地方紙の憲法社説を眺めてみた

「東京新聞」2008年5月3日付社説(同紙紙面から)

憲法記念日に前後して、憲法問題での地方紙の社説を眺めてみました。

信濃毎日新聞は、「憲法を暮らしの視点からとらえ直すこと」が大事だとして、5月2日から4日まで3日間、上中下にわたる社説を掲載したのが注目されます。そのなかで、「アフガンの人たちがいちばん聞きたがったのは、日本が経済大国への歩みを進むに当たり、平和憲法がどんなふうに役だったかの話だった」という話を紹介して9条の意義を強調、「平和で豊かな暮らしを守るためには、9条の縛りを緩めてはならない」と明快に主張しています。

社説:きょう憲法記念日 今こそ冷静な論議必要(秋田魁新報 5/3)
社説:憲法記念日に考える 『なぜ?』を大切に(東京新聞 5/3)
社説=憲法記念日(上) 9条は暮らしも支える(信濃毎日新聞 5/2)
社説=憲法記念日(中) 生存権を確かにしたい(信濃毎日新聞 5/3)
社説=憲法記念日(下) 表現の自由の曲がり角(信濃毎日新聞 5/4)
社説:憲法記念日/理念は生かされているか(北日本新聞 5/3)
社説:憲法記念日 今こそ憲法理念に思いを(岐阜新聞 5/3)
社説:憲法・生存権/「最低限」の生活の盾として(河北新報 5/3)
社説:憲法記念日 人権擁護し理想の追求を(神奈川新聞 5/3)
社説:憲法を考える(上)/9条を「国際公共財」に(沖縄タイムス 5/3)
社説:憲法を考える(下)/貧困と格差が尊厳奪う(沖縄タイムス 5 /4)
社説:憲法記念日 今こそ理念に輝きを (琉球新報 5/3)
社説:憲法記念日 改正論議の前に急ぐことがある(愛媛新聞 5/3)
社説:「生存権」が尊重される社会に 憲法と暮らし(西日本新聞 5/3)
社説:憲法記念日 平和に生きる権利 今こそ(北海道新聞 5/3)

秋田魁新報は、9条のように「守るべきもの」とそうでないものを「見極める目が何より肝要である」と指摘しています。

北日本新聞も、「いま求められているのは……憲法の理念に照らして社会の現状や普段の暮らしがどうなっているのか、検証すること」だと指摘。表現の自由(21条)や生存権(25条)の問題に光をあてています。神奈川新聞も、高齢者や障害者にたいする社会保障の切り捨て、ワーキング・プアなど貧困と格差の拡大に対して、「大きな人権侵害」だと批判しています。

イラク派兵航空自衛隊の活動を憲法違反とした名古屋高裁判決について、多くの社説が言及し、政府が判決無視を決め込んでいることを批判しているのも特徴です。

京都新聞は、非正規社員の問題に絞って社説を掲げていますが、結論は「憲法25条で保障する若年労働者の生存権を脅かしているのは政府であり、企業ではないか」「政府が憲法25条の生存権を脅かしてどうする」と強烈です。

社説:きょう憲法記念日 今こそ冷静な論議必要
[秋田魁新報 2008/05/03 09:39]

 ことしも「憲法記念日」が巡ってきた。国政運営のふがいなさもあり、やれ年金だ、ガソリンだと日々の暮らしに追われ、普段はあまり考える機会がないかもしれない。
 しかし、その暮らしなり政治なりの大本をたどってゆけば、憲法に突き当たることは何ら変わらない。いわば「国の屋台骨」である憲法に思いをはせる1日とするのも悪くはない。
 現在の憲法は多くの犠牲と塗炭の苦しみの上に成り立っている。まずこのことをしっかり胸に刻み直す必要がある。戦争の記憶が遠ざかれば、戦争の足音が近づきかねないからだ。
 憲法は基本的に国家権力に枠をはめるもので、国民に責務や義務を課す性格のものではない。これも決して忘れてはならない重要なポイントである。
 政権は国を思いもよらない方向に引っ張って行ったり、国民が望みもしない政策や法律を生み出したりする恐れを秘める。それに歯止めをかける「よりどころ」が憲法なのだ
 憲法をめぐっては一昨年秋から昨年秋にかけ、見逃せない動きがあった。安倍政権の下で憲法の改正手続きを定めた国民投票法が成立。焦点の9条改正論議も随分活発化した。
 一連の動きで気づかされたのは、政権ないし首相はその気になれば、相当のことができるということである。権力の大きさや怖さを実感させられたという人がいても不思議はない。
 もう一つ着目すべきなのは、かなり熱っぽかった改憲論議が、安倍政権から福田政権への交代により、ほとんど下火となったことだ。あの騒ぎは何だったのかと思うほどである。
 熱しやすく冷めやすいとでも表現すればいいのだろうか。憲法を改正するかどうかは最重要課題であり、賛成にしろ反対にしろ、論議を歓迎すべきなのは民主主義の基本である。
 その意味で熱っぽさが収まった今こそ、冷静に議論すべき時であり、賛成派も反対派もお互いの主張に耳を傾けることができるのではないか。
 つい最近、憲法に関して意味の重い判決が出た。イラクでの航空自衛隊の空輸活動は、他国の武力行使と一体化しており、9条に違反すると名古屋高裁が判断したのである。
 小泉、安倍、福田の歴代政権が合憲としてきた論拠を司法が否定したことになる。にもかかわらず、政府関係者には判決を軽視する発言が目立ち、危うさを感じざるを得ない
 判決は自衛隊の海外派遣を随時可能にしようと、政府や自民党が目指す恒久法の制定に冷や水を浴びせた格好にもなった。仮に制定するとしても、国民の理解が得られるかどうか。
 憲法は全く手をつけてはいけないものではない。しかし、9条の平和条項のように「守るべきもの」と時代の変容に合わせ「是正すべきもの」を見極める目が何より肝要である

社説:憲法記念日に考える 『なぜ?』を大切に
[東京新聞 2008年5月3日]

 日本国憲法の規範としての力が弱まっています。現実を前に思考停止に陥ることなく、60年前、廃虚の中で先人が掲げた高い志を再確認しましょう。
 昨年7月、北九州市で独り暮らしの男性が孤独死しているのが発見されました。部屋にあった日記に生活の苦しさがつづられ、最後のページには「おにぎりが食べたい」と書いてありました。
 男性はタクシー運転手をしていましたが肝臓の病気で働けなくなり、4月まで生活保護を受けていました。病気が少しよくなり、福祉事務所の強い指導で保護を辞退したものの働けず、にぎり飯を買うカネさえなかったようです。

忘れられた公平、平等

 全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶ちません。憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する」とあるのにどうしたことでしょう。
 国が抱える膨大な借金、将来の社会を支える若者の減少など、日本は難局に直面しています。しかし、最大の要因は弱者に対する視線の変化でしょう。
 行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させました。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、第25条は規範としての意味が薄れました。
 リストラでよみがえった会社の陰には職を失った労働者がたくさんいます。「現代の奴隷労働」とさえ言われる悪条件で働くことを余儀なくされた非正規雇用の労働者が、企業に大きな利益をもたらしています。
 年収200万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は1,000万人を超えると言われます。
 安い賃金、不安定な雇用で住居費が払えず、インターネットカフェや漫画喫茶に寝泊まりしている人が、昨年夏の厚生労働省調査で5,400人もいました。これは推計で実際はもっと多そうです。
 憲法には第25条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第27条)という規定もあります。
 「なのになぜ?」――ここにもそう問いたい現実があります。

