社会的バリケードを奪取する(2)

不破さんが新著『マルクスは生きている』(平凡社新書)の中で、イギリスの10時間労働法に関連して、『資本論』の一節を「社会的バリケードを奪取する」と大胆に――しかし、マルクスの本意にぴったりくる――意訳されていることは、前回紹介したところですが、あらためて考えてみると、この不破さんの「意訳」は、なかなか重要な問題を提起していると思いました。

問題は、『資本論』第1部第3篇第8章「労働日」の一番最後の、「わが労働者は生産過程に入ったときとは違うものとなって、そこから出てくる」(新日本新書版、第2分冊、524ページ)で始まる段落です。

以下、繰り返しになりますが、まず、この部分が従来どう訳されてきたか、ドイツ語原文がどうなっているか、不破さんはそれをどう「意訳」しかた、をまずふり返っておきたいと思います。

たとえば新日本訳では、この部分は次のように訳されています。

自分たちを悩ます蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは結集し、階級として1つの国法を、資本との自由意志的契約によって自分たちとその同族とを売って死と奴隷状態とにおとしいれることを彼らみずから阻止する強力な社会的防止手段を、奪取しなければならない。(新日本新書版、第2分冊、525ページ)

新日本以外の訳文も基本的には同じような翻訳ですが、詳しくは、長くなるので、最後にまとめて別枠カコミで紹介しましたので、そちらを参照してください。

この部分の原文は以下のとおり。

Zum "Schutz" gegen die Schlange ihrer Qualen müssen die Arbeiter ihre Köpfe zusammenrotten und als Klasse ein Staatsgesetz erzwingen, ein übermächtiges gesellschaftliches Hindernis, das sie selbst verhindert, durch freiwilligen Kontrakt mit dem Kapital sich und ihr Geschlecht in Tod und Sklaverei zu verkaufen. (I., S.320)

この部分を、不破さんは次のように訳しています。

 責め苦の蛇〔ドイツの革命詩人ハイネの詩からとった言葉――不破〕から自分たちの「身を守る」ために、労働者たちは結集し、階級として、1つの国法、1つの強力な社会的バリケードを奪取しなければならない。(『マルクスは生きている』98ページ)

最初のところは「責め苦の蛇」と、詩人ハイネの言葉らしく訳されているのも見事ですが、不破さんは、独文の関係代名詞 das までのところを、上のように訳し直したわけです。das 以下の部分は、「(マルクスは)社会的バリケードの内容を、次のように意義づけました」として、次のように紹介しています。

 労働者たちは、自由意思で資本と契約を結び、労働力を売り渡すが、資本とのその契約は、労働者とその同族を死と奴隷状態におちこませる危険をもっている。それを阻止することに、この社会的バリケードの意義がある。(同前、99ページ)

そこで、上記の独文を、不破さんの趣旨を生かして、僕なりにこの部分を訳してみると、こんなふうになります。

 責め苦の蛇から自分たちの「身を守る」ために、労働者たちは結集し、階級として、1つの国法、1つの強力な社会的バリケードを奪取しなければならない。それは、労働者たち自身が、資本と自由意思で結んだ契約によって、自分たち自身やその一族[1]を死と奴隷状態とに売り渡すことを阻止する。

で、要するに、僕が何を言いたいかというと、このように訳し直したことによって、10時間労働法というものは、資本家から自分自身を守るために労働者がかちとった「社会的バリケード」だというように、積極的なものとして素直に読める、ということです。

従来の邦訳では、この「社会的防止手段」が、労働者やその家族を「死と奴隷状態」に売り渡してしまうことがないように労働者自身の手を縛る手段であるかのように読めてしまい、積極的な意義づけが明確にならなかったように思います。

