井村喜代子氏の恐慌論について

井村喜代子さんの『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)を読んでいますが、序説「分析の基本視角と本書の構成」で、井村さんは、恐慌論の「基軸」について、次のように書かれています。

 資本制生産が、生産諸力を「無制限的」に発展させる傾向をもつと同時に、労働者の消費を狭隘な枠内に制限する傾向をもつこと、――この<生産諸力の無制限的発展傾向と労働者の制限された消費とのあいだの矛盾>(本書では<生産と消費との矛盾>と略す)こそは周期的過剰生産恐慌の生じる基礎・「窮極の原因 der letzte Grund 」をなすものである。(同書、4ページ)

 それゆえ、恐慌の考察においては、資本制生産固有の<生産と消費の矛盾>を分析の基軸にすえなければならない。本書は、恐慌の「窮極の原因」を<生産と消費の矛盾>にもとめ、この<矛盾>を分析の基軸にすえ、恐慌を理論的に考察しようとするものである。
 一般には、恐慌の問題は、資本制生産の「基本的矛盾」――生産の社会的性格と領有の私的性格とのあいだの矛盾――を基軸として解明すべきであるという見解が少なくないが、本書で上のようにしたのは、そのほうが、恐慌が「流通過程においてはじめて現われうる」ところの商品価値の「実現」にかんする問題――生産と「実現」とのあいだの矛盾にかんする問題――であることを明確にし、資本制生産固有の矛盾と恐慌との関連を明示するうえに有効であると考えたからである。(同書、5ページ)

井村さんがこれを書いたのは1973年、いまから30年以上前のことです。当時は、井村さんがここに書かれているように、いわゆる資本主義の基本矛盾――エンゲルスが『反デューリング論』や『空想から科学へ』で定式化したもの――で恐慌論を考えるというのが支配的でした。

最近、マルクスの資本主義の体制的矛盾のとらえ方にたいして、このエンゲルスの定式の「弱点」が指摘されています。また恐慌論研究でも、生産と消費の矛盾が市場経済のもとで恐慌という形で爆発するところまで大きくなるのはなぜかという、恐慌の「運動論」的な解明が提起されていますが、井村さんは、それと共通する問題も本書で指摘されています。

 それゆえ、明らかにすべきことは、労働者の「消費制限」のもとにもかかわらず、生産がある期間にわたりなぜ・いかにして、市場の諸条件をこえて「無制限的」に発展していくのか、このように「無制限的」に拡大した生産がなぜ・いかにして「制限された消費」によって「限界」づけられることになるのか、ということである。いいかえれば、<生産諸力の無制限的発展傾向と制限された消費との矛盾>の展開過程、その爆発にいたる過程が明らかにされねばならないのである。
 以上のことは、恐慌の必然性やその内容の解明が、あくまでも<生産諸力の無制限的発展傾向と制限された消費との対立・矛盾>の展開過程、その爆発にいたる過程の分析としてすすめられねばならないこと、したがって恐慌分析があくまでも産業循環過程の分析でなければならないこと、を意味している。(同書、6ページ)

こうした見地が、すでに1973年に提起されていたということを、私ははじめて知りました。私自身の不勉強のせいですが、あらためて、こうした日本のマルクス経済学研究の到達、成果を、きちんと学び、継承していくことの重要性を痛感した次第です。

【付記】
さらに付記すれば、井村さんのこのような恐慌論、あるいは『資本論』の読み方の根底には、次のような見地があります。

 筆者は、『資本論』体系は、マルクスの当初の「プラン」の予定よりもはるかに対象領域を拡充したものではあるが、やはり「資本制的生産の内在的法則」・「資本制的生産様式の内的構造のみ」を解明する「資本一般」の理論体系であるという立場にたっているし、『資本論』=「資本一般」体系をこえて、理論のヨリ上向的・ヨリ具体的な展開をする必要性を強く認識している。(同書、11ページ)

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