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金融と投機はどこで区別するか? (2)

2009年3月20日 at 15:30:15

こんどは利子生み資本。(第3部 第5篇)

貨幣を利子生み資本にするのは、「貸し付け」という行為。(第21章)

利子率の「自然」率というものは存在しない。利子と本来の利潤への分割を決めるものは「競争」である。(同前、新日本新書、第10分冊、602-603ページ。MEW, S.368,369)

第25章「信用と架空資本」。この章の読み方については、不破さんが『「資本論」全三部を読む』(新日本出版社)で、マルクスの草稿と、それをエンゲルスがどう編集したかという問題に遡って明らかにしている[1]

まず、問題の限定。マルクスは、信用制度の「分析」は「われわれの計画の範囲外にある」と指摘。ここでとりあげるのは、あくまで「資本主義的生産様式一般の特徴づけに必要な2、3のわずかな点だけ」。そのとき、とりあげるのは「商業信用」だけに限られ、「公信用の発展」はとりあげない。

 信用制度とそれがつくりだす諸用具(信用貨幣など)との立ち入った分析は、われわれの計画の範囲外にある。ここではただ、資本主義的生産様式一般の特徴づけに必要な2、3のわずかな点だけをはっきりさせておくべきであろう。そのさい、われわれは商業および銀行業者信用だけを取り扱う。右の信用の発展と公信用の発展との連関は考察しないでおく。(同前、680ページ、MEW, S.413)

続いて本文。(1)?(4)はオイラの区切り。

(1) 支払い手段としての貨幣の機能、それとともに、商品生産者たちと商品取引業者たちとのあいだでの債権者・債務者の関係が、どのようにして単純な商品流通から形成されるかは、私が前に(第1部、第3章、第3節b)明らかにしたところである。商業が発展し、もっぱら流通を顧慮して生産する資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的基礎は拡大され、一般化され、仕上げられる。

(2) 一般に、貨幣はここでは支払手段としてのみ機能する。すなわち商品は、貨幣と引き換えにではなく、一定の期限に支払うという書面による約束と引き替えに販売される。この支払約束をわれわれは、簡単化のために、すべてをまとめて、手形という一般的カテゴリーのもとに総括することができる。これらの手形は、それ自体また、その満期=支払日にいたるまで支払手段として流通する。そして、これらは本来の商業貨幣を形成する。

(3)これらの手形は、債権債務の総裁によって最終的に決済される限りでは、絶対的に貨幣として機能する。というのは、その場合には、貨幣への最終的な転化は生じないからである。

(4)生産者たちと商人たちどうしのこの相互的前貸が信用の本来の基礎をなすのと同じように、彼らの流通用具である手形は、本来の信用貨幣である銀行券等々の基礎をなす。この銀行券等々は、貨幣流通――金属貨幣の流通であるか国家紙幣の流通であるかを問わず――に基礎をもつものではなく、手形流通に基礎をもっている。(同前、680-681ページ、MEW, S.413)

まず(1)で、マルクスは、信用制度の自然発生的基礎が商品生産者と商品取引業者とのあいだの債権・債務関係の発展にあるということを指摘する。

(2) 商品生産者と商品取引業者とのあいだの取引は、通常は、その場で現金で支払うのではなく、しかるべき満期日に支払うという約束手形で行なわれる。この手形は、満期日が来るまでのあいだ、それ自体が支払手段として流通する(商品生産者Aの振り出した約束手形を受けとった業者Bが、手形に「裏書き」をすることによって、こんどは別の業者Cにたいする自分自身の債務の支払いに使用することができる)。

(3) このような手形は、最終的に決済される限り、現金(マルクスが「貨幣」と言っているのは、現物の金貨幣・銀貨幣のこと)を一切必要としない。だから、手形そのものが貨幣として流通していることになる。

(4) こうした約束手形が銀行券の基礎となる。銀行券とは、それを持参した人間に交換で現金(金貨幣・銀貨幣)を引き渡すことを約束した銀行の約束手形の一種。銀行券はそれ自体としては価値をもたないが、銀行へもっていけば貨幣と交換してもらえるという信任がある限り、貨幣として通用する。このような銀行券を発行できる銀行のことを発券銀行という。現在は、日本では日本銀行以外には銀行券を発行できない。しかし、たとえばイギリスでは、かつていろいろな銀行が独自の銀行券を発行していた。