黙殺された違憲判決

 「戦力は持たない」(第9条第2項)はずの国で、ミサイルを装備した巨船に漁船が衝突されて沈没しました。乗組員2人はいまだに行方が分かりません。「戦争はしない」(同条第1項)はずだった国の航空機がイラクに行き、武装した多国籍兵などを空輸しています。
 市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月17日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言しました。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示しました。
 しかし、政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の1人は人気お笑い芸人のセリフをまね「そんなのかんけえねえ」と言ってのけました。「判決は自衛隊の活動に影響を及ぼさない」と言いたかったのでしょうが、「憲法なんて関係ねえ」と聞こえました。
 イラク派遣反対のビラを自衛隊官舎に配った東京都立川市の市民は住居侵入容疑で逮捕され、75日間も拘置されたすえに有罪とされました。団地の新聞受けにビラを静かに入れて回っただけなのに「他人の住居を侵し、私生活の平穏を害した」というのです。
 ビラ配布は、組織、資力がなくても自分の見解を広く伝えることができる簡便な手段です。読みたくなければ捨てればいいだけでしょう。それが犯罪になるのなら憲法第21条が保障する「表現の自由」は絵に描いたモチです
 これでは、民主主義にとって欠かせない自由な意見表明や討論が十分できません
 国民から集めた税金で職場にマッサージチェアを設置したり豪華旅行をするなど、「全体の奉仕者」(第15条第2項)である公務員による私益優先のあれこれが次々明るみに出ました。
 長い間に「主権在民」(前文)が無視されて、主権在官僚のようなシステムを組み上げられてしまったのです。
 憲法は政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私たちの自由と権利を守り幸福を実現する砦(とりで)です。

国民に砦を守る責任

 憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第99条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第12条)、いわば砦を守る責任があります。
 その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたいものです。

憲法記念日(上) 9条は暮らしも支える
[信濃毎日新聞 5月2日(金)]

 61回目の憲法記念日がめぐってくる。これまでの数年間に比べれば、改正論議が落ち着きを見せている中での記念日だ。
 福田康夫首相の姿勢が影響している。「広く国民、与野党で議論が深められることを期待している」。改正について国会で問われると、そんなあいまいな答えでやり過ごしている。
 小泉純一郎元首相は「非戦闘地域」という奇妙な理屈を編み出し、戦闘の続くイラクに自衛隊を派遣して憲法の足元を掘り崩した。安倍晋三前首相は、憲法に立脚してきた戦後日本の歩みを「戦後レジーム(体制)」と呼び、そこからの「脱却」を訴えた。

<水面は穏やかでも>

 前任者2人に比べると福田首相は憲法問題から明らかに腰が引けている。内閣支持率が30%を割る現状では、憲法どころではない、というのが本音だろう。
 半面、改正論議は煮詰まった状態にあるのも事実だ。
 憲法とセットで定められた教育基本法は安倍政権の下で見直され、教育の目標に「わが国と郷土を愛する態度を養う」ことが盛り込まれた。改正の是非を問うための国民投票法は2年後、2010年に施行される。
 例えて言えば、湖の水面は穏やかでも、水位はかなり上がっている。首相が代わったり政界再編が起きたりすれば、水は一気に流れ出す可能性がある。
 そのときに備えるためにも、憲法のあり方について、いま、考えを深めたい。
 大事なのは、憲法を暮らしの視点からとらえ直すことだろう

<高度成長の基礎に>

 元駐アフガニスタン大使、駒野欽一さんから聞いた話を紹介したい。日本政府は新憲法の制定を進めるアフガン政府に対し、法律の専門家を派遣して支援してきた。アフガンの人たちがいちばん聞きたがったのは、日本が経済大国への歩みを進むに当たり、平和憲法がどんなふうに役だったかの話だったという
 戦後日本が経済建設にエネルギーを集中できたのは、軍備を切り詰めたことが大きかった。
 9条の歯止めがなければ、東西冷戦が厳しさを増す中で、日本は米国からより大きな軍事的役割を求められていたはずだ。韓国のように、ベトナム戦争を米軍と一緒に戦って死傷者を出していた可能性だって否定できない。日本企業のアジア進出にも警戒の目が向けられていたかもしれない。
 日本人が享受してきた安全で豊かな暮らしは多分に、憲法に支えられている。このことは繰り返し強調されてよい。
 防衛庁の制服組トップ、統合幕僚会議議長を務めた西元徹也さんは、9条が日本の安全保障政策の足かせになっていることを講演などで繰り返し訴えてきた。その西元さんも、日本が軍事的野心を持たないことを世界に向けて証明する上で、憲法が大きな役割を果たしてきたことは認める。
 憲法は平和を旨とする日本の基本政策の、いわば“保証書”にもなっている
 「実質的に自衛隊は軍隊だろう」。小泉元首相は5年前、国会審議でさらりと言ってのけた。
 自衛隊は軍隊なのだろうか。確かに、装備を見れば軍隊に見えないこともない。予算は世界有数の額である。
 「陸海空軍その他の戦力」は持たない、という9条の規定から遠く隔たったところまで、自衛隊は来ているのは事実だ。
 半面、自衛隊は専守防衛政策の「たが」をはめられている。航空母艦、戦略爆撃機など、国土を遠く離れて攻撃できる兵器は持っていない。集団的自衛権はむろん行使できない。
 「特別裁判所は、これを設置することができない」。憲法はこんな言い方で、政府に対し、軍事専門の法廷(軍法会議)を設けることも禁じている。
 国防の義務規定、軍事機密の保護規定、徴兵制…。軍事システムを運用するこうした法制度を日本は持っていない。
 自衛隊と軍の間には今のところ無視しがたい溝がある。自衛隊は軍のように見えて、まだ軍になりきれていない。

<「自衛軍」ができたら>

 自民党の新憲法草案には「自衛軍」の創設がうたわれている。その方向で改憲が行われたら、社会の在り方も一変するだろう。
 軍事機密には特別の保護の網がかぶせられる。国会には秘密公聴会が設けられる。
 「自衛軍」の創設は、自衛隊の現状の追認にとどまるものでは決してない。日本は軍事的価値に重きを置かない社会であることをやめて、戦争ができる国になる。質的な転換である。
 平和で豊かな暮らしを守るためには、9条の縛りを緩めてはならない。自衛隊を「軍」にしてはならない

   ◇  ◇

 憲法について、「暮らし」の観点から3回続きで考える。

憲法記念日(中) 生存権を確かにしたい
[信濃毎日新聞 5月3日(土)]

 人も社会も元気がない。明るい将来を見通すことも難しい。生きにくい世の中になったという切実な声があちこちから聞かれるようになった。
 働いても収入が低く、ぎりぎりの生活を強いられるワーキングプア(働く貧困層)や生活保護世帯が増えている。
 医療や福祉など、暮らしのさまざまな場面で社会的弱者へのしわ寄せが強まるばかりだ。そんな人たちを支えるはずのセーフティーネット(安全網)もほころびを見せ始めている。

<政治は暮らしに冷淡>

 憲法25条。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。生存権の保障である。今の社会は生存権が急速に心もとない状況に追いやられている
 政治は国民の悲痛な声に耳を傾けているだろうか。首をかしげざるを得ない。暮らしに思いを寄せる力が欠けている。
 「国が借金まみれになったのは税金の使い方を間違ったからでしょう。政治家や官僚が無駄遣いの責任を心から感じていれば、母子家庭など社会的弱者にしわ寄せはこないはず」
 北信地方で暮らしている30代の女性の言葉である。
 小さな工場でパートとして働いている。従業員の8割近くがパートと派遣だ。働き始めて10年近くになるが、正社員への道はない。新しい職を探しても書類ではじかれてしまうことが多い。
 年収は多いときで180万円ほど。仕事がなく、100万円ほどのときもあった。小学生の娘は病気がちで、医療費もかかる。毎月、クレジットカードでお金を借りて、生活費の穴埋めをしている。国民健康保険料を払うのがやっとで、国民年金の保険料を支払う余裕はまったくない。

