『資本論』の本筋とはなんの関係もないのですが…

『資本論』第1部第7章「剰余価値率」の第3節、有名な「シーニアの最後の1時間」の終わり近くに、こんなくだりが登場します。

【新日本版】 ……もし諸君が、諸君の「工員たち」から11時間半ではなく13時間を手に入れることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した1時間半を単なる剰余価値につけ足すならば……(上製版Ia、387ページ、新書第2分冊、386ページ)

この下線部分。実は、戦前の河上肇訳では、次のようになっています。(仮名遣い等は、現代通用のものに直してあります)

【河上訳】 ……なお諸君が、諸君の織工を11 1/2時間でなく無理に13時間労働せしめ、かつその余分の1 1/2時間を全部剰余労働に加えるとすれば、――諸君にはそれらが全く同じものにみえるはずだが――……(改造社、616ページ)

ご覧のように、訳文が全く異なるだけでなく、「そうする」とか「それら」で受けているものが全然違っています。一体、どっちが正しいのか? なぜ、こんなふうに違っているのか? ささいな挿入部分で、ここでのマルクスの議論の筋とはなんの関係もないのですが、気になってしまいました。

そこで、またまた、いろいろ調べてみました。まずドイツ語。

…… wenn ihr eure "Hände" statt 11 1/2 Stunden 13 abschanzt und, was Euch so ähnlich sieht, wie ein Ei dem andren, die überschüssigen 1 1/2 Stunden zur bloßen Mehrarbeit schlagt, …… [MEW 23, S.241.]

で、既存の邦訳を調べると、河上訳を除いて、ほとんどみんな同じです。

【高畠訳】 ……もし諸君が11時間半の代わりに13時間、諸君の「手」(労働者)を働かして、曩(さき)の場合と同様に、1時間半という超過分をば純粋の剰余労働に算入するとすれば……(改造社、第1巻第1冊、197ページ)

【長谷部訳】 ……もし諸君が、諸君の「織工」を11時間半でなく13時間苦役させ、そして、――諸君はきっとそうするものと思われるのだが、――余分の1時間半を単なる剰余価値に追加するならば……(青木書店、第1部上冊、399ページ)

【岡崎訳】 ……もし諸君が諸君の「働き手」を11時間半ではなく13時間こき使って、そして、いかにも諸君らしいやり方だと思われるのだが、余分の1時間半をただの剰余価値につけ加えるならば……(国民文庫、<1>、390ページ)

【向坂訳】 ……もし諸君が、諸君の「人手」を、11時間半のかわりに13時間辛苦させ、そして、瓜二つとでもいうように、いかにも諸君のやり方に似ていることだが、余分の1時間半を、ただの剰余労働に加えるならば……(岩波文庫、<2>、87ページ)

【宮川実訳】 ……もし諸君が諸君の「働き手」を11時間〔ママ〕ではなく13時間こきつかって、――諸君はきっとそうするだろうと思われるが――、余分の1時間半を単なる剰余労働につけ加えるならば……(あゆみ出版『学習版 資本論』、Ia、300ページ)

【筑摩版】 ……もし諸君が諸君の「人手」を11時間半ではなく13時間酷使し、いかにも諸君らしいやり方で、余分な1時間半をたんなる剰余価値に加えるならば……(筑摩書房、上巻、332ページ)

以上見てきたように、既存の邦訳は、河上訳を除いて、基本的にみんな同じです。なぜ、こんな大きな違いがでてきたんでしょうか。

もう一度、原文 …was Euch so ähnlich sieht, wie ein Ei dem andren, … について。

まず、was が主語で、Euch は人称代名詞、2人称複数の3格。ähnlich は「〜に似ている」「〜と同じような」という意味。siehtは、「見る」sehenの3人称単数現在形で、主語wasに対応。

したがって、この部分は、「○○は君たちに似ているように見える」となるか、あるいは「君たちには、○○が似ているように見える」か、どちらかになります。

続いて、wie以下の部分。ein Ei は「卵」であり、wie ein Ei dem andren は、直訳すれば、「他の卵にとっての卵のように」という意味。辞書には、sich gleichen wie ein Ei dem andern で、「互いに酷似している、瓜二つである」という訳が出てきます。

したがって、原文をそのまま素直に訳せば、「wasは、卵と卵のように、君たちに似て見える」となるか、「君たちにとって、wasは卵と卵のようにそっくりに見える」ということになります。

問題は、このwasが何を指すか。河上訳は、この was 以下の挿入句を、その後の die überschüssigen 1 1/2 Stunden と同格になっている、と考えた訳文になっています。僕は、それが一番素直な翻訳だと思うのですが、ただそうすると、was が後ろに来るものを指している、という問題が残ります。

そこで、他の訳では、was は挿入句より前の内容を受けている、と考えたようです。労働者を1時間半余計に働かせる、そういうやり方が「卵と卵のように、君たちに似ているように見える」と解釈した翻訳になっています。しかし、「働かせ方」というような非人格的なものが、「君たち」に似ている、ということになるのかどうか。そこが根本的な問題です。

これらのなかでは、向坂訳が一番直訳的で、その限りでは、この解釈に一番沿った訳になっています。それにたいして、「諸君は当然にそうすると思われる」(新日本版)、「諸君はきっとそうするものと思われる」(長谷部訳)、「いかにも諸君らしいやり方だと思われる」(岡崎訳)などは、この解釈に立ったとしても、かなりの意訳になっています。そもそも「諸君は」というふうに主語に訳せるのかどうかもよく分からないし、「当然」とか「きっと」というのは、おそらく wie ein Ei dem andren に該当するんだろうと思うのですが、はたしてそういうふうに訳せるのかどうか。そういう疑問が残ります。高畠訳、筑摩版は、結局、そのあたりがはっきりしないので、とりあえず当たり障りのないように訳したものに見えます。

で、マルクス自身が手を入れたフランス語版でどうなっているか調べてみたのですが、フランス語版ではこの挿入句は省略されています。

エンゲルス監修の英語版では、次のようになっています。対応するような挿入句はありますが、ちょっとニュアンスが違っています。

…… if you make your "hands" toil for 13 hours, instead of 11 1/2, and, as may be expected from you, treat the work done in that extra one hour and a half, as pure surplus-labour, ……

〔直訳すれば〕……もし君たちが君たちの「働き手」を11時間半ではなく13時間働かせるならば、そして、君たちから期待されているように、その余分の1時間半のあいだになされた仕事を、純粋な剰余労働と同じように扱えば……

英語版を基準にすれば、河上訳のような解釈は不可能です。それ以外の既訳は、ある意味では、英語版とドイツ語原文とを両にらみして、どちらとも齟齬を来たさないようなかっこうで訳したものとも言えます。

しかし、ドイツ語原文がどちらかといえば客観的にみて、労働者を余計に1時間半働かせるやり方が「君たちに似ている」かどうかを問題にしているのにたいして、英語版は、資本家たちの期待という主観的な問題になっていて、そもそもマルクスの原文の忠実な翻訳といえるのかどうか疑問も残ります。

ということで、河上訳が正しいのか、それ以外の訳が正しいのか、どちらについても決定打に欠けていて、僕のドイツ語力では決めることが出来ません。どなたか、ご教授ください。m(_’_)m

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