だが、しかし、それゆえ、つまり… 『文章は接続詞で決まる』

石黒圭『文章は接続詞で決まる』(光文社新書)

文章術については、これまでいろいろな本が出されていますが、ありそうでなかったのが接続詞について書かれた本。そんなポイントを突いた石黒圭『文章は接続詞で決まる』(光文社新書)を読んでいます。

そもそも接続詞とは何か?

著者は、それをこんなふうに定義しています。

接続詞とは、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現である。(本書、27ページ)

接続詞は、順接、逆接など、論理を示すものですが、その論理は「論理学のような客観的な論理ではなく、二者関係の背後にある論理をどう読み解くかを示唆する解釈の論理」(32ページ)、「論理のための論理ではなく、人のための論理」(33ページ)というのは、なかなか面白い着目です。

著者は、接続詞を、4種10類に分類します。

  • 論理の接続詞
    • 順接の接続詞――「だから」系/「それなら」系
    • 逆接の接続詞――「しかし」系/「ところが」系
  • 整理の接続詞
    • 並列の接続詞――「そして」系/「それに」系/「かつ」系
    • 対比の接続詞――「一方」系/「または」系
    • 列挙の接続詞――「第一に」系/「最初に」系/「まず」系
  • 理解の接続詞
    • 換言の接続詞――「つまり」系/「むしろ」系
    • 例示の接続詞――「たとえば」系/「とくに」系
    • 補足の接続詞――「なぜなら」系/「ただし」系
  • 展開の接続詞
    • 転換の接続詞――「さて」系/「では」系
    • 結論の接続詞――「このように」系/「とにかく」系

このほかに、著者は、「文末の接続詞」というカテゴリーを設けて、「?のではない」系、「だけではない」系、「のだ」系、「からだ」系などについても論じています。

それぞれについて、「しかし」と「ところが」はどう違うか、「さて」と「では」はどんなふうに使い分けられているかが、こと細かく論じられています。接続詞の意義を論じているだけあって、文章の論理はきわめて明快。もう少し用例のニュアンスの違いについて論じてほしかったような気もしますが、「しかし」と「だが」のニュアンスの違いなど、初めて納得のいった説明があちこちに出てきます。

もう少し文章を論理的に書いてみたいと思っている人には、お薦めの一冊です。

ところで、なぜこんな本に興味を持ったかというと、実は、『資本論』の翻訳をドイツ語と引き比べながら読んでいると、daher という接続詞がたくさん出てくることに気がつきました。語源的には、「da=そこ、her=?から」で、辞書を引くと、「<1>(場所)そこから、<2>(理由)それで(それが原因で)、その理由で」などと書かれています(三修社『新現代独和辞典』)。新日本訳では、実は「それゆえ」という訳語が恐らく統一的にあてられているのですが、しかし、daher はそれほど単純ではありません。「そのために」「それで、それによって」「つまり」「だから」「したがって」「それゆえ」など、いろいろなニュアンスがあって、けっこう悩ましいのです。

で、実際に『資本論』に即して読んでみると、客観的な因果関係を示している場合もあれば、書き手(マルクス)が論理的な展開をしている場合もあり、それに、どの訳語をあてはめたらよいのか悩みます。

例えば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の次の部分。新日本新書版<1>304ページのところ。

Die Produktion von Gebrauchswerten oder Gütern ändert ihre allgemeine Natur nicht dadurch, daß sie für den Kapitalisten und unter seiner Kontrolle vorgeht. Der Arbeitsprozeß ist daher zunächst unabhängig von jeder bestimmten gesellschaftlichen Form zu betrachten.(Werke版192ページ)

使用価値または財貨の生産は、資本家のために、資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な本性を変えはしない。それゆえ、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない。(新日本新書版<1>304ページ)

この場合は、「使用価値または財貨の生産は、資本家のために、資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な本性を変えはしない」という文と、「労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない」という後ろの文とは、前者から後者が導き出される、という関係になっています。マルクスによって、前の文から、新しい結論が展開されている訳です。

それにたいして、次の場合は、同じことを別の角度から言い直しているのであって、論理が展開されているわけではありません。

Außer der Anstrengung der Organe, die arbeiten, ist der zweckmäßige Wille, der sich als Aufmerksamkeit äußert, für die ganze Dauer der Arbeit erheischt, und um so mehr, je weniger sie durch den eignen Inhalt und die Axt und Weise ihrer Ausführung den Arbeiter mit sich fortreißt, je weniger er sie daher als Spiel seiner eignen körperlichen und geistigen Kräfte genießt.(Werke版193ページ)

労働の全期間にわたって、労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が必要とされる。しかも、この意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、それゆえ労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる。(新日本新書<1>305ページ)

この場合は、前の「労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど」と、後ろの「労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど」とは、同じことを別の面からみて言い換えただけ。別に因果関係にある訳でもないし、新しい内容を展開している訳ではありません。だから、この場合は、「だから」「したがって」「それで」というよりも、「つまり」とか「ということは」とかいう意味になると思うのですが、どうでしょうか?

こんなことを考えながら『資本論』を読んでいたところなので、たまたま書店で見かけた「接続詞」という単語に惹かれて、この本を買ってしまったという訳です。(^_^;)

しかし、これを読んで分かったことは、やっぱり、マルクスの「論理」がどうなっているか自分で考えて、それに応じた訳をあてるしかない、ということ。あらためて、接続詞恐るべし! と痛感しました。

【書誌情報】
著者:石黒 圭(いしぐろ・けい)/書名:文章は接続詞で決まる/出版社:光文社(光文社新書370)/出版:2008年9月/定価:本体760円+税/ISBN978-4-334-03473-3

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