しかし、労働日の制限というのは、マルクスが非常に重視した課題です。

第8章「労働日」でもマルクスは、「標準労働日の確立は、資本家と労働者とのあいだの数世紀にわたる闘争の成果である」(ヴェルケ版、286ページ)と強調しています。

また、『資本論』初版の「序言」でも、次のように述べています。

 わが国〔ドイツのこと――引用者〕で資本主義的生産が完全に市民権を得ているところ、たとえば本来の工場では、工場法という対錘〔釣り合いのための重り〕がないために、イギリスよりもはるかに状態は悪い。(新日本新書版、第1分冊10ページ、ヴェルケ版14ページ)

さらに、『資本論』のなかでイギリスの工場立法について詳しく叙述した意図を、次のように説明しています。

 18世紀のアメリカ独立戦争がヨーロッパの中間階級〔ブルジョアジー〕にとっての出撃の鐘となったように、19世紀のアメリカ南北戦争はヨーロッパの労働者階級にとって出撃の鐘[2]となった。イギリスでは変革過程が手に取るように明らかである。この過程は、一定の高さに達すれば、大陸にはね返ってくるに違いない。それは大陸では、労働者階級自身の発展程度に応じて、より残忍な形で、あるいはより人間的な形で、行なわれるだろう。したがって、こんにちの支配階級は、……まさに自分たち自身の利害関係によって、労働者階級の発達をさまたげるいっさいの、法律によって処理できる諸障害を取りのぞかざるをえなくなっている。そのために私は、ことにイギリスの工場立法の歴史、内容、成果にたいして、本巻のなかであのように詳しい叙述のページをさいたのである。(一部訳文を改めた。新日本新書版、第1分冊11ページ。ヴェルケ版15ページ)

そして、このことを「一つの国民は他の国民から学ばなければならないし、また学ぶことができる。たとえある社会が、その社会の運動の自然法則への手がかりをつかんだとしても……その社会は、自然的な発展諸段階を跳び越えることも、それらを法令で取りのぞくことも、できない。しかし、その社会は、生みの苦しみを短くし、やわらげることはできる」(同前)と述べて、ドイツの労働者が真剣にイギリスの工場立法をめぐる歴史や内容、成果や意義を学ぶことを訴えたのです。

さらに第8章「労働日」でマルクスは、国際労働者協会の大会決議を引用して、「労働日の制限」は「それなしには、他のすべての〔改善と〕解放の試みが失敗に終わらざるをえない先決条件である」とまで指摘しています(新日本新書版、第2分冊、523ページ)。

このように、マルクスは、労働日の制限、工場立法を大変重視していました。

この立場にたって考えてみると、問題の第8章の最後の部分でマルクスが、労働者階級は、自分たちを「死と奴隷状態」に売り渡さないようにするために自らの手を縛る「防止策」をとれといった後ろ向きなことを言っているとは考えにくく、不破さんが「社会的バリケード」と表わしたように、資本家階級の無際限の搾取欲求から自分たちを守る「社会的なバリケード」、社会的な規制を勝ちとれと、前向き、積極的な主張をしていると読むべきことは明らかではないでしょうか。

ところが、先ほども指摘したように、従来の翻訳では、なかなかそういうふうに読めなかったのです。

ちなみに、『資本論』の解説書や講座本などをいろいろ眺めてみても、この部分を、いま言ったような積極的な意味で紹介したり、言及したりしているものは、ほとんど見当たりません。私が見た限りでは、宮川実氏が『資本論講義』II(青木書店、1967年)で、当該部分にかんして、「だから労働者たちは、かれらを苦しめる蛇にたいする防衛のために結集し、階級としてたたかい、法律をつくって、資本との自由契約によって労働者が彼ら自身と彼らの同族を売って死滅と奴隷状態におとしいれるのを防止しなければならぬ」(同書、90ページ)と紹介しているのが、唯一の例です[3]。みんな、「労働日」に関連して、労働者階級がたたかって労働日の制限をかちとることの意義や重要性に触れてはいるのですが、しかし、当該部分を、それにかかわる重要なマルクス自身の提起として注目したものは見当たりません。

