ネグリを読む(3)

『マルチチュード』(NHKブックス、2005年)の抜き書きはまだまだ続く。

農民世界の薄明

 「農民という形象はマルチチュードの概念にとって最大の難問となる可能性がある」(195ページ)

 「すべての農業者が農民なのではない」(196ページ)。「農民とは、有る特定の方法によって土を耕し、ある特定の社会的関係の集合のなかで農作物を生産する歴史的形象を指す。」(同前)

だから「農民階級とは歴史のある時点で発生し、いつかは消滅する存在」。(同前)

 「農業生産の条件が変化し、具体的にはこれから論じるように、鉱業や工業、非物質的生産その他の労働形態の条件と共通のものになってゆく」(同前)

 「農民とはさしあたり、土地を耕して労働し、主として自分の家族が消費するための作物を生産する存在で、部分的にはより大きな経済システムに統合されると同時にそれに従属させられ、耕作に必要な土地と農機具を所有するか使用することのできる者たち、と定義できる」(同前)
  ↑こういうことで、ネグリは農民=小農民としているのだ。

 「農民の共同体は……経済的に孤立していない」が、資本主義的農業経営者とは違って、「市場に全面的に統合されているわけでもない」。「市場への部分的統合という中間的な位置を占める」(同前)。

 「中農が農民階級全体を定義する者とみなされ」ている。(198ページ)

 「中農の数が劇的に減少」「この過程で中農はその分裂のいずれかの側に否応なく飲み込まれ、ほとんど姿を消してしまった」(198ページ)

 ヨーロッパでは、「20世紀末には、残存する小規模な農地所有も、国内的またはグローバルな規模の交易関係にあまりにも深く組み込まれ、もはやそれは農民による所有とはみなせなくなった」(200ページ)

 「マルクスの主張によれば、農民が政治的に受動的である原因はコミュニケーションの欠如と、大規模な社会的協働の回路の欠如にある。19世紀半ばにマルクスが研究したフランスの分割地農民の共同体は田園地帯に分散し、互いに切り離されて孤立していた。相互のコミュニケーション不全が、農民たちが自分たち自身を代表することができない(したがって誰かに代表してもらわなければならない)理由だと、マルクスは考えた。」(206ページ)

 「マルクスの見解では、ある階級が政治的主体性をもつためには自らを代表するだけでなく、まずもっとも基本的なこととして、内部でコミュニケーションを交わすことが必要だという。」(同前)

 「一台の共通の機械のまわりでチームを組んで作業をする工業労働者は協働とコミュニケーションなしには働くことはできないが、この協働とコミュニケーションこそが彼らを能動的にし、政治的主体たらしめているのである」(206?207ページ)

 「しかし、農民はあくまで都市の工業プロレタリアートに従うことによってのみ、革命の潜勢力を持ちうるというのが、マルクス主義や社会主義の主流的な考えだった」(207ページ)

貧者の豊かさ(216ページ?)

 「今日、貧者あるいはグローバルな南を産業予備軍として考えるのは間違いである。」(219ページ)
その理由。第1。「もはや産業労働者」は「統一体としては存在せず、非物質的パラダイムによって規定されたネットワーク内の数多くの労働形態のひとつ」でしかないから、「『産業軍』と呼べるものは存在しない」(同前)。「就労者と失業者との社会的区分がかつてないほどに曖昧になりつつある」(220ページ)。「かつて支配諸国の労働者階級の多くの部門が当てにできた安定し保証された雇用は、もはや存在しない」(同前)。「労働市場の柔軟性」は「どんな職も確実ではないということを意味する」。「今や雇用と失業の明確な境界は消滅し、すべての労働者がその間を不安定な形で行ったり来たりするというグレーゾーンが大きく広がっている」(同前)。

 第2。「どんな労働力も社会的生産過程の外部に配置しえないという意味で、『予備』は存在しない」(220ページ)。「貧者や失業者、不完全就労者は、たとえ賃金労働には就いていなくても、社会的生産に活発にかかわっている」(同前)。「貧者は多くの点で、途方もなく豊かで生産的である」(同前)。

 「こうした[貧者の]創造的な社会的活動に含まれた〈共〉的性質」(221ページ)。

 「移民は、貧者のなかでもこの豊かさと生産性をまさに身をもって示す、特別なカテゴリーである。」(222ページ)

 「旧来のマルクス主義における生産労働と非生産労働の区別は、生産労働と再生産労働の区別――これは、これまでもずっと怪しげなものだったが――と同じく、今や完全に捨て去るべきなのだ。」(225ページ)

 労働組合をどう変革すべきか(227ページ)

 「まず第1に、……旧い労働組合は失業者や貧者を代表することはできないし、短期契約で雇われた移動性・柔軟性の高いポストフォーディズムの労働者を代表することすらできない」(227ページ)

 第2。「旧い労働組合は工業生産の全盛期に生産物や職務の種類に応じて定められた区分(鉱山労働者組合、配管工組合、機械工組合などなど)に従って細かく分割されている。労働条件や労働関係がますます〈共〉的なものになりつつある今日、こうした従来の区分(あるいは新しく生まれた区分でさえ)はもはや無意味であり、障害にしかならない。」(228ページ)

 第3。「旧来の労働組合は今や純粋に経済的な組織となり、政治的な組織ではなくなっている。」(同前)

 「伝統的な労働組合はある限定されたカテゴリーの労働者の経済的利益だけを守るものだった。だが今や、協働して社会的富を生み出す特異性の織りなすネットワーク全体を代表しうる労働組織を創出しなければならない。」(228ページ)

 「労働組合を近年出現してきた強力な社会運動と合体させて『社会運動組合主義』ともいえる形態を創り出」すこと。(228ページ)。ex.アルゼンチンの「ピケテロス」。

補説1。方法――非物質的生産をどうとらえるか(234ページ?)

