ある評論への疑問

今月、ある新聞に、改憲問題をめぐる文化人の動向にかんする評論が掲載されました。

しかし、なぜこのような評論が掲載されたのか、非常に理解に苦しむ内容でした。まあ、一新聞の一記者の書いたもので、誰も注目もしないようなものなので、それについてあれこれ論じることに社会的な意味はないようにも思うのですが、あえて苦言を呈しておきたいと思います。

その論評は、「最近、意外な人々から憲法九条改悪に反対の発言が続いている」として、様々な文化人の動向に着目したもの。それ自体は悪いことではない。

しかし、その筆頭に取り上げられているのが、 あの小林よしのり氏だと知ったら、やっぱり多くの人が驚くに違いない。もちろん、小林よしのり氏が、自らの歴史観、戦争観を反省し、心を入れ替えて憲法9条改悪に反対したというなら、大いに注目する意味もあるだろうが、小林氏の論文を掲載した雑誌編集長が「歴史認識や戦争観が変わったのではありません」と書いているとおり、そうした転換はまったくない。

ただ彼は、反米右翼の立場から、アメリカの押しつける改憲に反対しているにすぎない。この反米右翼か、親米右翼かという問題は、もともと「靖国史観」派が本来的に抱え込んでいる解決容易ならざる矛盾で、「新しい歴史教科書をつくる会」なる団体のゴタゴタの原因もそこにあるし、安倍首相の「従軍慰安婦」発言にたいするアメリカの批判も、「靖国史観」派の歴史観・戦争観が、戦後の日本の対米従属的な政治的枠組みと齟齬を来しているところから生まれている。

小林氏の発言は、こうした日本の保守的な政治勢力の中でも最も反動的で、今日の憲法問題をめぐる危機を生み出している中心的勢力の中での、こうしたゴタゴタから、言ってみれば傍流に追いやられた勢力の“あがき”のようなもの。だから、小林氏が憲法9条の改定に反対したからといって、それが憲法9条を守ろうという勢力にとってプラスになる訳でもないし、もとより社会的にみて進歩的な意義を持つこともない。

この評論は、そういう基本的な見地を欠いている。それが批判の第1点。

2つめは、加藤典洋氏や村上春樹氏、高橋源一郎氏、内田樹氏などを一括りにして「中間派文化人」などという、まことに無礼なレッテルを貼っていること。憲法9条改悪反対の一点で共同しよう、と言っているときに、同じように9条改悪反対を主張する人たちにたいして、「お前たちは中間派だ」などというのは、傲慢、侮辱――政治的な表現を用いれば「セクト主義」以外の何ものでもない。これでは、本気で憲法9条改悪反対の一点で共同しようとしているのか疑われても仕方がない。

この評論を書いた記者は、自分の記事がそういう最悪の文章だと言うことに、どうも気がついていないみたいなので、このことをはっきりと指摘しておきたい。

この評論では、これらの人々が、憲法9条と自衛隊との矛盾やネジレを、ある意味、矛盾のまま、ネジレのまま向き合っていこうとしていることにたいして、「それを肯定する護憲論というのは、そもそも矛盾をはらんでいる」としているが、文字通り、この批判は、そのままこの評論を書いた記者に返ってくる。

憲法9条と自衛隊の存在との矛盾やネジレは、戦後の自民党政治が生み出したもので、かりに憲法9条を擁護し、安保条約を廃棄しようという民主的政権が誕生したとしても、その政権は、一気に自衛隊の廃止にはすすめない。民主的政権自体、望むと望まないとにかかわらず、長年の自民党政治がつくりだした矛盾、ネジレと真剣に向き合い、つきあわざるを得ない。憲法9条の完全実施をめざしたときに、将来の展望として、そうした一定の長い過程が必要であることは、すでに明らかにされていることである。けっして、この記者が「中間派」などという失礼なレッテルを投げつける文化人だけが、そうした矛盾をはらんでいる訳ではない。そのことに気がつかなかったようである。

以上、2つの理由から、この評論は、書かれなければ最も良かった類のものだと言わざるをえない。

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