<深刻化する格差>

 「その日を生きるので精いっぱい。憲法25条なんて夢のような話」とつぶやいた。
 国税庁が昨年秋にまとめた民間給与の実態調査によると、2006年の年収が200万円を下回った人は21年ぶりに1000万人を超えた。02年は850万人余だったから、わずか4年間で20%も増えたことになる。
 100万の大台を突破した生活保護世帯も危機的だ。政府は、老齢加算と母子加算の廃止を決めた。さらに保護水準の引き下げにも手を付けかねない状況である。
 先進諸国の中では最も低い水準の最低賃金も大きな問題だ。大企業は潤い、中小企業は苦しいまま?。経済の格差がそのまま暮らしの格差となり、企業や社会の活力を失う結果を招いている。
 主な原因は小泉政権が進めた構造改革路線である。安倍政権も踏襲して傷口を広げた。暮らし重視を訴える福田政権も格差については無策に近い。
 競争と効率ばかりが重視された結果、痛みに耐えきれず、多くの人が脱落していった。その矛盾が格差という亀裂を生んだのだ。
 社会に広がったこの亀裂は、人と人とのつながりを分断し、孤立化させている。ネットカフェ難民や路上生活者が増えていることばかりでなく、9年連続で年間自殺者が3万人を超えていることがその深刻さを物語っている。
 ここで確認しておきたいことがある。生存権は、連合国軍総司令部(GHQ)ではなく、当時、貧困問題の解消に取り組んだ日本の国会議員や在野の研究者らの熱意と努力が実らせたということだ。忘れてはならない。
 敗戦後の社会とは違うけれど、時代が変わろうとも、生存権は守り通さなくてはならない。今、求められるのは、生存権を確かなものにすることである。そのためにはどうしたらいいか――。

<異議を申し立てよう>

 25条第2項を思い起こしたい。国に対し、生存権の具体化について努力する義務を課している。政府、与党はそのことを肝に銘じるべきだ。
 そして、私たち国民は政府の怠慢に、さまざまな手段で異議を申し立てることを考えたい。
 近年、生活保護の老齢加算、母子加算の廃止や減額は、最低限度の生活を保障した憲法に違反するとして、取り消しを求める提訴が相次いでいる。食べて寝るだけが人間なのか、という重い問いを投げかけている。
 昨年の参院選でも、先日の衆院山口2区補選でも、与党が負けたのは、年金や新医療制度など生存権に直結する課題を政府、与党が軽視した結果である。
 暮らしを守るために国民は立ち上がり始めた。とはいっても、この動きは赤子のように、まだよちよち歩きの状態だ。
 生存権に魂を吹き込むには、他者の苦しみに共感する力が必要になる。無関心のままでは異議申し立ても力を発揮しない。共感を連帯へと育てられたら国を動かす大きな力になるだろう。
 生存権を守るため、国民の側から取り組みを強めていきたい。

憲法記念日(下) 表現の自由の曲がり角
[信濃毎日新聞 5月4日(日)]

 自由にものが言いにくくなっているのではないか。このところ、そのように感じる出来事が相次いでいる。
 靖国神社を扱ったドキュメンタリー映画の一時上映中止。日教組の集会を予定したホテルの一方的な契約破棄。イラク派遣に抗議してビラ入れをした市民への有罪判決…。
 憲法21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めている。一連の“事件”は、いずれも「表現の自由」を、根元から揺るがすものばかりだ。
 何が壁になっているのか、どうすればいいのか。あらためて考えてみたい。

<国民の自主規制>

 表現の自由をめぐる最近の動きの特徴の1つは、国民の側の自主規制の傾向だ。
 例えば、李(リ)纓(イン)監督による映画「靖国 YASUKUNI」が、上映の危機に陥った問題である。一部政治団体の抗議などを警戒した東京都内の映画館を中心に、中止に踏み切る動きが広がった。
 最終的には各地で公開の運びとなったものの、一時は上映の日程が危ぶまれる事態に陥った。
 日教組の全体集会の会場となったグランドプリンスホテル新高輪(東京都)が、右翼団体の妨害行為などを理由に一方的に契約を破棄したケースと似ている。
 公権力が直接中止を働きかけたわけでもないのに、映画館やホテルが事なかれ主義に走った。
 経緯はどうであれ、「表現の自由」の基盤を国民の手で崩した意味は重い。戦前の言論統制から解放されて60年以上もたったというのに、先行きが危ぶまれる。毅然(きぜん)とした姿勢が求められる。

<警察の姿勢に危うさも>

 映画「靖国」については、背後に国会議員の動きがあったことも見逃せない。
 自民党議員の要請がきっかけとなり、国会議員を対象にした異例の試写会が行われた。議員は、映画の政治的な中立性に疑問を投げ掛け、映画が文化庁所管の日本芸術文化振興会から助成金を得ていることを問題にした。
 議員が税金などの使い道をチェックすることに異論はない。だが、表現や思想にかかわる文化事業の中身に踏み込むことには、慎重であるべきだ。表現活動を萎縮(いしゅく)させる恐れがあるからだ。道路財源の使い道とはわけが違うことを、あらためて確認しておきたい。
 表現の自由をめぐる最近の2つ目の特徴は、政治的な主張を書いたビラ配りなどに、警察の捜査の手が伸びていることだ。
 例えば、2004年に自衛隊のイラク派遣に反対するために自衛隊宿舎内に立ち入った市民団体のメンバーが、住居侵入容疑で逮捕・起訴された。一審は無罪となったものの、高裁、最高裁は有罪と判断している。
 ほかにも、同様のビラ配りなどによる逮捕が目立っている。「住居」に立ち入ったのは事実としても、窃盗などの犯罪が目的ではない。ビラを配るために入った結果である。
 これで逮捕となれば、政治的な活動が制限されるばかりか、市民の知る権利が侵害されかねない。捜査のあり方や司法判断に再考を求めたい。
 「表現の自由」を取り巻く状況が、情報社会が進むにつれて複雑になっている点にも、注意を払う必要がある。
 「表現の自由」は、国民が政治をチェックし、参加を果たしていく重要な“武器”である。そのためには、意見を自由に発信するだけでなく、必要な情報を手に入れなければならない。「表現の自由」と「知る権利」は表裏一体の関係にある。

<対話の回路を>

 マスコミは本来、国民の知る権利を代弁する役割を担っている。戦後の新聞・放送・出版は、国や自治体の問題点を国民に伝え、政治をチェックする機能を曲がりなりにも果たしてきた。
 ところが、近年になってマスコミの取材活動に対し、プライバシーの侵害だとして抗議の声をあげるケースが増えてきた。マスコミ=国民が、ともに権力に立ち向かう図式が崩れてきた、と見ることができる。
 国民の立場にどこまで思いを寄せ、利害を代弁できているか、あらためて振り返る必要性を、われわれ報道現場に働く者は痛感している。
 ただ、マスコミの取材活動が法律によって制限されるようなことがあってはまずい。そうなれば、国民の「知る権利」が著しく後退するからだ。
 先に述べたように、「表現の自由」は国民の自主的な規制の動きと、警察の取り締まりの双方から挟み撃ちに遭っている。ここにさらに、取材活動に足かせをはめられれば、国民が権力の動きに目を光らせることはますます難しくなるだろう。
 マスコミと国民の対話の回路をもっと太くしていきたい。「表現の自由」の将来がかかっている。

憲法記念日/理念は生かされているか
[北日本新聞 2008年05月03日]

