"自己を発現する労働力"って?

唐突ですが、新日本出版社の『資本論』を読んでいると、「自己を発現する労働力」という表現がところどころで出てきます。たとえば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の冒頭。

【邦訳1】 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)

「発現」とは、「実際に現われ出ること。現わし出すこと」です(『新明解国語辞典』第4版)。つまり、労働力が「自己を発現する」というのは、植物の種が(一定の条件さえあれば)ほったらかしておいても、おのずと芽を出し花開いていくように、労働力も、おのずから、他の助けなしに、おのれの力だけで自分自身を表に現わして、労働となっていくかのようです。

しかし、マルクスは、労働力を、こんなふうにヘーゲルばりの「生きた主体」として、本当にとらえていたのでしょうか? この「自己を発現する労働力」というのは、ドイツ語では sich betätigende Arbeitskraft です。そこでまず、『資本論』第1巻のなかで、この表現が出てくる箇所を調べてみました。

調べてみると、意外なことに、この表現が出てくる箇所は少なく、『資本論』第1部全体でも6箇所しかありません。

【独文1】 Der Gebrauch der Arbeitskraft ist die Arbeit selbst. Der Käufer der Arbeitskraft konsumiert sie, indem er ihren Verkäufer arbeiten läßt. Letztrer wird hierdurch actu sich betätigende Arbeitskraft, Arbeiter, was er früher nur potentia war. Um seine Arbeit in Waren darzustellen, muß er sie vor allem in Gebrauchswerten darstellen, Sachen, die zur Befriedigung von Bedürfnissen irgendeiner Art dienen. [Werke版, S.192] ※【邦訳1】は前出。

【独文2】 Diese produktive Konsumtion unterscheidet sich dadurch von der individuellen Konsumtion, daß letztere die Produkte als Lebensmittel des lebendigen Individuums, erstere sie als Lebensmittel der Arbeit, seiner sich betätigenden Arbeitskraft, verzehrt. [S.198]

【邦訳2】 この生産的消費が個人的消費と区別される点は、後者は諸生産物を生きた個人の生活諸手段として消費し、前者はそれらを労働の生活諸手段、すなわち生きた個人の自己を発現する労働力の生活諸手段として消費しする、ということである。(新日本新書、第2分冊、314ページ)

【独文3】 Es ist also eine Naturgabe der sich betätigenden Arbeitskraft, der lebendigen Arbeit, Wert zu erhalten, indem sie Wert zusetzt, eine Naturgabe, die dem Arbeiter nichts kostet, aber dem Kapitalisten viel einbringt, die Erhaltung des vorhandnen Kapitalwerts. [S.221]

【邦訳3】 したがって、価値をつけ加えることによって価値を維持するということは、自己を発現している労働力すなわち生きた労働の天性というべきものである。この天性は、労働者にはなんの費用もかからないが、資本家には現存資本価値の維持という多大の利益をもたらす天性なのである。(同前、352ページ)

【独文4】 Anders mit dem subjektiven Faktor des Arbeitsprozesses, der sich betätigenden Arbeitskraft. Während die Arbeit durch ihre zweckmäßige Form den Wert der Produktionsmittel auf das Produkt überträgt und erhält, bildet jedes Moment ihrer Bewegung zusätzlichen Wert, Neuwert. [S.223]

【邦訳4】 労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合は、事情が違う。労働は、その合目的的な形態によって生産諸手段の価値を生産物に移転し維持するあいだに、その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新価値を形成する。(同前、354-355ページ)

【独文5】 Im Produktionsprozeß selbst aber tritt an die Stelle der vorgeschoßnen 90 Pfd.St. die sich betätigende Arbeitskraft, an die Stelle toter, lebendige Arbeit, an die Stelle einer ruhenden eine fließende Größe, an die Stelle einer konstanten eine variable. [S.228]

