政治学者・御厨貴氏 共産党本部を論ず

政治学者の御厨貴氏が、「毎日新聞」で「権力の館を歩く」という連載をやっていますが、今日の朝刊には、日本共産党本部が取り上げられています。

そもそも共産党本部が「権力の館」なのか? という根本的問題があるのですが、まあ御厨さんにそれを言っても始まらないし…。最後の「天眼鏡なしの恐竜たれ」を、御厨氏なりの最大級の褒め言葉と受け取っておきましょう。(^_^;)

権力の館を歩く:東京・代々木 日本共産党本部=御厨貴 – 毎日新聞

権力の館を歩く:東京・代々木 日本共産党本部=御厨貴

[毎日新聞 2009年6月17日 東京朝刊]

 代々木といえば日本共産党。政党の歴史と土地の記憶が、これほど強く結びつく例は珍しい。敗戦の直後、焼け野原の代々木駅に降り立つと、目に飛び込んだのは「共産党本部」と屋根に大書きした木造の党本部だったという。商店街と軒を連ねる風景は地域の「名物」だ。阪神大震災を機に近代的なビルに建て替えられた党本部を御厨貴・東大教授が訪ね、その来し方行く末を考える。

◇再現された「古き良き学校」 理論の党から「恐竜」へ脱皮なるか

 戦前の共産党(注1)に権力の館はなかった。そもそも安住の館すらなかった。すべてが非合法活動の世界なのだから。関係者の下宿や温泉地の旅館などに、集まっては散り、散っては集まるといった案配だ。だから議会政治の外にあって官憲の弾圧にさらされながら活動を続けた共産党を、「天眼鏡のなかのとかげを恐竜とまちがえてはならない」と、政治学者の升味準之輔は看破している。
 しかし、外に対しては特高の監視と検挙に常に身構え、内に対してはスパイと裏切り行為へいつも猜疑(さいぎ)心を研ぎすます共産党の活動は、尋常ならざる人間模様を浮かび上がらせる。揚げ句のはては転向か入獄かを余儀なくされる。館さえ定まらぬのだから、宣伝のための機関紙「赤旗」も質量ともに振るわなかった。かくて敗戦後「天眼鏡のなかのとかげ」は、非合法若(もし)くは獄中の生活からGHQによって解放されたのであった。
 代々木が共産党の別称となるのは、まさにこの時からだ。非合法からの解放に伴い、彼等(かれら)はたちまちにして館を手に入れる。現在と同じ場所にあった「旧本館」がそれだ。1936年まで映画館であり、のち高等電気溶接学校に、さらに戦時中は落下傘の縫製工場と、この建物の運命は三転する。なんと軍需工場に指定されたから、木造でも戦後まで生き残ったのだ。建物の主が左翼系の人間であったから共産党に提供されたという。映画館から軍需工場をへて共産党本部になるとは、これこそめぐりあわせの妙とでも言うべきか。
 「旧本館」には、解放された喜びをそのまま表すかのように、正面の屋根に赤旗がひるがえり「日本共産党中央委員会」という看板が掲げられた。しかし狭く古い木造建築に変わりはない。あたかも兵舎のような大広間に机が並べられ、書記長室の代用として事務室兼応接室を用意せねばならぬほど、殺風景で手狭な感じだった。ただし無産政党の常として資料室は整っていた上、「旧本館」の隣には機関紙「赤旗」のための「あかつき印刷」のビルが建てられた。そして裏には党大会も開ける規模の食堂が造られる。
 1960年代は、共産党の党勢拡大に見合う館の建て直しの時期にあたる。国政選挙はおろか、革新自治体の増加で社共統一戦線が意味をもつ。1号館(1960年)、2号館(1965年)、本館改築(1967年)、3号館(1969年)、4号館(1969年)、5号館(1970年)、日伸ビル買い取り(1970年)。すごい勢いで館は増えた。高度成長はこの党にもインフラ整備の余裕を与えたのだ。一九八五年には1号館、2号館の編集・印刷機能は線路をはさんだ「ASビル」に移り、今も業務を行っている。
 この建て増しによって、1号館には委員長室、書記局長室、副委員長室がそれぞれ四畳半規模でしつらえられた。ただ必要に応じて無造作に七棟もの建て増しが行われたため、各々(おのおの)の棟ごとの往来を可能にはしたものの、林立したビルの中は「迷路」の如(ごと)き構造になってしまった。「公安」の目をくらますためにはよかったかもしれぬが、無駄な動きが多くコスト高になったのも確かだった。