 施行から61年の憲法記念日を迎えた。生活様式が多様化し、国民意識も変化して、施行時と時代状況は様変わりしている。憲法の精神はいま、私たちの生活にどう生かされているだろうか。
 憲法をめぐっては、戦争放棄をうたった9条の改正問題が長らく焦点となってきた。福田内閣となって改憲論議は下火になっているが、自衛隊海外派遣の恒久法化など9条に絡む諸問題は常に横たわっている。平成22年には国民投票法が施行され、改憲発議が可能になる。
 ただ実際には、衆参両院に設置された憲法審査会がいまだに始動していない。国民の間に改憲待望論が高まっているともいえない。「時代に合わなくなっている部分がある」とする声は確かにあるが、9条改正となると慎重論が根強いのが実態だ
 いま求められているのは性急な改憲論議よりも、憲法の理念に照らして社会の現状や普段の暮らしがどうなっているのか、検証することではないか
 憲法は言うまでもなく国の最高法規であり、その下に多数の法律がめぐらされ、権力を縛り、国民の生活と権利を守る憲法秩序が形づくられている。
 ところが近ごろは、その意に反するようなとげとげしい出来事が多い。相次ぐ食品偽装で浮き彫りとなったのは、効率と利益追求に走る企業の姿だった。そこでは消費者の安全は無視され、「公共の福祉」という発想は見当たらない。深刻な状況が明らかになった学校裏サイトは匿名性を悪用した一方的な個人攻撃であり、大切な個人の尊厳を踏みにじるものだ。
 21条が掲げる表現の自由や、「知る権利」をめぐっても心配なことが続いた。靖国神社を扱ったドキュメンタリー映画の上映中止が相次いだり、政治的ビラの配布が住居侵入罪に問われた件などだ。社会を萎縮(いしゅく)させるような動きが目立たないだろうか。
 憲法の理念とはかけ離れた社会問題もクローズアップされている。自殺者数が年間3万人を超え、子どもの虐待事件が頻発している。若者を中心とした非正規雇用の拡大は将来にわたり格差を生み続ける不安の種であり、ワーキングプア(働く貧困層)の増加は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の?」と生存権を定めた25条の精神には程遠い
 さまざまな問題をよそに、この国の政治は機能不全ぶりをさらけ出している。重要案件がなかなか処理されず、まともな議論すらされずに国民生活に混乱を生じさせている。それは取りも直さず、衆参ねじれに対応できる国会運営ができていないということだ。
 選挙による政権交代がほぼ皆無で長らく一党優位体制が続いてきたために、それに合わせた慣例しか積み上げられてこなかった。憲法が規定する統治機構がまだ成熟していないといえる。
 衆参の第一党が異なる状況はしばらく続くだろう。その中でも、国民生活に資する政治は行われなければならない。2院制と政権交代を前提に、与野党の合意のあり方をもっと真剣に議論すべきである。それは憲法改正以前の問題だ。

憲法記念日 今こそ憲法理念に思いを
[岐阜新聞 2008年 5月 3日(土)]

 日本国憲法は施行61年の記念日を迎えた。「還暦」の節目に当たった昨年の記念日は、憲法改正手続きを定めた国民投票法の成立目前とあって、いやが上にも国民の関心を集めた。
 それから1年。政治の場での憲法論議はすっかり後景に退いた。改憲を公約に掲げた安倍晋三前首相が退陣し、福田康夫首相は慎重姿勢を取っていることが大きい。そのため衆参両院に設けられた憲法審査会も休眠したままになっている。
 とはいえ憲法をめぐる諸問題は、形を変えながらも絶えずわれわれの眼前に突きつけられている。その1つが国会の在り方だ。参院で民主党が第一党を占める「衆参ねじれ国会」で、憲法の規定が焦点となった。
 例えば「法律案は(中略)両議院で可決したとき法律となる」という59条は、今や政権に重くのしかかっている。同条2項の衆院での3分の2による再議決、同条4項の法案のみなし否決などをめぐって与野党が激しく攻防。2院制の見直し論も浮上している。
 一貫して改憲論議の中心だった9条をめぐる争いは表面上、沈静化した。安倍前首相が画策した集団的自衛権行使の解釈変更も当面、政治日程に上ることはなさそうだ。
 一方、インド洋での給油活動継続の新テロ対策特別措置法で苦慮した福田首相は、自衛隊の海外派遣を随時可能にする恒久法の制定に意欲を示す。
 だが国会の関与を少なくし、政府の判断だけでいつでも自衛隊を海外に送り出す仕組みは、憲法前文および9条の理念と合致するだろうか。慎重な議論が必要だ
 イラクでの航空自衛隊の空輸活動は違憲との判断を名古屋高裁が下した。小泉内閣以来、政府が説明してきたことが司法によって否定されたわけであり、意味は重い。
 ところが政府関係者からは判決を軽視するような発言が目立つ。司法の判断に耳を貸そうとしない態度は遺憾だ
 国民の生命・財産保護は国家の責務だが、格差社会が進む中で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条の精神は揺らぎ始めた
 非正規雇用者や年収200万円以下の人の増加は今や深刻な社会問題であり、後期高齢者医療制度(長寿医療制度)はわずかな年金に頼らざるを得ないお年寄りを痛打した。自己責任を問うだけでは問題は解決しない。時代に合った制度をどう構築するか、政治には25条に魂を入れるべく不断の努力が求められている。
 憲法21条にうたわれている言論や表現の自由、「知る権利」についても気掛かりな出来事が目立つ。
 政治的ビラ配布で住居侵入罪に問われたり、取材記者に情報を提供した自衛官が防衛秘密漏えいの疑いで書類送検されたりした事案だ。また都内のホテルが右翼団体による妨害を理由に日教組集会の会場使用を拒否したことや、映画「靖国 YASUKUNI」に横やりが入って上映中止になったことも見過ごしにできない。
 社会が萎縮(いしゅく)すれば人権と民主主義は危うくなる。公正で開かれた自由な社会を守り発展させるため、むしろ今こそ冷静に憲法を議論すべきではないか。1年後に迫った裁判員制度を円滑にスタートさせるためにも、憲法の理念に思いを巡らせたい。

憲法・生存権/「最低限」の生活の盾として
[河北新報 2008年05月03日土曜日]

 伝染する病でもあるかのように自殺のニュースが相次ぐ。全国の1年間の自殺者数(警察庁集計)が初めて3万人を超えた1998年以降、同じような状態が続いてきた。
 一人一人が背負い込んでしまった「生きづらさ」の社会的な総和が、集計値に映し出されているだろう。
 原因・動機別の内訳は、どの年も「健康問題」が最も多く、次いで多いのが「経済生活」である。
 国民の「生存権」を掲げる憲法25条を思い起こす。
 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
 「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障および公衆衛生の向上および増進に努めなければならない」
 昨年5月、国民投票法(憲法改正手続き法)が成立し、公布された。振り返れば、改憲論議が高まった小泉純一郎―安倍晋三政権下のその時期に、生存権を脅かす不安の影は、わたしたちの暮らしの場で一層濃くなったのではなかったか。
 「最後のセーフティーネット」であるはずの生活保護の切り下げが進む。申請窓口での選別が厳しくなり、「母子加算」「老齢加算」が縮減・廃止された。老齢加算の廃止については70歳以上の受給者が憲法違反と主張して、青森、秋田など各地の地裁に提訴して争っている。
 生活保護よりさらに低い水準に設定されているのが最低賃金制度。東北は各県とも全国平均を下回る。その最低賃金に合わせるようにして、国は生活保護基準の引き下げを決めた。
 「最低」の限界を競い合うような現状でいいか。「聖域」なき歳出削減、財政改革を目指すとして、最低限の暮らしを維持する権利までをも対象にする基本路線で本当にいいのか
 健康で文化的な生活が、自己責任とは無縁に根こそぎ破壊されてしまうのが戦禍である。だからこそ、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」(憲法前文)して、戦後社会は出発した。
 先月、イラクでの航空自衛隊の活動を違憲と判断した名古屋高裁判決は、憲法前文の「平和のうちに生存する権利」、平和的生存権をはっきり位置付けた。あらためて記憶に刻み込んでおこう
 「現代において憲法の保障する基本的人権は平和の基盤なしには存立し得ない」「平和的生存権はすべての基本的人権の基礎にあって、単に憲法の基本的精神や理念を表明したにとどまるものではない」
 国会で改憲発議が可能になる国民投票法の施行は2年後の2010年5月。政治のていたらくを見れば、現在の「二大政党」が今後、どんな曲折を経て憲法改正の具体像を提示してくるかを見通すのは容易ではない。
 しかし、大切なこと、忘れてはならないことは明らかだ。「最低限度の生活を営む権利」「平和のうちに生存する権利」。盾として、この2つを手放さない心の構えを保ちたい。