ですから、この部分を不破さんのように、資本家階級から自分自身を守る「社会的バリケード」を勝ちとるのだと積極的に読み、かつ、そう読めるように訳す、というのは非常に重要な仕事だと思います。

このことは、単なる「読み方」の問題にとどまりません。いわゆる「革命か、改良か」という問題にかかわって、非常に大きな意味をもちます。

10時間労働法というのは、資本主義の枠の中での「改良」であることは明らかです。しかし、そうした「改良」をかちとることに、マルクスは、上に述べたような重要な意義を与えています。革命をめざしたマルクスが改良に大きな意義を置く――世間の「常識」的な「マルクス主義」では、これはなかなか難しい問題です。

しかし、マルクス自身は、そもそも「革命か、改良か」という問題の立て方をしなかったのです。「改良主義」の問題は、改良をかちとることにあるのではなくて、改良をかちとればそれでお終いと考えるところにあります。革命家のマルクスにとって、労働者階級の状態を改善する改良をかちとることは当然であり、「革命か、改良か」などという対立はもともと存在しない、ということです。

日本共産党が、さしあたりは資本主義の枠の中で「ルールある経済社会」の実現をめざす、というと、すぐに出てくるのは「共産党なのに、資本主義の枠の中で改良をめざすというのは、どうしてか?」という疑問。あるいは、そこから「いまは“資本主義の枠の中で”と言っていても、やっぱり本心は共産主義をめざすつもりではないか?」という“勘ぐり”まで生まれます。

しかし、10時間労働法にたいするマルクスの姿勢をみれば、「革命家だからこそ、改良をめざす」というのがマルクス主義本来の立場だということが分かってもらえるのではないでしょうか。「共産党なのに、資本主義の枠の中での改良をめざす」のではなくて「共産党だからこそ、資本主義の枠の中での改良をめざす」というのが正解です。(^^;)

分かってしまえば簡単なことかも知れませんが、世間で流布している「共産党」「共産主義」「マルクス主義」のイメージを根底から覆す、非常に大事なポイントだと思うので、あえてこの点を強調しておきたいと思います。

さらにもう一言。この段落の冒頭のフレーズ「わが労働者は生産過程にはいったときとは違うものとなって、そこから出てくるということをわれわれは認めなければならない」の読み方についてです。

ここも、従来は、第4章「貨幣の資本への転化」の最後のところ――商品交換の部面から立ち去るときに、資本家は「意味ありげにほくそ笑み」、労働者は「おずおずといやいやながら」という話(同前、302ページ)に重ねて、労働市場では、商品所有者同士として対等平等だった労働者が、生産過程を経過することによって、すっかりしょげかえって、資本家に労働力を吸い尽くされてしまった存在として、生産過程から出てくる、というふうに読んでいた、と思います。

ところが、不破さんは、ここをまったくあべこべに読んでいます。

 マルクスは、これ〔10時間労働法〕を「半世紀にわたる内乱」の成果と呼ぶとともに、労働者は、最初に生産過程に入ったときとは「違うものとなって、そこから出てきた」と語っています。そして、この闘争に参加したたかった労働者たちがこのたたかいを通じて、どんな意識、どんな自覚に到達したのかを、次のような言葉で表現しました。(『マルクスは生きている』98ページ)

こう読んで、不破さんは、「責め苦の蛇」云々の引用につなげています。

つまり、「生産過程に入ったときとは違ったもの」というのは、労働者たちが階級的な自覚を高め、主体的に成長した姿で登場する、という意味だというのです。これも、なかなか画期的な読み方であり、とても新鮮に感じました[4]

新日本訳以外でも、当該部分の翻訳は似たり寄ったりです。

河上肇訳

労働者たちは「彼等の苦悩の蛇」〔ハインリヒ・ハイネの言葉〕に対する防衛のために、彼等の頭数を集め、階級として、国家の法律を――自由意志に基づく資本との契約によって自己とその種族とを販売して死と奴隷状態に至らしめることから彼ら自身を防止するところの・有力な社会的防衛を――強取しなければならぬ。(改造社版、791〜792ページ)