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 そこで1990年代後半から党本部の新築計画が始まる。阪神大震災による耐震性基準のクリアが契機となった。それと共に、東西冷戦の終焉(しゅうえん)とソビエトや東欧の共産主義国家の崩壊が、共産党の党勢拡大にハドメをかける結果が生じた。はるばる来つるものかな。戦後60年を迎えて、共産党も昔をふり返り、今を確かめ、未来を展望する縁(よすが)を必要とする時が来たのだ。ともかくも共産党が日本の政治の中に、ある規模で確固たる地位を占めたのは疑いえないことだから。
 かくて地上11階、地下1階(1期棟)、地上8階、地下2階(2期棟)、延べ面積1万6500平方メートルあまりの堂々たる鉄骨造で現代建築の技術の粋を尽くした新党本部は、1期棟が2002年、2期棟が2005年に完成した(注2)。延べ床面積では自民党本部さえしのぐ。財政面にしても、総額85億円のうち45億円を積立基金、40億円を基金としたが、きわめて順調に集まった。それを共産党らしからぬと思うか、共産党らしいと思うかは、人によるだろう。
 21世紀の政党本部としてそそり立つ権力の館の特長をあげてみよう。まずはセキュリティーチェック。IDカードを用いた中央管理体制による入り口規制は、最近のオフィスビル並みに厳しい。自民党や旧社会党よりもだ。しかし「公安」の目があり、いつ左右過激派の攻撃があるやもしれぬこの党の歴史に鑑(かんが)みるなら、無理からぬことか。もっとも一たび中に入ってしまえば、あとは自由にどこへでも行ける。
 周辺住民、とりわけ商店街との関係には気を使っている。住民に開かれた診療所や会議室、危機利用可能な給水施設は元より、省エネルギー対策、バリアフリー対策、エコ対策は徹底している。今の共産党のあり方と未来像がこれらの施設に表象されている。さらに商店街の通りとの間に3メートルの遊歩道を設け、商店街の高さに応じた3階建ての低層基壇を設定した上、なお3メートル後退して高層棟を建てた気配りはたいしたもの。優等生にすぎるやもしれぬ。

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 この党は言論と理論の党であった。それを象徴するかのように、資料室の充実が目立つ。中心的な資料室だけで13万冊の蔵書量を誇り、他に国際関係や社会科学研究所の資料室もあるのだから。いったいマイクロ・リーダーを備えた政党本部が他にありうるだろうか。次いで大中小、また区切りのできる会議室が極端に多い。具体的用途は定められることなく、しかし支持者からの絵画をかけ、無機的な数字を付された会議室で、恐らくは学習会や勉強会があれこれ開かれているのではないか。
 その意味で企業オフィスや官庁オフィスとは、明らかに趣が違う。色彩計画もそうだ。4カ所の非常階段を赤青黄緑と原色でわけ、1期棟を青系統、2期棟を緑系統のベースカラーでわけている。はてこれは何かに似ているぞ。はたと膝(ひざ)を打つ。そうだ学校建築だ。
 学校のイメージは七階の幹部の部屋でより明確化する。委員長室、書記局長室いずれも個室化していない。彼等の部屋は秘書事務室から分岐しているが、ドアは基本的には開放されている。幹部たちの往来自由な共同空間が確保され、少し歩けば互いにすぐ話ができる。書記局など執務室は、これまた学校の職員室のような趣である。これらの人々の執務に建築上からは、階統性の意識が反映されぬ形になっている。だからであろう、志位和夫委員長は「ここは権力の館ではありません」と言い放った。あからさまな権力や権威の象徴性を拒む造りなのだ。確かに歴代最高幹部の銅像の如きもない。
 そこにもここにも党の同志がいる。ごく普通に党職員はみな食堂で食事をすます。学校、それも一昔前の古き良き、民主的な学校がここには再現されている。学校なら年中行事をくり返すだけでも存在意義はある。しかし政党は「どっこいしょ」では困ろう。どうやら新しい出来すぎの館は、共産党にさらに一皮むけることを望んでいるのではないか。「天眼鏡なしの恐竜たれ」と。(みくりや・たかし=東京大教授、日本政治史、建築と政治)=毎月第3水曜に掲載します

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(注1)戦前の共産党
 1922年7月15日、東京渋谷伊達町の民家で荒畑寒村、堺利彦、山川均らが参加し創立。戦後は45年12月1?3日に第4回大会が開かれ、徳田球一を書記長に選んだ。

(注2)現在の党本部
 東京都渋谷区千駄ケ谷4の26の7に所在。7階に書記局、3?4階に吹き抜けの大会議室、4階に食堂、2期棟に屋上庭園を備える。設計・監理責任者は地域建築空間研究所所長の小林良雄氏。

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