このあとは、草稿ではマルクスが脚注として書いたもの。それをエンゲルスが本文に繰り込んでしまった部分。

本文の続きは、新日本新書第10分冊、685ページの終わりから2行目から始まる。貨幣取引業者の銀行業者への転化。

(1)信用制度のもう1つの側面は、貨幣取引の発展に結びついており、資本主義的生産においては、この貨幣取引の発展は、もちろん、商品取引の発展と歩調をそろえて進められる。前篇(第19章)で見たように、事業家たちの準備金の保管、貨幣の受け払いや国際的支払いの技術的な諸操作、それゆえまた地金取引は、貨幣取引業者の手に集中される。

(2)この貨幣取引と結びついて、信用制度のもう1つの側面、利子生み資本あるいは貨幣資本〔草稿ではマニード・キャピタル〕の管理が、貨幣取引業者たちの特殊的機能として発展する。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務となる。彼らは、貨幣資本の現実の貸し手と借り手との仲介者として現われる。

(3)一般的に言えば、銀行業者の業務は、この面から見れば、貸し付け可能な貨幣資本を自分の手に大量に集中し、その結果、個々の貨幣の貸し手に代わって銀行業者たちが、すべての貨幣の貸し手の代表者として、産業資本家たちおよび商業資本家たちに向き合うことにある。彼らは貨幣資本の一般的な管理者になる。他方で、彼らは、商業世界全体のために借りるのであるから、すべての貸し手に対して借り手を集中する。

(4)銀行は、一方では、貨幣資本の集中、貸し手たちの集中を表わし、他方では、借り手たちの集中を表わす。銀行の利潤は、一般的に言えば、自分が貸す場合よりも安い利子で借りることである。(同前、685-686ページ、MEW, S.415-416)

「銀行が自由に処分できる貸し付け可能な資本」は、どんなかたちで銀行に集まるか?

  1. 産業資本家たちの現金出納業者として、生産者や商人が準備金として保有する貨幣や、支払金として流れ込む貨幣が、銀行の手に集中する。そうすることによって、準備金は最小限に制限される。それによってあまった貨幣資本の一部が利子生み資本として貸し出される。
  2. 貨幣資本家たちの預金。すべての階級の貨幣貯蓄および一時的に遊休している貨幣が銀行に預けられるようになる。このよう遊休貨幣は、それだけでは少額すぎて貨幣資本として作用しえないが、銀行業者の手によって大きな金額にまとめられ、貨幣資本として作用するようになる。この少額の集積は、「銀行制度の特殊的作用として、本来の貨幣資本家たちと借り手たちとのあいだの銀行制度の仲介的役割とは区別する必要がある。」
  3. 最後に、「徐々にしか消費されないはずの収入」。

(1)は、業者と業者、業者と商人、商人と商人の取引のための準備金を、銀行が一括管理することによって、節約され、その結果として、あまった準備金が貸し付けに回されるようになる、という話。
(2)は、たとえば資本家の利潤のなかで、とりあえず使い道がなく、そのまま手元に残されているような「遊休貨幣」の話。例えば、1億円の生産手段を10年で減価償却するとすれば、1年に1000万円ずつ積み立てられることになるが、この1000万円は、そのままでは「少額」で、生産手段の更新のために投下することはできないので、そのまま「遊休」する。しかし、このような「遊休資本」が10人の資本家から銀行に集められたとすれば、1億円の資本として新しく投下することが可能になる。
(3)は、もっと小口の場合。たとえば月給制の場合、給料日に1カ月分の生活費を労働者は受けとるが、それをいちどに全部使ってしまう訳ではない。その一部は、貯めておかれる。これが「徐々に市価消費されないはずの収入」。資本家が手にする高額の収入も、すべて一気に使い切ってしまえる訳ではないから、その間は「徐々にしか消費されない」収入になる。

そこで、銀行は、こうした貨幣資本を「貸し付ける」ことによって、利子生み資本に転化する。

この場合の「貸し付け」は、しばしば誤解されるように、銀行が預金として集めたお金を貸し付ける訳ではない。

 貸し付け(個々では本来の商業信用だけを問題にする)は、手形の割引――手形を満期前に貨幣に換えること――によって、また、さまざまな形態での前貸し、すなわち、対人信用による直接前貸し、国庫債券やあらゆる種類の株式など利子生み証券を担保とする前貸し、とくにまた船荷証券・倉庫証券・その他の証明済みの商品所有権利証書にたいして行なわれる前貸し、預金を超える当座貸し越しなどによって、行なわれる。(同前、687ページ)