憲法記念日 人権擁護し理想の追求を
[神奈川新聞 2008/05/03]

 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」――。前文で国際社会にこう誓った日本国憲法が、きょう施行61年を迎えた。
 焦土から復興に立ち上がった先達の努力によって、現在の日本は自由な民主主義諸国の一角を占めるに至った。先輩たちへの感謝を忘れてはなるまい。ところが、最近、この成果を土台から腐食させるような問題が続いている。
 第1が、ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止、日教組集会の会場使用拒否などで表面化した表現の自由、集会の自由の危機である。一部の映画館、ホテルが右翼団体の街頭宣伝活動などに萎(い)縮(しゅく)した結果、自由が封じられた。嫌がらせや不法行為には警察を含めて行政、社会が毅(き)然(ぜん)とした態度を取るべきだ。ところが「靖国」の例では、騒ぎの発端をつくったのは与党の国会議員だった。
 そこで思い出されるのが、反戦ビラ配布が狙い撃ち同然に検挙された立川反戦ビラ事件だ。政府に批判的な表現を抑圧し、萎縮させるような権力の動きがあった。
 表現の自由は民主主義の土台である。もし萎縮の連鎖や権力の暴走が続くようなら、日本は戦前のような「物言えぬ社会」「専制と隷従、圧迫と偏狭」の社会に戻ってしまうだろう。国民一人一人が、表現の自由を守り抜く決意を持たなければならない。
 第2は、貧困、格差の問題だ。憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と、生存権を定めた。高齢者や障害者の福祉が切り捨てられ、汗水流して働いても生活保護水準、貧困ラインを抜け出せない人々がいるのは、大きな人権侵害であると指摘したい
 世界を見渡せば、医療福祉が整備され、格差の小さな国は、社会経済も安定し、国民の幸福度も高い。日本がこのまま福祉や年金、医療を崩壊させ、働く貧困層を拡大させたらどうなるか。社会はすさみ、経済の底力も失われるだろう。選ぶべき道は明らかだ。
 最後に、平和主義の問題だ。名古屋高裁は先月、航空自衛隊によるバグダッドへの多国籍軍武装兵員輸送を憲法9条違反とした。しかし、政府は判決を無視したままだ。なし崩し的な自衛隊の運用、平和主義からの逸脱をこのまま進めていいのだろうか。あすから3日間、千葉市で「9条世界会議」が開催される。憲法9条の世界史的な意義を再確認したい。
 日本人は今、目先の利益や安心に汲々(きゅうきゅう)としているように見える。果敢に難問に挑み、世界に理想や模範を示すという気概を失ってはいないか。日本国憲法は人類の経験と知恵、理想の集積である。この憲法から勇気を得て「名誉ある地位」への努力を進めたい

社説 憲法を考える(上)/9条を「国際公共財」に
[沖縄タイムス 2008年5月3日朝刊]

 2国間同盟を維持する上で最も大切なのは「相互の信頼」だといわれる。信頼とは、してほしいと相手国が望んでいることをすることだ。
 「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」(地上部隊の派遣)という米国の要求にこたえて小泉政権は、いち早くブッシュ政権支持を表明し、急ごしらえの法律に基づいて自衛隊をイラクに派遣した。
 だが、大量破壊兵器は発見されず、フセイン政権がアルカイダに協力したことを示す証拠も見つからなかった。中東を民主化するというもくろみも「アメリカ的価値の押し付け」だとイスラム世界の激しい反発を招いた。
 イラク攻撃は国連憲章違反の疑いが濃厚である。米国でも「誤った戦争」だとの評価が定着しつつある。問題は「毒を食らわば皿まで」の姿勢に終始する日本の外交・安全保障政策だ。
 イラク国内の戦闘地域と非戦闘地域の区別を問われ、小泉純一郎首相は「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域だ」と答えた。
 航空自衛隊によるイラクでの空輸活動は憲法9条に違反するとの名古屋高裁の判決に対し、田母神俊雄航空幕僚長はちゃかすように答えた。「私が(隊員の)心境を代弁すれば『そんなの関係ねえ』という状況だ」
 この発言からは憲法99条の「憲法尊重擁護義務」を守ろうとする姿勢が全く感じられない。戦前の歴史をひもとくまでもなく、指揮官が平気でこのような物言いをし始めるのは危険である。ここに見られるのは憲法9条に対する根深いシニシズム(冷笑主義)だ。
 在日米軍はすでにして安保条約の枠を超えた活動をしている。事前協議制は空文化し、極東条項も、あってなきがごとき状態だ。憲法9条だけでなく安保条約さえも、現実との乖離がはなはだしい。
 米国が日本に求めているのは、日米同盟を米英同盟のような同盟関係に変えることである。もっと言えば、集団的自衛権が行使できるように日本の法制度を変えることだ。
 だが、想像してみよう。もし、9条がない状態でイラク戦争を迎えていたら、どうなっていたか。米国の国家戦略に従って海外に軍隊を派遣し共に血を流して戦う――そのような同盟関係を築くことがほんとうに望ましい日本の未来像だといえるのか。
 9条改正や同盟強化を言う前に、F15戦闘機の未明離陸をなんとかしてもらいたい。それが嘉手納基地周辺住民の心境だろう。
 沖縄戦から63年がたつというのに沖縄は今もって「戦後ゼロ年」(目取真俊さん)のような状況にある。米軍駐留を維持するための施策が社会構造までいびつにしてしまった。
 憲法前文と9条に盛り込まれた平和主義と国際協調主義は、戦争体験に深く根ざした条項であり、沖縄の歴史体験からしても、これを捨て去ることはできない。
 ただ、護憲という言葉に付着する古びたイメージを払拭するには、護憲自体の自己改革が必要である。9条を国際公共財として位置づけ、非軍事分野の役割を積極的に担っていくことが重要だ。

社説:憲法を考える(下)/貧困と格差が尊厳奪う
[沖縄タイムス 2008年5月4日朝刊]

