研究の醍醐味と科学者の責任 池内了『科学者心得帳』

池内了『科学者心得帳』(みすず書房)

別の本を探すために書店をプラプラしていて、こんなのを見つけてしまいました。

宇宙物理の池内了先生の最新著『科学者心得帳―科学者の3つの責任とは』(みすず書房)です。

対象となっているのはもちろん自然科学ですが、パラパラ読んでみると、自然科学だけでなく、社会科学・人文科学についてもそうだなぁと思うところがいっぱい出てきます。

たとえば、研究の醍醐味、研究をやっていて最大の楽しみは何か、池内先生は、こう書かれています。

 科学の研究を行っている者の最大の楽しみは何なのだろうか?
 私の経験で言えば、いかに小さな仕事であっても、「世界で初めての発見をした」という喜びを味わうことであった。まだ世界中で誰も知らない真理を自分が最初に見つけることができた、と自分で感動するのだ。その瞬間は、研究を続けてきて良かったとつくづく思う。麻薬で恍惚感に浸っているのに似ているのかもしれない。(私は麻薬を打った経験はないけれど。)同時に、もっと研究を続けようと気持ちを引き締めるときでもある。(7ページ)

これは、僕は、社会科学の場合も同じだと思います。もちろん、社会科学、人文科学の場合は、自然科学の場合と違って、過去の研究を振り返って再度意義づける、というような作業も含まれるので、厳密にいえば「世界中で誰も知らない真理を自分が最初に見つけることができた」というのとはちょっと違う場合もありますが、それでも、「過去の研究がこんなに重要な意味をもっていたということに、いままで誰も気がつかなかったのを、自分が再発見した」という喜びは変わりません。もちろん、新資料を発見し、従来の研究では分からなかったことを明らかにする場合などは、文字通り「世界で最初に真理を発見した」と言えるでしょう。こういう喜びは、社会科学、人文科学でも同じだと思います。

そして、池内氏が書かれているように、「自分が発見できたのなら、別の誰かもきっと見つけるだろう」(8ページ)という不安に駆られたり、どこかで誰かがどんな研究・発見をしているかが気になって「論文を読んでいないと安心できない」(9ページ)、「いつも追われているような感覚で問題と格闘し……、新発見ができないかともがいている。そうしなければ落ちこぼれてしまうという強迫観念にとらわれている」(10ページ)というのは、研究者であれば、誰も同じことだと思います。

さらに池内氏は、研究者のそうした心理の根底には、「文化の最先端を担っているとの意識」や「好奇心や探求心など人間らしさを発揮する精神を自分が体現しているという誇り」、「私たちは何処から来て、何処へ行こうとしているのか」というゴーギャンの問いに答えようという無意識な思いがあると指摘されています。「科学研究を通じて社会に貢献している」という意識も、そこには含まれます(10?11ページ)。研究の大小にかかわらず、こうした思い、誇りは、「科学を否定する動きに対して正当性を主張する原動力」であり、「科学を正しく発展させる意欲」につながる、という指摘は、非常に大事だと思います。

それとともに、研究者にとって大事なことは、研究の自由です。この自由度は、大学の教員か、国の研究機関のスタッフか、企業の研究所スタッフかによって違ってきますが、それでも、まったく何の自由もないところに新しい研究はないわけで、研究の自由ぬきに科学の発展はありません。池内氏は、大学の学問の自由・大学の自由について「これはけっして譲ることのできない大学教員が持っている権利」であり、「科学研究者は、そのような歴史が培ってきた成果の重みをけっして忘れてはいけない」と強調されています(13ページ)。

で、そうした自由を認められているからこそ、研究者・科学者には、3つの責任があると、池内氏は指摘されています。すなわち、<1>倫理責任、<2>説明責任、<3>社会的責任、です。それらについては、第3章?第5章で、それぞれ詳しく論じられていますが、そこに移る前に、池内氏は、第2章「科学研究の現場」として、研究者のタイプとか研究方法とか、少し毛色の変わったテーマをとりあげています。

その1つは、「科学の方法と科学者のタイプ」で、演繹法と帰納法、あるいは分析的方法と総合的方法という2つの大きな方法に対応して、科学者の研究の進め方にも、「微分型」(問題を突き詰めて徹底した分析を特異とするタイプ)と「積分型」(全体を見ながら矛盾なく整合性を求めるタイプ)という2つのタイプがあると指摘されています。

もちろん、実際には、この2つの中間、あるいは両方を兼ね備えながら研究をすすめるわけで、純粋に分析一本槍、総合一本槍というようなことがあるわけではありません。歴史学の場合でも「理論と実証」ということが言われるとおり、何年何月にどこで何があったというような個々の実証だけでは歴史学にはならないし、さりとて実証抜きの歴史理論などというものが成り立つはずもありません。しかし、やっぱり研究していて面白いのは、個々の事例の実証ではなく、それが理論の中に位置づけられたり、あるいは、それによって新しい理論的な枠組みができ上がったりして、個々の事例が“全体”の中にうまくはまったときではないでしょうか。

そういう問題とともに、ここでは、武谷三男氏の「三段階論」[1]に触れて、その意義を次のように指摘されているのに注目されます。

 武谷の三段階論は、帰納法的手法において実体論が果たす役割を強調した点に特色がある。(29ページ)

ヘーゲル論理学の立場からすると、<2>の、データによるモデルの定立を「実体」論と呼び、<3>の、法則の確立を「本質」論と名づけるのが、名称の用い方として正しいのかどうかという疑問があります[2]。しかし、それはともかくとして、武谷「三段階論」は、帰納法的手法での中間的なモデル構築の重要性を強調したものだというのは、僕の不勉強かも知れませんが、新鮮な指摘であるように思われました。

ということで、目下、第3章を通読中。中身というか提起している問題は大きいけれど、文章は易しいので、寝ころびながら読むこともできます。科学者・研究者を志そうという方には、自然科学、社会科学・人文科学を問わず、ぜひ一読をお薦めしたいと思います。

出版社のサイト:
科学者心得帳:みすず書房

【書誌解題】
著者:池内了/書名:科学者心得帳――科学者の3つの心得/出版社:みすず書房/発行:2007年10月/定価:本体2800円+税/ISBN978-4-622-07327-7

  1. 科学研究は<1>データを集める「現象論」、<2>そのデータをモデルによって整理する「実体論」、<3>モデルからそこに完徹する法則を確立する「本質論」という3つの段階からなるという方法論。 []
  2. たとえば、ヘーゲルにおいては、法則は理念であり、本質は、概念・理念のレベルから見ると、劣っている、中間的な認識でしかない。 []

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