ヘーゲルの弁証法(まだまだ続く)

「予備概念」の第20節から。ヘーゲルは、ここから数節で、「われわれが思惟にかんして持っている最も卑近な表象」を取り上げています。

まずヘーゲルがあげるのは、「普通に考えられているような主観的な意味」における思惟。つまり、「感覚や直観や想像、欲望や意欲、等々と同列の精神的諸作用あるいは諸能力の1つ」と考えられた思惟。(102ページ)

これにたいする批判は、106ページからの補遺で詳しく説明されている。

つまり、思惟を「記憶力や表象能力や意思の能力、等々」のような「主観の働きの1つ」ととらえる考え方。そうだとすると、論理学の対象は、他のあれこれの学問の対象と並ぶ、1つの特殊な対象になる。しかし、ヘーゲルにとって論理学は、そういう個別学問ではないので、こういうふうな考え方は批判される訳。

第20節の注釈で、ヘーゲルは、感覚と表象と思想との区別を説明している。

「感覚」の特徴は、個別性、互いに互いの外にあるような関連。したがって、「あれ、これ」というふうに併存していたり、「まずこれで、次はこれで…」とただ単に次から次にあげられるだけ。

「表象作用というものは、このような感覚的素材をその内容として持っているものであるが、しかしこの場合、その内容は私のうちにあって私のものという規定のうちに定立されており、更に普遍性、自己関係、単純性という規定のうちに定立されている」(103-104ページ)

「表象の特徴は大体、表象においてはこうした内容がやはり個々別々になっているという点にある」(104ページ)。

「しかしこのような本来精神的な諸規定もやはり、表象作用一般という内的な抽象的普遍性の広い地盤のうちで、個々別々になっている。それらは、こうした孤立性のために、法、義務、神というように単一である。そこで、表象は、法は法である、神は神であるというような立場に立ちどまるか、もっと教養をつんだ場合でも、個々別々の規定、例えば神は世界の創造者である、全知である、全能である、等々の規定を与えるにすぎない。後の場合でも、多くの個々別々の単一の規定が羅列されているにすぎず、各々の規定は、その主体のうちで結合が指示されているにもかかわらず、互いに無関係である。この点で表象は悟性と一致する。」(104-105ページ)

だから「表象はその無規定な空間のうちで、それら〔個々の規定〕を単なる『もまた』によって結合するだけで並列させておく」(105ページ)

「表象と思想との区別は特に重要である。というのは、一般的に言って、哲学の仕事は表象を思想に変えることにほかならないと言えるからである。」(105ページ)

【第21節 補遺】

 人間は単に知りなじんでいること、単なる感覚的現象では満足せず、その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする。そこで人は思惟し、現象そのものとは異なったもの、単に外面的なものでなく内面的なものとしての原因を知ろうとする。かくして現象は二重にされ、内と外、力と発現、原因と結果に分裂させられる。内的なもの、力などは個々でもまた普遍的なもの、永続的なものであって、個々の電光や個々の植物ではなく、すべてのもののうちであくまで同一なものである。感性的なものは個別的、一時的なものであって、そのうちにある永続的なものは思惟によって知られるのである。自然はわれわれに無数の個別的な形態や現象を示すが、われわれはこの多様のうちへ統一をもたらそうという要求を持っている。そこでわれわれは多様なものを比較し、すべての個に通じる普遍的なものを認識しようとつとめる。個は生滅するものであり、類こそ個のうちにあって恒久的なもの、すべての個のうちに復帰するものであるが、これはただ思惟にたいしてのみ存在するものである。……反省は常に不動なもの、恒久的なもの、自己のうちで規定されているもの、特殊を支配しているものを求めている。こうした普遍的なものは、感覚をもってとらえることのできないものであり、しかもそれは真なるもの、本質的なものという価値を持っている。(110-111ページ)

↑ここで言っていることは、非常に分かりやすい。

まず、人間は、「感覚的現象」では満足できず、「その奥をさぐり、それが何であるかを知り、それを把握しようとする」。そこで、人は思考して、現象とは異なったもの、外面的なものではなくて内面的なものとして、原因を知ろうとする。そうやって原因を知ると、現象は、内にあるもの(原因)が外に現われ出たもの、力(原因)が発現したもの、原因によって生まれたもの(結果)というふうに二重化してとらえられるようになる。これが「現象の二重化」。

個々のものは、個別的なものであり、あるときはあるものであり、別のときには別のものである、そういう一時的なものでしかない。だから、そういう個別的なもの、一時的なもの、うつろい変化するものではなく、そういうものの内にあって、恒久的なもの、共通なものは何であるのか――人はそれを知りたいと思うことになる。そういう思考の働きを「反省」という。感覚的、個別的、一時的な現象のなかから、それらに共通な、不動なもの、恒久的なもの、普遍的なものを探し求める。それが反省であり、反省によってえられた不動的なもの、恒久的なものは「真なるもの、本質的なもの」だということになる。

 普遍的なものをこのように規定するとき、このような普遍的なものは、ある他のものに対立しており、そしてこの他のものは、媒介されたもの、内面的なもの、普遍的なものに対峙しているところの、単に直接的なもの、外面的なもの、個別的なものである。このような普遍的なものは、普遍的なものとして現存在してはいない。われわれは類そのものを知覚することはできず、天体運行の諸法則は天に書かれているのではない。したがって普遍的なものは見たり聞いたりすることのできないものであり、ただ精神にたいしてのみ存在している。(112ページ)

反省によってえられた「普遍的なもの」からひるがえって考えると、出発点であった感覚的現象は、「普遍的なもの」「内面的なもの」によって「媒介されたもの」である、ということになる。

で、そうした普遍的なもの=類そのものは、具体的なものとして存在している訳ではない。たとえば、「動物そのもの」は存在しておらず、存在しているのは、イヌやネコなど、具体的な個別的な動物だけ。だから、そうした「類」は「ただ精神にたいしてのみ存在する」。

大事なことは、そうした類、普遍的なもの、本質的なものは、「ただ精神にたいしてのみ存在する」ものであっても、だからといって、それらは非実在的なもの、人間が勝手に考えたものではない、ということ。それが大事。

とりあえず第21節、ここまで。

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