 憲法は今、自分の無力を嘆き悲しんで泣いているのではないか。そう思わせるような暗たんとしたニュースがこの数年、目立って増えた。
 北九州市で2006年5月、独り暮らしの男性(56)が職を失って生活に窮し、電気、水道、ガスのライフラインを止められ、生活保護も受けられずに死んだ。
 同じ北九州市で07年7月、生活保護を受給していた独り暮らしの男性(52)が生活保護を「辞退」したあとしばらくして飢餓状態で死んだ。「オニギリ食べたい」という言葉を日記に書き残して。
 山形市で08年4月、58歳の無職の男性と87歳になる母親が死んだ。無理心中だとみられている。
 後期高齢者医療制度(長寿医療制度)がスタートしたことで男性は「母親の年金から保険料が天引きになって生活が大変」だと周囲に漏らしていたという。実は母親の保険料は激変緩和措置で9月までは年金から天引きされない。男性は母親が免除対象になっていたことを知らずに無理心中を図った可能性があるという。
 低所得者ほど実質的負担が高くなるという「負担の逆進性」が強まっている。
 県内で生活保護を受けている人は05年から3年連続で過去最多を記録した。
 国民健康保険料の長期滞納で保険証が使えなくなり、医療を受けたくても受けられない人たちが全国的に増えている。
 貧困と格差の広がりが社会全体をむしばみ、人間としての尊厳まで奪いつつある。
 憲法第25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めている。生存権を保障したこの規定は今、かつてない深刻な試練に立たされている。
 06年4月、生活保護の老齢加算が廃止され、07年4月には母子世帯の母子加算も見直された。低所得者の生活費よりも高いとの理由で厚生労働省は生活保護費の引き下げを検討している。
 受給対象者の増加が国や地方自治体の財政を圧迫しているのは確かだ。だが、ない袖は振れないと保護水準を切り下げたり、生活保護を受けたくても受けられないケースが多発している現状は、生活に困っている人たちの「最後の命綱」を奪いかねない。
 労働、教育、医療などの分野で今、起きているのは「負の悪循環」というほかないような事態である。
 昔の「貧乏」と今の「貧困」は、どこかが違うような気がする。その違いをうまく言い表すことはできないが、昔の「貧乏」には「ぼろは着てても心は錦」のような未来への可能性と希望が満ちあふれていたのではないか。
 希望の持てない社会は、相互の紐帯が弱まり、不安定なバラバラの社会になる可能性がある。
 「すべて国民は、個人として尊重される」。前段で個人の尊重をうたった憲法第13条は、後段で幸福追求に対する国民の権利について「国政の上で最大の尊重を必要とする」と規定している。

憲法記念日 今こそ理念に輝きを
[琉球新報 2008年5月3日]

 きょうは憲法記念日。1947年5月3日の施行から61年を迎えた。この間、憲法は日本の平和と国民の人権を守る砦(とりで)の役目を担ってきた。だが、いま日本は「違憲」の国になりつつある。憲法を取り巻く動きを検証した。
 戦前の大日本帝国(明治)憲法と、戦後の日本国憲法の大きな違いは主権在民。つまり、天皇主権から国民主権への転換だ。新憲法は天皇を国の「象徴」とし、「主権が国民に存する」と宣言した。
 戦前。国民は「天皇の赤子」だった。天皇のために国民は命を賭して国を守り、そのために多くの国民が戦争の犠牲になった。

司法判断無視の政府

 その反省から、憲法前文は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意」し、第9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」を明記した。
 しかし、現実は自衛隊という紛れもない「軍隊」を保持し、海外に派遣している。
 ことし4月17日、名古屋高裁はイラクに派遣された航空自衛隊の空輸活動が「他国の武力行使と一体化し、憲法9条に違反する」との判断を下した。
 だが、政府は「違憲」判断を事実上無視し、自衛隊の派遣を継続している。
 憲法は国の最高法規で「その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と、第98条は定めている。
 そして第99条は、大臣や国会議員、公務員らは「憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と明記している。
 法治国家のはずの日本で最高法規の憲法を守らず、従わず、尊重せず、「違憲」行為を重ねる政治が行われている。
 尊重どころか改憲論議も加速している。焦点は常に「9条」で、軍隊の保有が改憲派の主な狙いだ。
 政権与党の自民党は立党50周年を機に2005年11月に新憲法草案をまとめている。
 草案は憲法前文から「国家不戦」の決意を削除。「戦争の放棄」を「安全保障」に変更し、「自衛軍の保持」を明記。国内のみならず国際任務での自衛軍の活動を盛り込んでいる。
 安倍晋三内閣の下で、すでに憲法改正をにらんだ国民投票法を成立させている。
 自民党と連立を組む公明党は、9条を維持しながらも「新たな人権」を盛り込む「加憲」論に立つ。
 野党最大の民主党は改憲、護憲の両勢力が党内で拮抗(きっこう)する中で、自由闊達(かったつ)な憲法論議を是とする「論憲」「創憲」論を展開している。これも突き詰めると「改憲」の流れにある。
 「護憲」勢力の社民党や共産党は、平和憲法の趣旨の徹底を目指す「活憲」論で迎え撃つなど、攻防は水面下で激しさを増している。

護憲のうねりつくろう

 最近の映画「靖国 YASUKUNI」の上映をめぐる動きも憲法論議に発展した。
 文部科学省は国会議員らの要求で、同映画の試写会を行った。試写後、主要シーンの削除や上映禁止を求める動きが議員らから出た。
 憲法は言論の自由、出版など「表現の自由」(第21条)を保障し、検閲を禁じている。「靖国」をめぐる動きは事前検閲や表現の自由を侵害する「違憲」行為にも映る。
 沖縄の現状はどうか。戦後、沖縄が平和憲法の庇護(ひご)の下に入ったのは1972年の本土復帰後だ。
 それまでの米軍統治下の沖縄では国民主権はおろか「自治は神話」とまで言われ、基本的人権は保障されず、多発する米軍犯罪の被害に泣き、銃剣とブルドーザーで家や土地を奪われ、財産権を侵害され続けてきた。
 いま、沖縄は日本に復帰し平和憲法の下にある。それなのに「法の下の平等」に反する米軍基地の過重負担、深夜早朝の爆音被害、実弾演習被害、有害物質の流出や禁止兵器の使用、そして繰り返される米兵犯罪で「平和的生存権」が侵害され続けている。
 条文だけの憲法は役に立たない。尊重し、守り、守らせてこその立憲・法治国家である。
 人権や自治のない米軍統治下で平和憲法を希求し、本土復帰運動を展開した沖縄である。
 失われつつある平和憲法の理念を問い掛け、順守し、実効性を取り戻す運動を沖縄から始めたい。

社説:憲法記念日 改正論議の前に急ぐことがある
[2008年05月03日 愛媛新聞]

