マルクス『1857-58年草稿』を読む(9)

大月書店『資本論草稿集』第1分冊の続き。425ページ「絶対的剰余価値と相対的剰余価値」から。この見出しは新MEGA編集部によるもの。マルクス自身の論の流れとは合っていない。

マルクスは、「私自身のノートにかんする摘録」(『草稿集』第3分冊)で、「57-58年草稿」のノート第3冊の26ページ(『草稿集』第1分冊、408ページ)からを「剰余価値と生産力」とくくり、ノート32?38ページ(『草稿集』第1分冊、425?446ページ)を、そのなかの「資本の価値の増大について」としている。[1]

だから、425?446ページの部分は、前の部分からのつながりで読んでゆく必要がある。

その上で、この部分は何を論じているのだろうか?

【第1段落(425ページ下段?426ページ上段)】

マルクスはまず「生産力の増大は、諸価格を増大させることは絶対にない」(425ページ下段)と指摘している。これは、まさにこの部分が「剰余価値と生産力」の関係、とくに剰余価値が増大したときに「資本の価値」がどうなるか? というテーマを扱っていることを示している。

これは、おそらくリカードウの議論とも関係しているのだろう。リカードウにとっては、生産力が増大したとき剰余価値あるいは「資本の価値」はどうなるか? 収穫逓減法則によって、やがて停滞に至るというのがリカードウの図式。だとすると、ここでマルクスは、資本主義というのは、けっしてそうではなくて、発展する可能性があることを明らかにしようとしたのではないか? 〔もう少しきちんと考えること〕

マルクスは、ここで次のような図式を示している。

小麦1ブッシェル=半労働日=13シリング=労働者の価格。1労働日の価値=小麦2ブッシェル=26シリング。このとき、剰余価値(これをマルクスは「資本の価値」と書いている。426ページ上段5行)は13シリング。

いま生産力が2倍になると、労働者の価格=小麦1ブッシェルは変わらないが、その価格は6 1/2シリングになる。したがって、剰余価値(「資本の価値」)は13シリングから19 1/2シリング[2]に増える。

上の場合は、労働者の生活手段を生産する部門だけが生産力が2倍になったと仮定されていた。それが、もしすべての生産部門で生産力が2倍になったらどうなるか。それが426ページ上段8行目から。

その場合、金生産においても生産力が2倍になるから、同一分量の金の価値は1/2になる。つまり、価値の大きさが変わらない商品の価格は2倍になる。

したがって、「労働者の価格」は、一方では小麦の生産力が2倍になったことによって半分になるが、他方で、貨幣価値が半分になることによって価格としては2倍になる。その結果、小麦1ブッシェルの価格は、前と同じ13シリングで変わらないが、生産される商品全体は小麦2ブッシェル、価格で26シリングではなく、小麦4ブッシェル、価格で52シリングに増えている。

【第2段落(427ページ上段?429ページ上段)】

まずマルクスは、剰余労働が延長されて、労働日全体が生産過程で消費されるようになっても、1労働日の生産物の価値は変わらない、ということを指摘する。必要労働時間が6時間であろうと3時間であろうと、1労働日の労働が生み出す価値は変わらない。

しかし、そのとき、「資本の剰余価値は増大している」(427ページ下段6行目)。すなわち、「労働者」と比べて、「資本の価値」は2/4から3/4に増大している。「しかし資本の価値が増大したのは、絶対的労働量が増大したからではなく、相対的労働量が増大したからである」(同前、10?12行目)。

ここで、マルクスが「資本の価値」と言っているのが、のちの言葉で言えば剰余価値に相当する。

そこでマルクスは、次のように書く。「つまり生産力の2倍化は利潤の率に関係することであって、生産物の価格や、生産物のかたちでふたたび商品となった資本の価値には関係しない」(428ページ上段)。

このあと、マルクスの考察は次の問題にすすむ。

このように生産力の上昇は、相対的な「資本の価値」の増大ではあっても、絶対的な量は変わらない、と言いながら、マルクスは「しかし実際には、絶対的諸価値もこうした仕方で増加する」、なぜならば「資本として……措定されている富の部分が増大するからである」と言う。

そこで、次のような数式を示す。

資本100=木綿50+労賃40+用具10

ここで労働者が4時間労働するとすると、総生産物は100ターレル=原材料と用具60ターレル+対象化された4時間の労働40ターレル。労働者が8時間労働するとどうなるか。

ところがいまや彼〔労働者〕は、彼が8時間労働することにより、つまりいまや資本として彼に対立している労働材料や用具に80ターレルの剰余価値をあたえることにより、40ターレルの労賃しか受けとらないことになる。他方、彼が原材料と用具にあたえたはじめの40ターレルの剰余価値は、正確に彼の労働の価値にすぎなかった。こうして彼は、剰余労働または剰余時間にきっかりと等しい剰余価値をつけ加えることになろう。(『資本論草稿集』第1分冊、428ページ下段?429ページ上段)

