間を支配する最初のイデオロギー的力(ちから)としてあらわれる。(新日本出版社、古典選書シリーズ、森宏一訳、91ページ)

ここから数ページにわたって、エンゲルスは、史的唯物論の立場から、イデオロギーとは何か、という問題を論じています。研究講座では、その見事な解明がありました。

お恥ずかしい話ですが、僕は、このくだりは、ずっと国家論を論じたところだと思って読んでいました。しかし、国家論だと思って読むと、よく分からないところがいろいろ出てきます。冒頭で、国家を「最初のイデオロギー的力」と言っておきながら、数行後では、国家は「一つの機関」として論じられ、この国家機関こそが「国家権力である」とされています。また、ここで展開されている国家の起源論は、これより数年前に書かれた『家族、私有財産および国家の起源』で明らかにされた国家の起源論と異なっています。だから、ここは「よく分からない」ままだったのですが、イデオロギーとは何かという問題の解明だと思って読むと、非常に分かりやすいのです。すなわち、イデオロギーは

  • 経済的土台とは「相互に独立の領域として」とりあつかわれる。
  • それは、「独立した歴史的発展」をもつ。
  • イデオロギーの内部では「あらゆる内部の矛盾を徹底的に除去することによって1つの体系」をつくりあげている。
  • したがって、イデオロギーは、「独立して発展し、ただ自分自身の法則だけにしがたうところの、自立的な存在」のようにみえる。
  • このようなイデオロギーと経済的土台との関係は、とくに、哲学や宗教といった「物質的、経済的基礎からもっとも離れたイデオロギー」においては「幾つもの中間項によってあいまいにされている」。
  • しかし、哲学や宗教のような「物質的、経済的基礎からもっとも離れたイデオロギー」であっても、観念とその物質的存在条件との関連は存在している。
  • また、このようなイデオロギーは、イデオロギー的過程の担い手の「物質的生活諸条件」によって究極的には規定されているが、「当人には必然的に気づかれないままでいる」。なぜなら、そうでなければイデオロギーとして機能しないからである。

イデオロギーが「独立した歴史的発展をもつ」という点では、マルクス、エンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』で、イデオロギーは歴史を持たないとしたところからの発展もある、と指摘されました。

ということで、これで、史的唯物論の立場から、イデオロギーとは何かについて論ずべき問題は、だいたいつきているといってもよいほどでしょう。こんなに見事なイデオロギー論がここで展開されていたとは、まったく気づきませんでした。お恥ずかしい限りです。(^_^;)

4つめは、マルクスがヘーゲル弁証法から何を受け継いだか、ということに関連した問題。マルクスが、ヘーゲルから弁証法をひきついだことはよく知られたことですが、その場合、もちろんヘーゲル哲学は全体として観念論であるので、それを唯物論的にひっくり返す必要があったことはいうまでもありません。で、そうやってヘーゲルからとりだされた弁証法の「合理的」な内容は何か。これについては、従来から、たとえば弁証法の3つの法則(量から質への発展、対立物の相互浸透、否定の否定)とか、3つの特徴とか、レーニンの「哲学ノート」でのまとめとか、あるいはスターリン流の4つの法則とか、いろんな議論がありました。対立物の統一とか相互浸透とか闘争とか、その定式化でも、いろんな議論があります。マルクス自身は、数ページ程度にまとめてみたいといいながら、結局、それについては何も書き残していません。

したがって、この分野については、なお研究がつくされたとはいえず、これまでの議論にとどまらないで研究する必要があるというわけです。で、研究講座では、その研究の出発点として、次のようなことがらが指摘されました。すなわち、

マルクス、エンゲルス、レーニンは、それぞれに弁証法とは何かという問題にとりくんだけれども、各々が、この問題にどのようにとりくんだかという内容、成果は、おたがい知らないままだった、ということです。

マルクス、エンゲルスがレーニンの探究を知らなかったのは当然ですが、マルクスとエンゲルスの間でも、弁証法の受け継ぐべき合理的核心として何を考えていたか、知らなかったのではないかというのです。手紙での言及を除けば、二人の間で、深く突っ込んだやりとりはありませんでした。マルクスは、『資本論』の続編についてさえエンゲルスにはらせなかったほどで、エンゲルスは、マルクスがなくなると膨大なノートなどをひっくり返して、ようやく『資本論』第2部、第3部の草稿を発見したものの、マルクスが書きたいといっていた、ヘーゲル論理学にかんする原稿は見つからず終い。結局、マルクスがどんなことを考えていたかは、エンゲルスには分かりませんでした。他方、エンゲルスの弁証法研究は、『資本論』書評や『反デューリング論』などに反映されてはいますが、「自然弁証法」は原稿のままで、その内容をマルクスは知りませんでした。

レーニンにしてみても、マルクスの考えとして読めたのは『資本論』そのものと第2版あとがきぐらい。エンゲルスについても、『反デューリング論』『フォイエルバッハ論』などを除くと、あとはほとんど文献がありません。遺稿集「自然弁証法」の刊行は、レーニンの死後です。