 現代における労働と価値の関係(239ページ)

 ネグリは労働価値説は現代では成り立たないと言っている――
 「マルクスの時代と現代との間に大きな違いがあることに気づく。マルクスは労働と価値の関係を、それに対応する量という見地から提起している。ある一定時間量の抽象的労働はある一定量の価値に等しいというわけだ。つまり資本主義的生産を規定するこの価値法則によれば、価値は測定可能かつ均一な労働時間の単位によって表現されることになる。マルクスは最終的にこの考えを労働日と剰余価値の分析に結びつけるのだが、この法則をスミスやリカード、そしてマルクスが考えたような形で現代にも当てはめることは不可能である。」(240?241ページ)

 「今日、労働の時間的統一性を価値を計る基本的な尺度にすることはまったく意味をなさない」。(241ページ)

 「たしかに資本主義的生産において労働が価値の基本的源泉であることに代わりはないが、今探究すべき問題は、私たちがどんな種類の労働を相手にしているかということであり、またその時間性はどんなものかということなのだ。……非物質的労働が主導権を握ったことによって労働日や生産時間は根底的に変化した。工場生産に見られる規則的なリズムや、労働時間とそうでない時間との明白な区別は、非物質的労働の君臨する領域ではもはや消滅しつつある。」(同前)

 「労働市場の上端と下端の両方で労働時間と生活時間との区別は崩壊しつつある。」(同前)

 「非物質的生産――アイディア、イメージ、知識、コミュニケーション、協働、情動的関係などの生産――は社会的生活手段ではなく、おおむね社会的生そのものを創り出す。非物質的生産は生政治的なものなのだ」(242ページ)。「この視点に立つことで、資本主義的生産の発展全体を新しい目でとらえ直すことが可能になる」(同前)。

 「生きた労働とは……社会的生を想像する人間の根源能力のことだ。生きた労働は資本に囲い込まれて、売買されたり商品や資本を生産したりする労働力に切り縮められもするが、生きた労働は常にそれを突破する。人間の革新的・創造的能力は、常に生産的労働(ここでの生産とは資本を生産することを指す)を凌駕する」(242ページ)

 「非物質的生産のパラダイムのもっとも重要な側面は、非物質的生産と協働・共同作業・コミュニケーションとの密接な関係――端的にいえば、非物質的生産の基盤が〈共〉にあるということだ。マルクスの主張によれば、歴史的に見た資本の最大の進歩的要素のひとつは、大勢の労働者を協働的な生産関係のなかに組織することだという。」(243ページ)

 「資本家は労働者を工場に集め、互いに協働しコミュニケートし合いながら生産に携わるように指示し、そのための手段を与える。これに対して非物質的生産のパラダイムでは、労働そのもののが生産のための相互作用やコミュニケーション、協働を直接に生み出す傾向がある。」(同前)

 現代の搾取とは――
 「非物質的労働は物質的労働と同様、依然として資本の支配の下で搾取されている」(247ページ)。
 「今日も搾取という言葉は、労働者が恒常的に経験している敵対状況を、これまでと変わらず的確に言いあてている。搾取の理論は資本が労働者にたいして日常的にふるう構造的暴力を明らかにしなければならない。この暴力が敵対性を生じさせ、さらには資本家による管理を拒否する労働者の組織づくりの基盤となるのだ。マルクスは、いかなる搾取の概念も価値理論にもとづくものでなければならないと主張した。だとすれば、労働と価値の関係が変化した限りにおいて、搾取にかんする私たちの理解も変わらなければならない。」(247ページ)

 要するに、ネグリは、現代では搾取は「構造的暴力」にもとづく、といっているのだ。

 「非物質的生産のパラダイムに取って代わられた今日、もはや測定された時間量をもとに価値理論を構想することはできない。つまり搾取も時間の観点から理解することはできない。……搾取もまた〈共〉の収奪=収用としてとらえる必要がある。言いかえれば、今や〈共〉が剰余価値の生じる場となったのだ。」(248ページ)

 「搾取とは、〈共〉として生産された価値の一部または全部が指摘に領有されることを指す。」(同前)
 「生産された関係性やコミュニケーションはその本性からして〈共〉であるにもかかわらず、資本はその富の一部を私的に領有しようとする」(同前)。「共同で生産されたものが私有化されるのだ」(同前)。「ある面では、従来の資本主義的生産の特徴が消え去りつつあるにもかかわらず、資本が依然として支配力をふるい富を搾り取っている現状を、曖昧だが集約的に説明する論理として、貨幣と経済の金融化をもちだすことができるかも知れない」(248?249ページ)。

 「金融資本の取得する利潤とは、〈共)の収奪・収用のもっとも純粋な形態にほかなるまい」(249ページ)

 「労働者の主体性は、搾取の経験と結びついた敵対性においても創出されるのである。非物質的生産が主導権を握る今日の時代にあって、生産のパラダイムをかたどる形象は貧者である」(250ページ)

 「富から締め出されているにもかかわらず、『貧者』は社会的生産の回路に組み込まれているのだ。『貧者』は生政治的生産の〈肉〉にほかならない。私たちは貧者なのだ。」(同前)

これで2-1は終了。今日はとりあえずここまで。

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