『ブリュメール18日』続き

マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の続き。

「二月事件がもともと目的としていたのは、選挙制度の改革」(26ページ)
ブルジョア共和派(「ナシオナル」派)は、「こうした手段で有産階級そのもののなかの政治的特権者の範囲を広げ、金融貴族の排他的な支配をくつがえそうとした」(同前)
ところが、実際には衝突が起こり、民衆がバリケードを築き、気がつくと共和制を宣言していた。(^_^;)

「パリのプロレタリアートが、自分たちの前にひらけた偉大な展望にまだうっとり見とれていて、社会問題についての大まじめな討議にふけっていたあいだに、社会の古い諸勢力は結合し、集合し、われにかえり、そして思いがけない支柱を国民の大多数者のあいだに、すなわち……農民と小ブルジョアのあいだに、見いだしていた。」(27ページ)
 ※いわゆるボナパルティズム論では、農民がボナパルティズムの社会的支柱だとされるが、ここでは、「社会の古い諸勢力」が社会的な支柱として見いだす、と言われている。…? もうちょっと調べてみる必要がありそう。

1848年5月4日?1849年5月末まで。「第二期」。「ブルジョア共和制の制定、その樹立の時期」(27ページ)
ブルジョア共和制。「これまでは王の名でブルジョアジーの小部分が支配してきたのだが、今後は、人民の名においてブルジョアジー全体が支配することになる」(27?28ページ)。

6月蜂起の敗北。「ヨーロッパでは、ブルジョア共和制は1つの階級の他の諸階級にたいする無制限の専制を意味していることを、この敗北はを明るみに出した」(29ページ)。

第2章

「6月事件以後の憲法制定国民議会の歴史は、共和主義的なブルジョア分派、すなわち三色旗共和派、純粋共和派、政治的共和派、公式主義的共和派などの名で知られている分派の支配と解体の歴史である」(32ページ)。ここでいわれている「共和主義的な分派」「三色旗共和派、純粋共和派、政治的共和派、公式主義的共和派などの名で知られている分派」とは、「ナシオナル」派のこと。

「ナシオナル」派は、「大きな共通の利害で結ばれ、固有の生産諸条件によって他のものから区別されるようなブルジョアジーの一分派ではなかった」(32ページ)。

国民議会が開会当初につくった執行委員会から、すぐに社会主義的分子が締め出され、6月事件の後では、小ブルジョア共和派あるいは民主主義的共和派(ルドリュ・ロランなど)のいた執行委員会そのものを廃止。「ブルジョア共和党の将軍で6月戦闘を指揮したカヴェニャックが、一種の執権者的権力をあたえれて、執行委員会にとってかわった」(34ページ)。

しかし、「ブルジョア共和派の排他的な支配は、1848年6月24日から12月10日までしか続かなかった」(35ページ)。

「1848年12月10にルイ・ボナパルトが大統領に選挙されたことは、カヴェニャックと憲法制定議会の独裁を終わらせた」(42ページ)。

「1848年12月20日〔カヴェニャックが辞職して、ルイ・ボナパルトが大統領に就任した日〕から、1849年5月に憲法制定議会が解散されるまでの時期は、ブルジョア共和派の没落の歴史にあたる」(43ページ)。

ブルジョア共和派は、「ブルジョアジーのために共和制を創設し、革命的プロレタリアートを戦場から追っぱらい、民主主義的小ブルジョアジーをしばらく黙らせたが、今度は自分がブルジョアジー大衆によって押しのけられる」。「このブルジョア大衆は王統派であった」(43ページ)。

「いまや彼ら〔正統王朝派とオルレアン派〕は、ブルボンの名も、オルレアンの名もつかずに、資本という名のついたこのブルジョア共和制に、彼らが共同で支配できる国家形態を見いだした」(43ページ)。「六月蜂起が両派を合同させて、『秩序党』をつくらせていた」(同前)。いま「必要なことは、いまなお国民議会に席を占めていたブルジョア共和派の一党を片づけることであった」(43?44ページ)。

この時期に、「2つの権力」があった。この2つの権力は、「1848年12月20日から憲法制定議会の退場まで」は「夫婦関係を結んでいた」のに、1851年12月2日は、一方の権力が他方の権力を滅ぼしてしまった。その2つの権力とは、ルイ・ボナパルトと、連合した王統派の党=秩序党=大ブルジョアジーの党、である。

1848年12月20日に大統領に就任すると、ボナパルトは、すぐに「秩序党の内閣」(バロー内閣)をつくった(44ページ)。

このあたりで、マルクスは、共和主義派が多数を占める国民議会を秩序党が片づけたやり方と、ボナパルトが秩序党の勢力を片づけたやり方とを対比して、ボナパルトが、秩序党が共和主義派にたいしておこなったことを、秩序党にやっただけだということを論じている。これが「一度目は悲劇、二度目は喜劇」ということか?