これまでの弁証法研究はというと、エンゲルスをベースに、レーニンを混ぜ合わせ、そこにマルクスを適当にはさみこむといった式のやり方がほとんどでした。だから、上の指摘は非常に重要だと思いました。すなわち、弁証法とは何かということを論じるためには、まず、マルクス、エンゲルス、レーニンが、それぞれ、どんな探究をして、何を明らかにしたかを、各々に即して徹底的に調べ上げる作業が必要ではないか、ということです。

他にも、いろいろ興味深い解明がありましたが、それらは省略します。講義を通して、いままで自分でも何度も目を通したはずの文献が、まったく新しい内容をもって浮かび上がってくるのに、幾度となく驚かされました。自分の読み方が浅かったといってしまえばそれまでですが、1つめに紹介した「歴史の中で読む」という見地がまだまだ身に付いていない、ということを思い知らされました。個々の問題でもいろいろ深まることもありましたが、その大もとのところで、科学的社会主義を学ぶとはどういうことか、を学ばされた研究講座でした。

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  1. かわうそ実記 - trackback on 2007/01/10 at 01:33:49
  2. 私も、『資本論』をより深く理解できるようになろうと、ヘーゲルの『小論理学』を読み始めました。いまは「有論」の「量」のところです。が、ところどころであげられている事例などで「これが“対立物の統一”を現しているのか」とか「この論の進め方は価値形態論の展開の仕方に似ている気がする」なんていう風に感じることがありますが、なかなか意味が分からず、「合理的核心をつかむ」なんてのはほど遠いなあ……、と頭を抱えています。

  3. かわうそさん、おはようございます。

    『資本論』講座は大変盛況なようですね。いまのような時代に、資本論を勉強したいという人がたくさん広がることはとても重要なことだと思います。

    すでにご存知かもしれませんが、「小論理学」の解説として、有斐閣新書で『ヘーゲル論理学入門』(鰺坂真、鈴木茂他著)という本があります。
    それから、ヘーゲル弁証法の「合理的核心」という点では、見田石介『資本論の方法』が非常に優れています(僕も、この本で、資本論について勉強しました)。『資本論の方法』は、『見田石介著作集』(大月書店、第4巻「資本論の方法II」)にも入っていますが、いまは品切れ状態です。でも、インターネットで根気よく探すと見つかると思います。専門的ですが、一読の値打ちはあると思います。

    がんばってください。

  4. はじめまして
    こんなに力の入ったブログは初めてみました。
    さて、観念論の余地が科学の発達とともに地盤が少なくなってきたとの論旨と読みましたが・・・。

    わたしは唯物論の基盤が広がった分だけ、やはり観念論もより巧緻になったと思います。
    最近でも、前世に関する関心はより高まっていますね。

  5. 昼行灯様
    お褒めいただき、ありがとうございます。m(_’_)m

    観念論が巧妙になっているというのは、その通りですね。しかし、「前世」とかスピリチュアルとか、あるいは「水は何でも知っている」式のエセ科学はいろいろ跋扈しても、ある程度首尾一貫した世界観としての観念論は成り立ちにくくなっていると思います。

    一時期は、素粒子論の「観測問題」が観念論のよりどころになりましたが、それもいまでは通用しません。「心+身」二元論も、もはや通用しません。「来世だ」「前世だ」と言ってみても、それは言ってみればその場限りの「気の持ちよう」の問題。もはや世界観といえるほどの首尾一貫したものはありません。

    おそらく、世界観としての観念論の最後のよりどころは、存在論は棚上げにして、話を個々人の意識の中に限って、「”僕にとっての世界”はどのように成り立っているか」といった議論(「現象学」)ではないかと思っていますが、それにしたって、そういうふうに「世界」を感じている人間が物質的存在であるということは、前提として認めざるを得ない。ある意味、一歩も二歩も”引いた”観念論だと思います。

    この手の議論は、フッサール現象学として語られていますが、僕自身は、フッサールの現象学そのものは、もっと純粋に主観的観念論に近いのだと思っています。しかしそれでは通用しないので、現実と折り合いをつけるために、話を個々人の意識の問題に限定して再構築されているのが、最近流行の「現象学」だと思っています。

  6. GAKUさん。今晩は。
    読ませていただき、大変目を開かせていただきました。有難うございます。
    人生、社会、世界、宇宙、神などが気懸かりになり、哲学の真似事を始めました。最初に触れたのは観念論です。何故か、考えてもしっくりしません。(でも、それなりに意味があるだろうと必死に続けました。) そのうち唯物論にも触れる機会がありました。驚いたのですが、様々な疑問が「眼から鱗」で解けて行くのです。考えて見ますと、私も含め多くの現代人の思考は、無意識のうちにも、唯物論の立場で成り立っているのですね。また、人間の思想は歴史的には、観念論から唯物論へと進んで来ていることにも気が付きました。折角学び、考えた観念論も含め、哲学を学びたいという意欲も更に出て来ました。現代の自然科学、社会科学等の長足な進歩が哲学への誘いを強めているのでしょうか。GAKUさんの本blogで学習とその意欲のエネルギーをいただいております。

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