この訳は悪い。高木幸二郎監訳『経済学批判要綱』では、次のようになっている。

ところがいまや彼は、一方で8時間労働をしながら、つまりいまや資本として彼に対立する労働材料と用具に80ターレルの余分の価値をつけくわえながら、もはや40ターレルの労賃しか受けとらないことになる。それにたいし、彼がそれらのものにあたえたはじめの40ターレルの余分の価値は、正確には彼の労働の価値にすぎないであろう。こうして彼は、剰余労働または剰余時間に正確にイコールの余分の価値をつけくわえることになるであろう。(第2分冊、265ページ)

新MEGAがMehrwerth「剰余価値」と判読した箇所を、旧版ではmehr Werth「余分の価値」と読んでいる。はたしてどちらが正しいか? かりにこれをMehrwerthと読むとしても、ここで「剰余価値」と言われているものは、生産過程で新しく生み出され、つけくわえられた価値のことであって、『資本論』段階での「剰余価値」ではないことに注意せよ。

また翻訳では、「剰余価値」「剰余労働」「剰余時間」など同じ訳になっているが、「剰余労働」「剰余時間」などの場合はすべて「剰余」はsurplus(英語ではサープラス、ドイツ語ではズアプルス)だが、「剰余価値」についてはMehrwerthとSurplus Werth(あるいはSurpluswerth)の2種類の表現が使われている。これが『資本論』に向かって、どうなっていくのだろうか?

【第3段落(429ページ下段)】

この{}でくくられた段落は、旧版では、先ほどの引用部分にたいする「手稿原注」という扱いになっている。

第5段落も同じ。第4段落にたいする「手稿原注」扱い。

【第7段落(430ページ下段)】

もう一度、先ほどの定式へ。

100ターレルの資本=50ターレルの木綿分+40ターレルの労働分+10ターレルの生産用具分

これが8時間労働の結果、140ターレルになる。

いまここで労働の生産力が2倍になると、どうなるか?

最初に投下する資本は、木綿分50ターレル+労働分20ターレル+生産用具分10ターレル=80ターレル。

生産された商品の総価値は、原料と用具60ターレル+8時間の労働80ターレル=140ターレル。

ここからマルクスは、次のように指摘する。

彼の生産物の総価値は、生産が2倍化することによって、100ターレルから80ターレルに、つまり20ターレルだけ、すなわち100の1/5=20%だけ減少したであろう。

あるいは、マルクスは、次のようにも計算する。

彼〔資本家〕は生産物を従来通り140ターレルで売るだろうが、以前の40ターレルではなく、60ターレルの利益を上げることになろう。(431ページ下段)。

いずれにしても、「自立的価値として措定されている分が、つまり、もとからの労働力との交換にのみ用いられることをまぬかれ、そうしなくてもすむように自由になった…分が、20ターレルだけ増える」(431ページ下段?432ページ上段)のである。この20ターレルは、あらためて生産に投下されるか、それ以外の方法で資本家が消費してしまうかである。

100ターレルが140ターレルになる。その場合、「新たな資本」となりうるのは40ターレルだけであって、残り100ターレルは元々資本だった。それが、こんどは、「新たな資本」となれるのは60ターレルになり、「20ターレルの交換価値だけより大きな資本が存在している」(432ページ下段)。したがって、全体として140ターレルというのは変わらなくても、「富そのものは…増加したのである」(433ページ上段)。

「自由になった20ターレルは、貨幣として蓄積されるか……、そうでなければ、それらがすべて流通に」入るか。このとき、マルクスは、消費財の生産は不変であると見なしているから、消費財の価格は、20ターレルが投げ入れられた分だけ高騰することになる。

433ページ下段。()のなか。これも「草稿原注」だろう。そこでマルクスは、「流通はここではまだ本来的には関係がない」、というのはいま問題にしているのは「資本一般」だからだ、と断っている。そして「資本一般」というのは、「資本そのもの、すなわち社会全体の資本」のことだと説明している。

ここでマルクスが、この遊離した20ターレルが新たな資本として再投下されたらどうなるか、ということの考察に話をすすめているのは、最初に言ったように、リカードウとの関係ではないか。マルクスは、次のようなリカードウ批判を書いている。

その前に。434ページ上段の{}の中。ここでも「資本の価値」という表現が出てくる。これも、のちの表現でいえば「剰余価値」のことだ。「57-58年草稿」の段階では、それを「資本の価値」と呼んでいるのだろうか? 調べてみる必要がありそうだ。

さて、リカードウ批判。

リカードウのように、増加するのは、交換価値、すなわち富の抽象的形態ではなく、ただ資本としての交換価値だけなのだ、と言うだけでは十分ではない。(435ページ上段)

同時に、この部分が、マルクスが「資本と生産力」「資本の価値の増大について」分析している、ということが分かる。

リカードウの批判は、438ページの第8段落に続く。

この項、まだまだ続く…はず。(^_^;)

  1. 『資本論草稿集』第3分冊、509ページ上段。ちなみに高木幸二郎監訳『経済学批判要綱』では、「摘録」に従って見出しが立てられていた。 []
  2. マルクスはこれを「18 3/2シリング」と書いている。 []

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