産経新聞、こんどは『蟹工船』にいちゃもんをつける

『蟹工船』ブームに、お定まりの反響意識を目覚めさせた「産経新聞」が、でかでかと紙面の3分の1ほどの場所をつかって、『蟹工船』へのいちゃもん付けをやっています。

しかし、「資本の論理によって嗅覚(きゅうかく)鋭く動く出版社と、かつてのスター作家の復権によって共産主義をPRしたいとする勢力との間で、密(ひそ)やかな結託が図られたのではないか」などと、恐ろしげに書いていますが、そもそも「産経新聞」自身がその『蟹工船』ブームを記事にしているのだから、自分で自分のケツを蹴飛ばしただけのことです。

しかも、その内容が実にお粗末…。

【土・日曜日に書く】編集委員・福島敏雄 いま、なぜ「蟹工船」なのか(産経新聞)

まず第1に、鎌田慧氏の『自動車絶望工場』はともかく、横山源之助の『日本の下層社会』や細井和喜蔵の『女工哀史』は当時の貧困や劣悪・過酷な労働状況を描いた非常に優れたルポルタージュですが、それらと『蟹工船』が決定的に違うのは、『蟹工船』では労働者が団結して立ち上がる姿が描かれていることです。それが派遣など低賃金・劣悪な労働条件で働かされる若者にとっての魅力となっていることは、この間、いろんなメディアでとりあげられている若者の「励まされた」「勇気をもらった」などのコメントが証明しています。そこを、まったく理解していません。

また、細井和喜蔵は、1925年に急逝してしまうので、本格的なプロレタリア文学に参加したとは言えないでしょうが、彼も参加した『種蒔く人』やその後継誌である『文芸戦線』はプロレタリア文学の中心となりました。多喜二はダメだが和喜蔵はいい、というのは、文学史にたいする無理解をさらけ出しただけではないでしょうか。

第2に、『蟹工船』はフィクションだと言っていますが、蟹工船の雑夫が虐待され殺されるという事件は、実際に当時起こったものです(それは、イースト・プレス『まんがで読破 蟹工船』の冒頭に使われている当時の新聞記事を見れば一目瞭然です)。多喜二は、この事件や、実際に蟹工船で働く人たちの綿密な取材にもとづいて、『蟹工船』を執筆しました。それを「フィクションにすぎない」と言い切る図々しさには、呆れるだけです。

第3に、「プロレタリア文学は共産主義宣伝のアジテーションだ」という、産経ならではの反共主義丸出しの決めつけです。それなら、なぜ多喜二の小説が、『改造』や『文藝春秋』など一流の文芸誌のトップに掲載されるほどの人気を博したのか、まったく理解不能でしょう。そもそも、多喜二の『蟹工船』がいまなお読みつがれているという事実そのものが、『蟹工船』は共産主義のアジテーションだという産経編集委の決めつけの無力さを証明しています。

まあ、あといろいろ言いたいこともありますが、産経・編集委のレベルの低さにつきあっても仕方ありませんので、コメントはここらへんでやめておきます。鎌田慧氏も、産経編集委員に誉められて、さぞかし居心地悪く感じているに違いありません。

【土・日曜日に書く】編集委員・福島敏雄 いま、なぜ「蟹工船」なのか
[MSN産経ニュース 2008.6.28 03:13]

◆ほかにも名著はある

 小説は作家の意図や目的、さらには書かれた時代状況を抜きにしては「読解」することはできない。夏目漱石の小説でも、漱石の意図や明治から大正にかけての時代状況を抜きにして、「おもしろかった」で済ませてしまったら、本当に読んだことにはならない。
 小林多喜二の『蟹(かに)工船』の文庫本が突然、爆発的に売れ出した。ワーキングプアと呼ばれる若者たちが、「置かれている状況がそっくりだ」という理由で読んでいるのだという。小林の意図や目的、昭和初期の時代状況を抜きにして「そっくりだ」と単純に比較するのは、ちょっと乱暴である。
 明治期には横山源之助の『日本の下層社会』、大正期には細井和喜蔵の『女工哀史』、近年では鎌田慧の『自動車絶望工場』など、貧困にあえぐ人々や、絶望的な状況で働かされている労働者の姿を描いたノンフィクションは多くある。いずれも事実の記録だからリアリティーもあり、名著だから文庫本化もされている。
 それなのになぜ、フィクションにすぎない『蟹工船』だけが取りあげられるのだろうか。書店に大量に平積みされているのを眺めていると、資本の論理によって嗅覚(きゅうかく)鋭く動く出版社と、かつてのスター作家の復権によって共産主義をPRしたいとする勢力との間で、密(ひそ)やかな結託が図られたのではないか、と勘ぐりたくもなる。

◆蔵原理論に基づく作品

 『蟹工船』はプロレタリア文学の作品である。つまりプロレタリア文学運動のイデオロギーに沿ったかたちで書かれている。ではプロレタリア文学運動とは何か。
 『蟹工船』は新潮文庫版と岩波文庫版があるが、どちらも解説は蔵原惟人である。蔵原は小林の才能を最初に見抜いた文芸評論家である。と同時に、昭和3年に結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)の理論的指導者でもある。
 同年に書かれた代表的論文「プロレタリア・レアリズムへの道」によると、レアリズムにはブルジョワ・レアリズムと小ブルジョワ・レアリズムとプロレタリア・レアリズムの3種類があるとされる。そのうえで、「プロレタリア作家は何よりもまず明確なる階級的観点を獲得しなければならない。明確なる階級的観点を獲得することは畢竟(ひっきょう)戦闘的プロレタリアートの立場に立つことである」と説いている。
 芸術的価値より政治的価値を先行させる蔵原理論は、一般的にはすでに破産を宣告されている。文学には政治的な価値などというものはなく、芸術として自立している。その証拠に、蔵原が指摘するモーパッサンなどのブルジョア作家、あるいはドストエフスキーなどの小ブルジョア作家は今も読み継がれているが、プロレタリア作家などは文学史の一コマに追いやられている。
 『蟹工船』は蔵原論文に触発されるかたちで、執筆された。当然、「明確なる階級的観点」に立ち、プロレタリアートの姿を「戦闘的」に描いた。後に書かれる『党生活者』など共産党賛歌だけの読むに堪えない作品群に比べれば、確かに読み応えもある。だが行間から流れてくるのは、すでに破産してしまった理論によるアジテーションである。
 たとえば「カムサツカの岸」に漂着した漁夫が、中国人(原文は「支那人」と表記)の通訳を通して、ロシア人と会話するシーンなどは、ほとんど笑止である。
 「働かないで、お金儲(もう)ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好、)――これ、駄目! プロレタリア、貴方々、一人、二人、三人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる。)」
 この場合のロシアは、すでにボリシェビキによる暴力革命を成功させたソ連のことである。そのロシアを美化することで、日本の置かれた状況を徹底して批判、あるいはちゃかしてみせる。

◆非正規雇用をアピール

 まさか非正規雇用の若者たちは『蟹工船』を読んで、共産主義に目覚め、革命を目ざそうとしているわけではないだろう。そういう意味では、小林が書いたイデオロギー的な意図はまったく「読解」されていない。
 派遣会社からはピンハネに近い搾取を受け、派遣先でも差別的な待遇を受けるなど、かれらが深刻な状況に置かれているのは事実である。大規模労組もようやく待遇改善に向けた運動に取り組みはじめ、政府も日雇い派遣を原則禁止にする方針を示すなど、法律改正に向けて動き出した。『蟹工船』ブームは、非正規の若者たちの存在をアピールしたという意味での功績だけは残した。(ふくしま としお)

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