 施行60年の節目だった昨年の憲法記念日から1年。情勢は大きく変わった
 任期中の憲法改正を掲げ、昨夏の参院選の争点にもした安倍晋三前政権が参院選で惨敗。結局、政権を投げ出した。
 改憲や教育基本法改正などを「戦後レジームからの脱却」と位置づけ、集団的自衛権行使の憲法解釈変更にも積極姿勢を示した「安倍政治」は、あまりにも保守回帰が目立った。
 参院選では年金記録の不備や「政治とカネ」をめぐる閣僚の不祥事などがクローズアップされたが、保守回帰を急ぐ「安倍政治」に有権者がノーを突きつけた側面も見逃せまい。
 また、改憲の手続きを定める国民投票法が昨年5月中旬に成立、公布された。施行は公布から3年後の2010年。それまで改憲案の原案提出や審査が禁止される。いわば改憲論議の猶予期間となった。
 この過程で安倍前首相はミスをした。投票法案は与党と民主党の修正協議が合意寸前だったが、改憲を争点化したため協力態勢は空中分解。改憲の機運と可能性が一気にしぼんだ。与党は墓穴を掘ったといえる。
 昨年8月に衆参両院に設置された憲法審査会も始動できず、宙に浮いた状態だ。さらに政権を引き継いだ福田康夫首相は憲法論議に慎重な姿勢だ。
 ある意味で、憲法について冷静な論議ができる時間が与えられたことになる。熱に浮かされたような改憲論議ではなく、地に足の着いた幅広い論議が今こそ求められよう。
 その一方で気になるのは、憲法の空洞化といえる現象がますます目立つことだ。
 例えば、名古屋高裁は航空自衛隊のバグダッドへの空輸活動を「他国の武力行使と一体化し憲法9条に違反する」と明快に認定。この判決が確定した。にもかかわらず、政府は派遣を続けている。憲法をないがしろにするゆゆしき事態だ
 また4月に始まった後期高齢者医療制度(長寿医療制度)は年金に頼るしかない高齢者、とりわけ低所得者層を直撃した。事務の混乱も重なり、お年寄りたちは悲鳴を上げている。
 働いても十分な収入が得られないワーキングプア(働く貧困層)の問題も深刻だ。若年層や母子家庭など弱い立場の人たちが、非正規社員を増やしてコストダウンを図る企業戦略の犠牲になっている。
 記録の不備で何千万件という年金が宙に浮いた問題といい、医療、福祉、雇用などさまざまな分野で人々が生活の不安におびえている。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法25条の空洞化が進んでいるのは確かだろう。
 「国民が主権者となった国家が、無軌道に道を踏み外さない仕掛けが憲法」―樋口陽一東大名誉教授はこう述べる。現在、まさに国家が道を踏み外しつつあるのではなかろうか。
 声高に改憲を主張する前に、政府は一刻も早くこうした事態を改める義務があるはずだ

社説:「生存権」が尊重される社会に 憲法と暮らし
[2008/05/03付 西日本新聞朝刊 2008年5月3日 00:17]

 憲法記念日に、国民の暮らしについて触れるのは、そのことが今、とても気掛かりだからです。
 とりわけ、社会的弱者とされる高齢者、障害者、低所得者らの生活が守られているだろうか、人として尊厳を持って生きていけているだろうか、と気になります。
 憲法25条は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とし、国は「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と規定しています。
 国民が等しく不安のない暮らしを続けられる、少なくとも生活に行き詰まることはないよう措置する努力を、憲法は国に求めているのです。
 ところが、現実はどうでしょう。弱者を苦境に追い込むような状況になっていないでしょうか。

■弱者へのしわ寄せ進む

 例えば高齢者医療です。本年度から始まった後期高齢者医療制度は「高齢者切り捨て」との批判が絶えません。
 75歳以上を従来の健康保険から切り離して別保険とし、保険料徴収は取りこぼしがないよう年金からの天引きとしました。
 問題は、低所得の高齢者に配慮のない、その仕組みです。保険料徴収を都道府県単位に一本化したことで、市町村が独自に行ってきた低所得者への軽減措置がなくなったのです。
 子女に扶養されている高齢者も、いずれ保険料を徴収されることになります。わずかばかりの年金を頼りに暮らす高齢者には、新たな重い負担です。
 全体の医療費が増えれば当然、保険料は上がります。高齢者は受診を手控えるようになるでしょう。「切り捨て」批判もむべなるかなです。
 政府は負担軽減策の検討を始めましたが、医療費抑制という制度の狙い自体に疑問があります。確かに年間30兆円を超す医療費の35%超が老人医療費です。高齢者の8割が加入する国民健康保険は赤字です。高齢化が進めば当然、医療費は膨らみます。
 しかし、それは高齢化社会の必要コストだと考えられないでしょうか。国内総生産(GDP)比8%という日本の医療費は、先進国のなかで目立って低率です。先進各国は医療費増を当たり前のことと受け止めているのです。
 医療費抑制がさまざまな「副作用」を引き起こしているのも周知の通りです。産科や小児科の医師不足、救急現場での患者のたらい回し…。安心の暮らしを保障する医療が、国民を戸惑わせ、弱者を不安にさせています。
 医療だけではありません。老後の生活資金である年金のずさんな管理、医療同様に財政の論理が前面に出てサービスが削られる介護保険制度も、国民の将来を暗くさせています。
 高齢者や失業者、母子家庭などの最後のよりどころである生活保護すら十分機能していると言えない実情です。
 憲法25条を具体化した生活保護法は「保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」とわざわざ規定しています。
 しかし、現状は、財政難から自治体が審査を厳しくする傾向にあります。北九州市で生活保護を打ち切った後、対象者の孤独死が相次いだのは記憶に新しいところです。

■無視できぬ若年貧困層

 はつらつと人生を送るべき若者にも危うさが付きまとっています。ワーキングプア(働く貧困層)の問題です。
 労働者の4人に1人が年収200万円以下、日雇い派遣労働者の平均月収は13万円余りです。多くが若者です。
 借家住まいではやっていけず、インターネットカフェで寝泊まりする者が1日6万人と推計されています。
 生活保護水準以下の実態を、さすがに国も無視できず、最低賃金法に「健康で文化的な最低限度の生活を営むことができるよう、生活保護にかかわる施策との整合性に配慮する」の一項を加え、最低賃金の底上げをしました。
 市場競争経済が所得格差を生んでいると言われます。そこからこぼれ落ちた若者を苦境に追い込むのではなく、一定の生活を保障し、再起を応援する仕組みこそ今、求められています。
 政府は企業への正規雇用の働き掛けや、失業者の再起のための職業訓練などに着手していますが、まだまだ十分とは言えません。
 憲法25条は「最低限度の生活」を保障する立法や必要な措置を国に義務付けています。政府は台所事情が怪しくなったからと、弱者の生活の基準を切り下げてはなりません。
 財政支出が膨らむのは仕方のないことです。負担は持てる国民が自然に分かち合えるよう、政府が誘導すればよいのです。それが政治です。
 内閣府の国民生活調査では、「生活に悩みや不安を感じる」人は過去最高の69.5%に達しています。この数字を政府は重く受け止めるべきです。
 人が助け合う温かさを失った社会に未来はありません。弱者を包み込める社会こそ、憲法が求めているものではないでしょうか。

社説:憲法記念日 平和に生きる権利 今こそ
[北海道新聞 5月3日]

 昨年のいまごろは、安倍晋三政権下で改憲の手続きを定める国民投票法案が大きな議論になっていた。
 いま、福田康夫首相が憲法に言及する場面はほとんど見られない。
 ねじれ国会の下、年金や道路財源問題など早急に取り組まねばならない課題が山積しており、それどころではないというのが本音だろう。
 衆参両院に設けられた憲法審査会は運営規定もまだ決まっていない。2010年に改憲発議は可能になるが、改憲の動きは表面的にはやや勢いが落ちてきたようにも見える。
 日本国憲法が施行されてきょうで61年となる。憲法とは何か、私たちの暮らしにどうかかわるのか。この機に思いをめぐらせてみたい。

*軽視された違憲判断

 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を基本原理とする現憲法には人々の「戦争は2度といやだ」という強い願いが込められている。
 なかでも前文と9条は世界に向けた平和と不戦の表明でもある。
 その誓いを戦後、政府はないがしろにしてきたのではないか。そう問いかける司法判断が4月17日、名古屋高裁で示された。
 イラクに派遣された航空自衛隊の活動は武装兵士を戦闘地域に輸送するものであり、憲法9条が禁じる武力行使にあたると指摘したのだ。
 自衛隊を海外に送り出すために憲法を拡大解釈してきた政府の姿勢を厳しく戒めるものとなった。
 政府は、判決をことさら軽視しようとしている。隊員の心境について航空幕僚長はお笑いタレントのせりふを引用し、「そんなの関係ねぇという状況だ」と言った。
 憲法は国の最高法規だ。99条は大臣や国会議員、公務員らに憲法の尊重と擁護義務を負わせている。
 にもかかわらず政府が違憲判断を真摯(しんし)に受け止めず、文民統制を崩しかねない制服組の発言を放置する。法治国家としてどうなのだろう。
 政府はイラク派遣を人道支援、国際貢献と言ってきた。しかし、政府がいまなすべきことははっきりしている。イラクから撤退し、憲法にのっとって武力に頼らない国際貢献のあり方を考え直すことではないか。