【邦訳5】 しかし、生産過程そのものにおいては、前貸しされた90ポンド・スターリングに代わって自己を発現する労働力が、死んだ労働に代わって生きた労働が、静止している大きさに代わって流動している大きさが、不変の大きさに代わって可変の大きさが、登場する。(同前、364ページ)

【独文6】 Innerhalb des Produktionsprozesses entwickelte sich das Kapital zum Kommando über die Arbeit, d.h. über die sich betätigende Arbeitskraft oder den Arbeiter selbst. [S.328]

【邦訳6】 生産過程の内部では、資本は、労働にたいする――すなわち自己を発現している労働力または労働者そのものにたいする――識見にまで発展した。(同前、540ページ)

で、これらの部分が、マルクスが翻訳したフランス語版でどうなっているかを調べてみました。その結果、

引用1…フランス語では該当する表現なし。(江夏・上杉訳『フランス語版資本論』上、167ページ参照)
引用2…フランス語では該当する表現なし。(同前、174ページ参照)
引用3…La frce de travail en activité, le travail vivant… [MEGA II-7 170.5-7](同前、199ページ参照)
引用4…Il en est tout autrement du facteur subjectif de la production, c’est-à-dire de la force du travail en activité. [171.1-2](同前、201ページ)
引用5…フランス語版では該当する表現なし。
引用6…La capital, comme nous l’avons vu, se rend maître du travail, c’est-à-dire parvient à courber sous sa loi la force de travail en mouvement ou le travailleur lui-même. [263.15-17](同前、320ページ)

つまり、6例中、3例はフランス語では該当する表現がありません。また、残り3例は、いずれもen activité(「活動中の」)もしくは en mouvement(「運動中の」)と訳されていて、そこには「自己を発現する」といったニュアンスはまったくありません。

もしマルクスが、sich betätigende Arbeitskraft について、労働力が「自己を発現する」というところに重きを置いていたのであれば、それにふさわしいフランス語訳を考えたはずです。しかし、実際にはそうなっていない。ということは、sich betätigende に「自己を発現する」というような、何かいかにも意味ありげな訳を当てるのは、少し深読みしすぎ、という感じがします。

ところで、動詞 betätigen を小学館『独和大辞典』辞書で引いてみると、次のような意味が出ています。

  1. 【再帰】sich betätigen 働く、仕事をする、活動する
  2. (機械などを)動かす、操作する
  3. 《雅》行為に表す、実行に移す

また、その名詞形 Betätigung には、「<1>活動、行動。<2>《単数で》(機械などの)運転、操作。<3>実行、実現、実証。」という意味があげられています(同前)。

「自己を発現する」という訳は、sich(自己を)+3の「行為に表す」という意味で、訳してあるようです。しかし、普通に考えれば、sich付きの再帰表現なのだから、1の「活動する」という訳をあてるのが当たり前のはず。新日本訳は、辞書的にみてもかなりひねっているように思われます。

ちなみに、これまでの翻訳をみると、

【長谷部文雄訳】 ……労働力の販売者は、労働することによって顕勢的に自らを実証しつつある労働力・労働者となるのであって…… (青木書店、1954年刊、第1巻、329ページ)

【岡崎次郎訳】 ……労働力の売り手は、現実に、活動している労働力、労働者になるのであって…… (国民文庫、1972年刊、第1分冊、311ページ)

【向坂逸郎訳】 ……後者〔労働力の売り手のこと〕はこのことによって現実的に活動している労働力、労働者となるのであって…… (岩波文庫、1969年刊、第2分冊、9ページ)

【筑摩書房版】 ……労働力の売り手は、これによって現実に活動する労働力、すなわち労働者となる。…… (今村仁司、三島憲一、鈴木直訳、筑摩書房、2005年、上、263ページ)

【河上肇訳】 ……労働力の販売者は、actu〔現実的〕に、活動しつつある労働力――労働者――となる…… (改造社、1931年刊、499ページ)

【高畠基之訳】 ……労働力の販売者は現勢的に活動する所の労働力となり、労働者となる。…… (改造社、1927年、第1巻第1冊、149ページ)