高畠素之訳

労働者は「彼等の苦痛の蛇」を防ぐために団結し、一個の階級として法律の制定を強取せねばならぬ。これ実に、彼等をして資本との任意契約に依り、彼等自身並びに彼等の一家を挙げて、死と奴隷状態との境涯に販売し込むことを妨げる所の極めて強力な社会的障壁なのである。(改造社版、279ページ)

岡崎次郎訳

彼らを悩ました蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる1つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。(大月書店版第1巻、397ページ。国民文庫版第2分冊、133〜134ページ)

向坂逸郎訳

彼らの痛苦の蛇にたいする「防衛」のために、労働者は結集せねばならない。そして、1つの国法を、すなわち、労働者自身が資本との自由意志による契約で、自己と同族とを死と奴隷状態とに売渡すことを阻止する1つの超強力的社会的保障を、階級として、奪い取らねばならない。(岩波文庫版、第2分冊、214〜215ページ)

長谷部文雄訳

労働者たちは、彼等を苦しめる蛇に対する「防衛」のために結集し、階級として、国法を――彼らが資本との自由意志的契約により彼等自身および彼等の同族を売って死滅と奴隷状態とに至らしめることを防止する力強い社会的防止手段を――強取せねばならぬ。(青き書店、単行本、第1分冊、513ページ)

なお、戦前の高畠訳、河上訳が「彼らの責め苦の蛇」というところに「」をつけて、「防衛」のほうに「」が付いていないのは、カウツキー版に従ったため。この部分がハイネの詩の一節であるというので、そこに「」を付けたものと思われます。

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  1. 原語はGeschlecht。小学館『独和大辞典』には「a)種族、b)性、c)一族、家系、d)世代」という意味が出ています。従来は「同族」と訳したものが多いのですが、フランス語版では「子孫」と言い換えられており、「一族」と訳した方が趣旨に合っていると思います。それに「彼ら自身と同族」では、どちらも労働者階級自身を指すことになり、文章としても意味が通らないと思います。 []
  2. 原語は die Sturmglocke。辞書を引くと「警鐘」と出てきます。Sturm は「嵐、暴風雨」、Glocke は「鐘」なので、Sturmglocke は、「嵐が来るぞ〜」という鐘、つまり「警鐘」ということになるわけです。しかし、「警鐘」というと、日本語では警戒のための鐘という意味になってしまい、「労働者階級にたいする警鐘」と訳したのでは、あたかもマルクスが労働者階級に向かって「資本家階級からの攻撃を警戒せよ」と呼びかけた、つまり防御を呼びかけたように読まれてしまいます。それではこの部分の意味が通らないので、新日本版では「出動準備の鐘」と訳したものと思われます。しかし、はたして「出動準備」でよいかどうか。Sturm には、そのほかに「激動、動乱、暴動」という意味もあるし、戦闘のさいの「突撃」も Strum です。だから、Sturmglocke は、「警鐘」ではなく、出撃の合図の鐘のことではないでしょうか。だったら、「出動準備」などと悠長なことは言わず、もっとストレートに「出撃の鐘」とか「出撃の合図」と訳してしまえがいいのではないでしょうか。ちなみに、für も「労働者階級にたいする」ではなく「労働者階級にとっての」と読むべきでしょう。そう考えた方が、イギリスの「変革過程」が「大陸に跳ね返ってくる」という話とピタリつながってゆくと思います。 []
  3. ただし、この本は、『資本論』の逐条的な要約集みたいなものなので、宮川実氏が、どこまで、問題を自覚して、この部分に注目したのかはよくわかりません。 []
  4. この読み方は、実は、すでに『「資本論」全三部を読む』でも明らかにされている。だから、オイラが気がつかなかっただけ、のこと……かもしれない。 []

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