*生存権が脅かされる

 憲法の前文に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免(まぬ)かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。
 その「平和に生きる権利」がいま脅かされ、侵害されてはいまいか。
 31歳のフリーターが月刊誌に発表した「希望は戦争」という論文が昨年、反響を呼んだ。
 戦争は社会の閉塞(へいそく)状態を打破してくれる。生活苦の窮状から脱し、一人前の人間としての尊厳を得られる可能性をもたらしてくれる。戦争は悲惨でもなくむしろチャンスだ?。
 慄然(りつぜん)とさせられる物言いだが、こうした発言が出てきた社会のあり様(よう)を深刻に考えなければなるまい。
 米国では実際に、貧しい若者たちが生活の保障を求めて軍に志願し、イラクへと送られている。
 憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とうたっている。
 しかし、ワーキングプアと呼ばれる新たな貧困層が増え続けている。年収240万円以下が1,000万人を超え、100万円以下も珍しくない。
 後期高齢者医療制度にお年寄りから悲鳴が上がっている。社会保険庁のずさんな管理で、わずかな年金さえ受け取れない人がいる。生活保護世帯は全国で100万を超えた。
 25条は2項で「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と定めている。それを実践し、憲法を暮らしに定着させるのは国の責務なのだ。

*軍事に頼らぬ平和を

 北海道新聞社が4月に行った世論調査によると、7割の人たちが憲法を改めるべきだと答えている。
 「時代の変化に応じた方がよい」との理由がもっとも多かった。環境権やプライバシー権、知る権利といった、新たな権利の保障などが念頭にあるのだろうか。
 ただ、これらの人権は現憲法でも保障されているとする憲法学者は多い。確かに憲法は「不磨の大典」ではない。国民的論議を広げていくことは必要だろう。
 9条については改憲容認の人たちでも、6割近くが変更しなくていいと答えた。逆に変更して戦力保持を明記するべきだとした人は大幅に減って、3割にとどまった
 自民党の新憲法草案は、現憲法前文の「平和のうちに生存する国民の権利」を捨て、戦力不保持と、交戦権の否認を定めた9条2項を削除し自衛軍の創設を盛り込んでいる。
 戦後、海外で一度も武力行使をせず、血を流さなかった日本の姿を大きく変えることになる。
 イラクの惨状は、武力で平和はつくれないという当たり前のことを見せつけた。軍事力に頼らず平和を目指そうとの流れが世界で生まれつつある。平和憲法を持つ日本がその先頭に立ってもいいのではないか。

憲法記念日  非正社員の生存権が危うい
[京都新聞 2008年05月03日掲載]

 「明日から来なくていい」。突然、首を言い渡されることも珍しくない。失業が前提なのだ。
 そうかと思えば、「すぐに来られるか」と再度、声をかけられることもある。低賃金のうえ、企業にとっては景気や受注に合わせて労働力を調節できる便利な「調整弁」でもある。
 これが、アルバイトやパート、派遣社員など非正規雇用の実態という。そんな若者らによる小さなメーデーの催しが先月末、京都市内であった。
 主催したのは関西非正規等労働組合(通称・ユニオンぼちぼち、京都市南区)。京都や大阪などの非正規雇用の若者たち約50人が加盟する。
 「恩恵としての祝日よりも、権利としての有給を」を合い言葉に集合。
 恩恵としての祝日は給料が出ない。休んでも給料が出る権利としての有給を――というわけで、プラカードを手に約100人がデモ行進した。
 若者を中心に非正規の雇用が増え、全従業員の3分の1を超えた。いくら働いても収入が低く、ぎりぎりの生活を強いられるワーキングプア(働く貧困層)も増加の一途をたどる。
 今や、日本の現状は「格差」というよりも、むしろ「貧困」とみるべきだとの指摘が相次ぐ。
 国民投票法成立など、安倍晋三政権下で盛んだった憲法改正論議は、昨夏の参院での自民党大敗を受けて誕生した福田康夫政権では一転、開店休業の状態が続く。代わって若者の貧困との関係でクローズアップされたのが生存権だ。きょうは61回目の憲法記念日。暮らしの足元で、憲法がないがしろにされてはいないか。

解雇前提で調整弁?

 生存権は、日本国憲法の第25条で保障している。
 1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定め、続く2項では「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と記す。
 国民が、人間らしく生きてゆくために必要な条件、待遇などの確保を国に要求する権利なのだ
 ただ、憲法改正といっても大抵の人は実感がないように、日常生活のなかで、憲法を意識することはほとんどないかもしれない。
 ユニオンぼちぼちの結成にかかわった副執行委員長の中村研さんも「解雇されるのが当たり前の状況の中で危機感は強いが、すぐに25条を意識するわけではない」。非正規やフリーターであることは、努力が足りないなど自己責任が強調されてきた。ものが言えない時期が続いていたのが「仕事を。残業代を払え。私たちも苦しいんだと声をあげられるようになったのが大きい」と言う。
 それにしても「解雇が前提」、「調整弁」というのでは、若者たちの生存権が危うい。

派遣法改正が後押し

 若者の雇用・労働事情が急激に悪化したのは1990年以降だ。バブル崩壊後のリストラを背景に、93、4年から長期の「就職氷河期」に入る。
 新卒でも正社員になれず、フルタイムの非正社員が増えた。
 背景に、日経連が95年に打ち出した雇用戦略や小泉純一郎政権時の「市場原理主義」に基づく経済成長路線と規制緩和があるのは間違いない。
 中でも、コスト削減を狙う企業を後押ししたのが労働者派遣法の改正だろう。限定されていた派遣の対象が、99年の改正で原則自由化され、日雇い派遣が一気に拡大した。
 企業にとってはメリットだが、低賃金で不安定な非正規雇用の若者への社会的な対応はなかったと、龍谷大の脇田滋教授は指摘する。
 ほかの国でも同様の問題があるが、「パート」から始まったのは日本だけといい、特有の結果を招いたとみる。
 60?70年代、正社員が9割を占める中、家計補助として行われた主婦のパート、学生アルバイトが事の始まりで、それゆえに賃金や社会保障、雇用環境への要求は弱い。
 低劣な労働条件であっても社会問題化せず、労働組合も目をつぶってきたというのだ。

権利脅かすのは誰だ

 組合はここへきて気づいたが、今も憲法25条で保障する若年労働者の生存権を脅かしているのは政府であり、企業ではないかというわけだ
 そうした目で周囲をみると日本社会で「最後のセーフティーネット」とされてきた生活保護制度も心配になる。
 老齢加算の廃止に続き、母子加算の削減も始まった。
 窓口で受給者を減らす「水際作戦」が問題化したこともあった。北九州市で生活保護を打ち切られた男性が餓死した後、残された日記に「おにぎりを食べたい」と記されていたのは記憶に新しい。
 財政健全化も分からないではないがそこには、弱い立場の人たちへの思いが欠けている。
 同じことは、75歳以上のお年寄りを対象とした後期高齢者医療制度にも当てはまるのではないか。
 「生きさせろ」の叫びは、非正規雇用の若者だけに限らない
 若者に希望、お年寄りに安心――が福田首相の国づくり方針のはずだ。
 政府が憲法25条の生存権を脅かしてどうする

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  1. 業務日誌 しいの木法律事務所 八坂玄功 - trackback on 2008/05/28 at 13:20:46

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