あり方いろいろ(続き) existierenをどう訳すか

牧野広義『「資本論」から哲学を学ぶ』(学習の友社)

学習の友社から、こんな本が出ました。まだ読み始めたばかりですが、『資本論』第1部にそって、マルクスが弁証法的に論を展開している部分をとりあげて、弁証法的なものの見方、考え方、あるいは論述の展開の仕方について解説をくわえられています。

ということで、いま少しずつ読み始めているところですが、それはそれとして、「おっ」と思ったのは、「まえがき」に書かれた「凡例」の部分です。

牧野広義先生は、この本では新日本出版社の『資本論』を使っておられますが、そのなかで一部、邦訳を変更されています。それについて、こんなふうに書かれています。

「実存する」(existieren)は断りなしに「存在する」に変更しています。マルクスの場合、“existieren”は「存在する」以上の特別な意味をもたないと思います。(同書、3ページ)

前に、『資本論』に登場する「定在」「実存」「現存」についてコメントしたことがありますが、牧野先生は、ずばり“existierenを「実存」と訳す必要はない”と断言されています。

そこで、『資本論』第1部の第1章について調べてみました。第1章の本文において、新日本訳で「実存」が登場するのは、以下の箇所です。

  1. ある物の有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮かんでいるのではない。この有用性は、商品体の諸属性によって制約されており、商品体なしには実存しない。(60ページ)
  2. 同じ大きさの1つの共通物が、2つの異なった物のなかに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、実存するということである。(63ページ)
  3. 同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、いかなる相違も区別も実存しない。(64ページ、N・バーボンからの引用文)
  4. 社会的分業は商品生産の実存条件である。もっとも、逆に、商品生産は社会的分業の実存条件ではない。(72ページ)
  5. だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用的労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一実存条件であり、人間と自然との物質代謝を、それゆえ人間的生活を、媒介する永遠の自然必然性である。(73ページ)
  6. この関係〔20エレのリンネル=1着の上着という価値形態――引用者〕のなかでは、上着は、価値の実存形態として、価値物として、通用する。(85ページ)
  7. 蟻酸プロピルは単にC4H8O2実存形態としてのみ通用し……(86ページ)
  8. 寝台の価値表現において家が寝台のために表わしている等しいもの、すなわち共通な実体は、なにか? そのようなものは「ほんとうは実存しない」とアリストテレスは言う。(102ページ)
  9. 彼ら〔重商主義者たち――引用者〕にとっては、商品の価値も価値の大きさも交換関係による表現のうち以外には実存せず、したがって、ただ日々の物価表のうちにのみ実存する。(104ページ)
  10. ここでは、各個の商品種類の自然形態が、無数の他の特殊的等価形態とならぶ1つの特殊的等価形態であるから、およそ実存しているのは、ただ、互いに排除し合う制限された諸等価形態にすぎない。(110ページ)
  11. したがって、商品形態の神秘性は、単に次のことにある。すなわち、商品形態は、人間にたいして、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として反映させ、それゆえまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも、彼らの外部に実存する諸対象の社会的関係として反映させるということにある。(123ページ)
  12. けれども、そのためには〔現実世界の宗教的反射が消え失せるようになるためには――引用者〕、社会の物質的基礎が、あるいは、それ自身がまだ長い苦難に満ちた発展史の自然発生的産物である一連の物質的実存諸条件が、必要とされる。(135ページ)

第1章(邦訳で85ページ)のなかで、「実存」が出てくるのは、以上、わずか12カ所です。「実存」か「存在」かの訳し分けにこだわっているので、もっと頻繁に登場するのかと思ったのですが、意外と少ないというのが実感です。「実存」を「定在」や「存在」「現存」と対比的に使っている例もありません。

ということで、ざざっとみた限りでは、確かに、牧野先生がおっしゃるように、ここに出てくる「実存」はどれも「存在」と訳して、なんの不都合もありません。3や8の引用部分は、マルクスの言葉ではないのですから、素直に「存在」と訳すべきでしょう。

独文と照合すると、上にあげた12カ所以外に、次の2カ所にexistierenが出てきます。

  • 新書版76ページの注15)の最後で「まだまったく存在しない」と訳されいている箇所。
  • 134ページの「本来の商業民族は、エピクロスの言う神々のように、あるいはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、古代世界の空隙にのみ存在する」の「存在」。

これらだけ、なぜ「存在」と翻訳したのか、その理由もはっきりしません。

ヘーゲルが、論理学において、DaseinとExistenzを区別して、別の概念としてつかったことは事実です。前にも書いたとおり、Daseinが目の前にころっと直接的に存在しているもの・ことを指しているのにたいして、Existenzは媒介されていて、なおかつその媒介が止揚されているもの・ことを表わしています。こうしたDaseinとExistenzの使い方を、マルクスも当然前提にしていたことは確かだと思います。

しかし、いまあげた箇所で、existierenやExistenzに、そういう「媒介されていながら、その媒介を止揚している存在」という特殊な意味を読み込まなければ、マルクスの言いたかったことが分からない、というようなところはないと思います。

ということで、牧野先生の指摘は、意外とあたっているかも知れません。しかし、このあと、資本論全部について、それを調べるのは大変だぞ…… (^_^;)

【書誌情報】
著者:牧野広義/書名:「資本論」から哲学を学ぶ/出版社:学習の友社/発行:2007年9月/定価:2415円(本体2300円)/ISBN978-4-7617-0644-9

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  1. 私もこの本を買って読んでいます。問題の翻訳についての牧野さんの指摘の部分も、「おや」と思いました。GAKUさんのような深い話ではなく、「『実在』と訳すことが、そんなに問題なんだとすれば、『存在する』と違うニュアンスを含んでいるんやろな・・・」という漠然とした感じですが。DaseinとExistenzを区別するという話を読んで、とりあえず理解できました。
    『資本論』からもヘーゲルからも、もっともっと学んでいきたいとあらためて感じた次第です。

  2. 洋さん、お久しぶりです。

    「実存」と訳すか、「存在」と訳すかは自由なのですが、日本の場合、「実存」という言葉には「実存主義」というイメージが強くて、前にも書いたように、「資本の実存」と言われると資本が「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」と悩んでいるように思えてしまって、落ち着かないのです。

    だから、特に「実存」と訳さなければいけない理由がなければ、「存在」で良いのではないか、と思うのです。

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