こうやって並べてみると、sich を「自ら」とか「自己を」とか訳出しているのは、長谷部訳と新日本訳だけで、他はみんな「活動する」「活動している」「活動しつつある」となっていたことが分かります。しかも、厳格な訳文で知られた長谷部訳の「自ら実証しつつある」という訳に比べても、新日本訳がいっそう文語調というか、直訳風というか、そういう翻訳になっていたというのは、少々意外でした。

よく知られているように、マルクスは、労働と労働力とを厳格に区別して、労働とは労働力を発揮したものである、と言っています。以上の引用をみても、「自己を発現する労働力」は「生きた労働」あるいは「労働者」と言い換えられているのが分かると思います。

引用1…自己を発現する労働力=労働者
引用3…自己を発現している労働力=生きた労働
引用5…自己を発現する労働力=生きた労働
引用6…労働=自己を発現している労働力=労働者

だから、sich betätigende Arbeitkraft という表現に、何か特別に論ずべき点、解明を要する点などないのです。しかも、betätigen が現在分詞になっているところがミソで、マルクスは、労働というのは、ほかでもないいままさに活動している労働力のことだと言っているのです。

ですから、sich betätigend Arbeitkraft は、「活動する労働力」、あるいは、現在進行形であることを強調するなら、「活動している労働力」もしくは「活動しつつある労働力」と訳すべきであり、もっと踏み込んでいえば、フランス語版でのマルクスの翻訳を生かして「活動中の労働力」と訳してみても、ドイツ語からの翻訳として決して誤訳だとは言えないと思います。

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  1. 厳密な分析でとても興味深く読ませていただきました。
    確かに『資本論』の中では、指摘されたように、「活動している労働力」という訳が適切だと思います。僕がいつも参考にしている宮川実先生の訳もそうなっています。しかし、新日本出版や長谷部氏が、「自己を発現する労働力」と訳してしまったのにも理由があると思います。というのも、マルクスは常に、労働を人間が自然に対して作用を及ぼすことを表象として思い浮かべています。それは、未だ潜在的な人間的諸力(手足を動かす、頭で考えるなど)を、自然に対象化し、人間の欲求充足のための使用価値という質的で物的な存在へと転化する過程です。つまり、潜在的な人間的諸力=労働力を、自然への対象化=労働という過程を経ることによって、現実的な物的存在として、実際に現われ出すのです。ここでは、「潜在的な」と「現実的な」という対比を明確に表現しようとしたために「自己を発現する労働力」というような訳をつけたのではないでしょうか。『資本論』だけではわかりずらいかもしれませんが、『経済学・哲学草稿』や『ドイツ・イデオロギー』などの初期のマルクスの著作においてはとくに明確です。この議論は、労働の二重の性格、つまり有用労働と抽象的人間労働というマルクスの歴史的大発見(マルクス自身もそう豪語している)につながるものなので大変慎重な理解が必要だと思います。
    まだマルクスを勉強し始めて間もない大学生の、短絡的な解釈ですが、参考にしていただければ幸いです。

  2. トレイさん、おはようございます。

    コメントをいただき、ありがとうございます。

    マルクスが「労働を人間が自然に対して作用を及ぼすことを表象として思い浮かべていた」というのはその通りだと思いますが、あくまで主体は人間であって、人間が労働力を自然のなかに対象化するのであって、労働力が自ら対象化するのではありません。

    そこをまるで労働力が自分で自らを対象化するかのように読み込むのは、悪しきヘーゲル主義だと僕は思います。『資本論』を「経哲草稿」や「ドイツ・イデオロギー」に引き戻して解釈するのではなく、「経哲草稿」や「ドイツ・イデオロギー」で展開していたことをどう発展させたかに注目すべきだと思います。