「この1月29日事件〔1849年〕は、王統派がボナパルトと組んで共和派の国民議会にしてやったという点を除けば、1851年12月2日のクーデタとどこが違っていただろうか?」(46ページ)

「秩序党が憲法制定議会の寿命をむりやりちぢめる気になった1つの特別な動機は、教育法、礼拝法などの、憲法を補足する組織法にあった。連合した王統派にとっては、これらの法律を信用のなくなった共和派につくらせないで、自分たちがつくることが、肝心かなめのことであった」。「ところが、これらの組織法のなかには、共和国大統領の責任を定める法律もあった」。「1851年に立法議会がちょうどそういう法律の作成にあたっていたときに、ボナパルトは、12月2日の襲撃でこの〔議会の〕襲撃の先手を打った。」(47ページ)

第3章

「第1次フランス革命では、立憲派の支配のあとにジロンド党の支配が、ジロンド党の支配のあとにジャコバン党の支配が続いた」。「革命は上向線を描いてすすむ」(49ページ)

これにたいして、1848年革命では、「プロレタリア党は小ブルジョア的民主党の付属物となって現われ」、小ブルジョア的民主党は「ブルジョア共和党の肩によりかかる」。「ブルジョア共和派は、しっかりと足を踏みしめたと思ったとたん、……秩序党の肩にすがる」。「どの党も、前へつきすすんでゆく党にうしろから打ってかかり、後ろへ押しもどしてゆく党に前側からもたれかかる」。「こうして革命は下降線を描いてすすむ」(50ページ)

「復古王政と七月王政という2つの君主制の汚辱を結びつけて、帝国主義のレッテルをはっただけの共和制」(50ページ)。この「帝国主義」は、レーニン的な意味での帝国主義ではなく、「フランス帝国」であるという主義のこと。

「国民の総意は、普通選挙権をつうじて語る度に、大衆の利益の長年の敵たちのうちに自分の適切な表現を求め、ついには一冒険者〔ボナパルト〕の我意をそうした表現とみなすにいたる」(51ページ)。

●1848年12月20日の前後の情勢。
・秩序党は「政府権力と軍隊と立法機関、つづめていえば国家の全権力を握っており」(だから、マルクスは、この時期を、ブルジョア共和派の執権の時期と呼ぶ)、「その上、この党の支配を人民の意志のようにみせていた総選挙によって……道徳的に補強されていた」(52ページ)
・純粋共和派(「ナシオナル派」)は、立法国民議会では「50人ばかりの徒党」になっていた。
・これに反して、「山岳党」は、750議席のうち200以上を占め、「大きな野党」になっていた。1849年5月28日には、「山岳党の前途には成功の要素がすべて備わっているように見えた」。「ところが、それから2週間後には、この党は、なにもかも失った、名誉も含めて」(52?53ページ)

「情勢と諸党派をもっと詳しく調べてみると、階級闘争とこの時期に固有な特性とをおおいかくしている、こういううわべの外観は消えてなくなる。」(54ページ)

このあたりで、マルクスは、史的唯物論と、オルレアン派と正統王朝派というブルジョアジーの二分派の関係とについて、交互に展開している。

正統王朝派とオルレアンはという「この両分派を相反目させていたものは、いわゆる原理ではなく、それぞれの物質的生存条件、2つの違った種類の所有であり、都市と農村の昔ながらの対立、資本と土地所有の敵対関係であった」。

「さまざまな形態の所有の上に、社会的生存諸条件のうえに、さまざまに違った、独特な形をとった感覚、幻想、考え方、人生観からなる上部構造全体が成立する。それらは、この階級全体が自分の物質的基礎のうちから、またそれにおうじた社会的諸関係のうちからつくりだし、かたちづくるものである。〔しかし〕一人ひとりの個人は、それを伝統と教育とをつうじて受け取るので、それらのものこそ自分の行為の本当の動機であり出発点であると思い込んでいる」。(55ページ)

オルレアン派と正統王朝派とは、主義のために分裂していたのではなく、「両派の利害が分かれていたからこそ、合同できなかったのである」(55ページ)。

「私生活では、ある人間が自分で自分のことをどう考え、どういうかと言うことと、その人間が実際にどういう人間で、なにをするかということとは区別されるが、歴史上の闘争ではなおさらのこと、諸党の言葉や空想と、その実際の構造、その実際の利害とを区別し、その観念とその現実とを区別しなければならない」(55ページ)

「オルレアン派と正統王朝派とは、共和制の下では等しい請求権を持って肩を並べていた。そのいずれもが相手方に対抗して自派の王家の王政復古をなしとげたいと願っていたということは、ブルジョアジーを分けるに大利益集団――土地所有と資本――が、それぞれ、自分自身の優位と相手方の従属とを復活させようとつとめていたということにほかならない」(55ページ)
「われわれがこれをブルジョアジーの2つの利益集団だというのは、大土地所有が、その封建ふうの気取りや血統の誇りにもかかわらず、近代社会の発展によって完全にブルジョア化されていたからである」(55?56ページ)。

「表舞台、国事劇の舞台では、議会の大政党としては、彼らは……君主制の復活を無期限に延期する。彼らは自分たちの本当のの仕事を……政治的権原によってではなく社会的権原によって、つまり遍歴の女王たちの護衛騎士〔封建領主〕としてではなくブルジョア的世界秩序の代表者として、共和派に対立する王統派としてではなく、他の諸階級に対立するブルジョア階級として、それをははたす」(56ページ)。「彼らが、秩序党として他の社会諸階級にたいしておこなった支配は、以前の復古王政や七月王政の時代にもまして無制限で苛酷なものであったが、そもそもそういう支配は、議会制共和制の形態のもとでのみ可能なものであった。というのは、この形態のもとではじめて、フランスのブルジョアジーの二大部分が一致協力することができ、したがって、彼らの階級の特権的な一分派の統治ではなしに、この階級全体の支配を日程に上すことができたからである。」(56ページ)。

しかし、「共和制はなるほど彼らの政治的支配を完成するが、同時にこの政治的支配の社会的基礎をほりくずす」(56?57ページ)。それにもかかわらず、「連合した王統派は、自分たちに対立する王位僣望者であるボナパルトと衝突するたびに、自分たちの議会的全能が執行権力によって脅かされていると思う度に、したがって自分たちの支配の政治的権原を表に押しださなければならなくなる度に、王統派としてではなく共和派として登場する」(57ページ)。

※この項目、まだまだ続く…。

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