『ブリュメール18日』

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』。全集や国民文庫は1869年の第2版を底本にしているが、初版を底本にして読んだ方がいいのかも知れない。しかし、初版はアメリカにいたヴァイデマイヤーの雑誌に発表されたため、「ヨーロッパには、ごく少部数が供給されたにとどまった」。第2版はハンブルクで発行。

冒頭の有名なフレーズ。「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけ加えるのを忘れた」。(国民文庫、17ページ)

これをどう理解するか。

1789年のフランス革命のときの「カミーユ・デムラン、ダントン、ロベスピエール、サン・ジュスト、ナポレオン、これらの昔のフランス革命の英雄たち、その諸党や大衆は、……近代ブルジョア社会を枷からときはなしてつくりだすという、自分の時代の課題をなしとげた」(18ページ)。つまりこれは「一度は悲劇として」の例。

これにたいする2番目の喜劇としての例。「1848年から1851年にかけては、老バイイに扮装した、黄色い手袋をはめた共和主義者マトラスから、ナポレオンの鉄のデスマスクの下に自分のげすな、いやな顔つきを隠している冒険家にいたるまで、昔の革命家ばかりがうろつきまわった」(20ページ)。

さらにマルクスはこうも書いている。
「19世紀の社会革命は、その詩を過去から汲みとることはできず、未来から汲みとるほかはない。それは、過去へのあらゆる迷信を捨て去らないうちは、自分の仕事を始めることはできない」(21ページ)、「19世紀の革命は、自分自身の内容をはっきり理解するために、死にいたる者に死にいたる者を葬らせなければならない」(同前)。

「ひっくりかえされたと見えるのは、いまではもはや君主制ではなく、100年来の闘争によって君主制から奪いとった自由主義的譲歩の方である。社会そのものが新しい内容を獲得したのではなくて、国家がそのいちばん古い形態に、サーベルと僧衣のずうずうしく率直な支配に、逆戻りしただけのように見える」(22ページ)。つまり、2月革命が帝政に戻ったのはなぜか、ということ。

「ほんとうは、社会は、その革命的な出発点を、つまりそのもとでだけ近代の革命が真剣なものとなる状況、諸関係、諸条件を、これからつくりださなければならない」(22ページ)。これが、2月革命が本来の革命として展開しなかった理由。これは、「フランスにおける階級闘争」序文でエンゲルスが述べている総括と同じ。

その次。19世紀のプロレタリア革命は「たえず自分自身を批判し、すすみながらたえず立ち止まり、すでになしとげられたと思えたものに立ち戻っては、もう一度新しくやり直し、自分がはじめにやった試みの中途半端さ、弱さ、けちくささを、情け容赦なく、徹底的に嘲笑する」「この革命は、自分の立てた目標が茫漠として巨大なことに驚いて、たえずくり返しあともどりするが、ついに、絶対に後戻りできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶ。
 ここがロドスだ、ここで飛べ!
 ここにバラがある、ここで踊れ!」(23ページ)
これは小ブルジョア的民主主義的共和派(民主党、山岳党)のことか?

「3600万人の国民が、3人のペテン師に不意打ちを食わされ、抵抗もせずとらわれの身になるということが、どうして起こりえたのか」(25ページ)
 3人の紳士ペテン師とは? ルイ・ボナパルト、および彼の協力者である軍司令官のマニャン、警視総監モパのこと(注による)。

48年2月24日の二月革命から、1851年12月(ボナパルトのクーデター)までを、マルクスは、3つの段階に分ける。

  1. 2月24日-5月4日まで。本来の意味で「二月革命」の時期。
  2. 1848年5月4日(憲法制定議会の開会)-1849年5月28日まで。ブルジョア共和制の制定、樹立の時期。憲法制定国民議会の時期。
  3. 1849年5月28日-1851年12月2日まで。立憲共和制または立法国民議会の時期。

まだまだ続く…

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