  3. 適切な指摘ありがとうございます。
    僕の文章の拙さが誤解を生んでしまったようです。僕も労働力が自己展開するということはマルクスの悪しきヘーゲル主義化だと思います。「未だ潜在的な人間的諸力(手足を動かす、頭で考えるなど)を、自然に対象化し、人間の欲求充足のための使用価値という質的で物的な存在へと転化する」という文章に「人間が」という主語を置かなかったのが少しまずかったようです。改めて修正させてください。(主語がなくても文章が成り立ってしまう日本語の曖昧さですね)
    『資本論』から遡及的に初期マルクスの著作を読むのは僕がもっともしてはいけないことだと思っています。『経・哲草稿』や『ドイツ・イデオロギー』においては、ヘーゲルはもちろんフォイエルバッハやバウアー兄弟、そしてシュティルナーの用語を用いながらもマルクスは新しい唯物論として明確に彼らを超える社会理論を展開させています。今『資本論』に大きな注目が集まっているのはとても喜ばしいことなのですが、『資本論』の適切な理解のために、『ヘーゲル法哲学批判序説』と『ユダヤ人問題によせて』の独仏年誌の2論稿から始まる初期マルクスに対してもより多くの注目が集まればいいなと思っています。ちなみに、僕は『経・哲草稿』の「疎外された労働」断片を中心に疎外論を研究しています。
    今の大学では、こうやってマルクスについて学生仲間と議論を重ねることはめったにできないので、とても楽しいです。またマルクスについて議論できればたいへんうれしく思います。

  4. トレイさん、こんばんは。

    マルクスを研究したいとお書きですので、期待を込めて、あえてきつい言い方をしますが、人から自分の意見の不備を指摘されたとき、「誤解をされた」という弁解はすべきでないと私は思っています。研究者としては、書いたことで勝負するのであって、あとになって、あれこれの批判に「いや私が言いたかったのはそういうことではなくて…」という弁解をしていたのでは、進歩がなくなります。

    人間という主語を忘れたのは、本当に日本語の曖昧さのせいですか? 自分自身の考えの曖昧さを日本語のせいにしていませんか? そこを突き詰めないと、研究は前進しません。

    相手の指摘が正しいと思ったら、まず素直に認めるところから出発しましょう。それが研究を発展させる一番の早道だと思います。(まあ、僕自身も、なかなかそういうふうに割り切ることができなかったのは事実ですが)

    それから、疎外論を研究されているとのことですので、あえてさらにもう一言。

    僕は、いわゆる「初期マルクス」の「疎外」論を正しく理解するためにも、『資本論』など、その後のマルクスの思想の全発展をつかむことが必要だと思います。「初期マルクス」にさかのぼればさかのぼるほどマルクスがよく分かるのではなく、マルクスの生涯の思想的発展を知れば知るほど「初期マルクス」がよく分かる、ということです。

    これまでの疎外論研究は、<1>のちのマルクスには無くなった「初期マルクス」の「疎外」理解こそが大事だ、と主張するか、<2>のちのマルクスの中にも、かくのごとく「初期マルクス」の「疎外」論が貫いている、と主張するか、結局このどちらかの立場に行き着いていたように思います。

    しかし、このどちらの立場でも、結局、なぜマルクスは初期の「疎外」論的な立場にあきたらず、それに終わらないところへ自分の理論を発展させたのか、という問題が解けません。そこを解かないかぎり、疎外論の研究としては成功しないと思います。

    以上、年寄りの世迷い言まで。研究、がんばってください。

    なお、『資本論』から遡及的に初期の著作を読んではいけない、とお書きですが、僕が言いたかったことは、『資本論』を初期の著作に引きつけて読み込むやり方、言ってみれば初期の著作から『資本論』に遡及するような読み方はしてはいけない、ということです。初期の著作から『資本論』へ発展的に読むことは、もちろん『資本論』から初期の著作に遡及することではありませんが、『資本論』を初期の著作から遡る形で解釈することでもありません。そこを正しく理解していただけなかったかも知れないので、重ねて指摘しておきます。

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