ここでマルクスが上げているのは、こんなもの。

  1. 手形の割引
  2. 個人的な信用にもとづく前貸し
  3. 利子生み債券を担保にした前貸し
  4. 商品所有権利証書を担保にした前貸し(いわゆる抵当証券などか?)
  5. 預金を超える当座貸し越し

そして、実際にどんなかたちで信用が与えられるか。

 銀行業者の与える信用はさまざまな形態で与えられうるのであり、たとえば、他の銀行宛の手形、他の銀行宛の小切手、同種の信用開設、最後に、発券銀行のばあいにはその銀行の自己銀行券で与えられる。銀行券とは、いつでも持参人に支払われうる、銀行業者によって個人手形に置き換えられる、銀行業者宛の手形にほかならない。(同前、687ページ)

さらに、最後の「銀行券」による信用供与について、マルクスは、次のように書いている。

この最後の信用形態は、素人にはとくに目につく重要なものに見える。なぜなら、第1に、この種の信用貨幣は、単なる商業流通から出て一般的流通にはいり、そこで貨幣として機能するからである。また第2に、たいていの国では、銀行券を発行する主要銀行は、国家的銀行と私営銀行との奇妙な混合物として、実際にはその背後に国家信用をもち、その銀行券は多かれ少なかれ法定の支払手段であるからである。また第3に、銀行券はただ流通する信用章標を表わすにすぎないので、銀行業者が商売の対象とするのは信用そのものである、ということが、ここで明瞭になるからである。しかし、銀行業者は、他のあらゆる形態での信用をも取引の対象にするのであり、自分のもとに預けられた貨幣を現金で前貸しするような場合でもそうである。実際には、銀行券はただ卸売業の鋳貨をなすにすぎず、銀行で主要事として重要性をもつのはつねに預金である。(同前、687-688ページ)

第2で指摘されている「国家的銀行と私営銀行との奇妙な混合物」というのは、現在の日本銀行でもそう。日本銀行は、あくまで株式会社であり、「私営銀行」であるが、しかし、日本銀行券は「法定通貨」として強制力を持っている(日本銀行券での支払いの受け取りを拒否することはできない)。

銀行券がたんなる信用章標にすぎないことは、何らかの理由で、国家信用が揺らぐと、誰も銀行券を受けとろうとしないことによって明らかになる。日本など先進諸国では、そういうことは絶えて久しくないけれども、途上国などでは、しばしばそうした事態が生じる。現金、あるいは現物の金ではなくても、たとえば闇でドルが流通しているような状況では、場合によっては、その国の通貨ではなくドルでなければ買い物ができないという事態になったりする。

第1の、銀行券が「単なる商業流通から出て一般的流通にはいり込む」という指摘も、すぐに納得できること。商業手形は、商売をやっている人にとっては非常になじみ深いもので、身近で、よく使われるもの。しかし、普通に生産者と消費者が商品を売り買いする「一般的流通」の中では、手形は使われない。あくまで生産者と生産者、生産者と商人、商人と商人のあいだという「商業流通」の中でしか使用されない。しかし、銀行券の場合はそうではなく、「一般的流通」でも広く用いられる。ここに、銀行券の独自性がある、という訳だ。

マルクスが第25章の内容として書いた本文は、以上まで。これからあとの部分は、マルクスが脚注として書いていたものをエンゲルスが本文に組み込んでしまったものや、エンゲルスが誤解にもとづいて「補筆」した部分、同様に、「誤解」からマルクスの草稿の別の部分からここに組み込んでしまった部分。

以上が、「利子生み資本」、いわゆる銀行信用の問題。

「金融」といった場合には、以上のような貨幣取扱資本、あるいは銀行信用の働きを指していると考えるべきだろう。

つまり、貨幣取扱業務をその手に収入することによって、流通経費を節約し、さまざまな準備金や積立金、「徐々にしかし要されない収入」をとりまとめて、より大きな貨幣資本(マニード・キャピタル)として貸し付ける、そのための信用供与をおこなう、というのが「金融」の本来の働きだ、ということだろう。

この項、まだまだ続く…。

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  1. 不破哲三『「資本論」全三部を読む』第6冊、198?205ページ、新日本出版社、2004年 []

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