『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(4)

さて、391ページ上段、第26段落から。いよいよ経済学者の批判が始まります。

【第26段落】391ページ上段?392ページ

まず、よく分からないのは、「流動資本との関連における剰余価値は、明らかに、利潤として現われるのであって、固定資本との関連における剰余価値としての利子とは区別される」(391ページ上段、左3行目?)という記述。文脈から見て、これがマルクスの積極的見解の展開だと思われるのだが、意味がよく分からない。

マルクスは、258?259ページで、マルサスの『経済学原理』から「生きた労働との交換において資本が措定する現実的剰余価値の計算とは区別される、利潤の計算」として、次のような数字を上げている。

  • 「固定資本」(「建物と機械に投じられた資本」)にたいする利子500ポンド
  • 「流動資本Floating capital」(7,000ポンド)にたいする350ポンド
  • 「地代、国税、地方税」150ポンド
  • 「利潤」650ポンド(マルサスの表では、諸々の合計15,350ポンドと、「紡がれた撚糸」の価値16,000ポンドの差額)

を上げて、剰余価値は、これらの合計1,650ポンド(850の利子+150の地代等+650の利潤)だと言っている。マルクスの先程の文章は、このことを指しているのだろうか? 『経済学と課税の原理』でリカードウは、複数年にわたって減価償却される「固定資本」については、複利計算で割り戻して、単年度あたりの償却額を計算している。そういうことがマルクスの念頭になるのかも知れない。

あと、「あらゆる労働が剰余を残す」のは「公理」だとするプルードンの批判。

【第27段落から第31段落まで】393ページ上段?396ページ上段まで

経済学者の学説批判。

【第27段落】
 ――ジョン・スチュアート・ミル。固定資本は「固定している、処分できない、利用できない資本」。マルクスは、「資本の総流通過程のうちの一局面にはまりこんでいる」資本が存在する、ということは「正しい」と言っている。(393ページ上段)

【第28段落】
 ――アリグザンダ・アンダスン(科学者で、マンチェスターとグラスゴーの企業家。『最近の商業不況、または、パニックの分析』、ロンドン、1847年、の著者。「ロンドン・ノート」第1冊に抜粋されている)。「固定資本と流動資本とのあいだの区別は……外見的なものである」云々。金は固定資本だが、メッキに使用される場合は流動資本だ。船は浮かんでいるが、固定資本だ。鉄道株は、商取引物品なので、流動資本だ、云々。マルクスは特にコメントしていない。

【第29段落】394ページ上段
 ――セー。マルクスは、セーの定義を引用した上で、「価値としての資本が、特殊なある使用価値――生産の内部にある――に拘束されている、ということは、重要な側面である」と評価。マルクスが注目したのは、「拘束されている」という規定。ただたんに「流通不能な資本が固定資本だ」と言うのは、「固定資本は流動資本の反対物だ」と言っているだけだと批判。

【第30段落】394ページ下段?395ページ上段
 ――ド・クィシン(経済学者、リカードウの注解者)。ド・クィシンの定義では、「流動資本」は「生産的に使用されて使用行為そのもののうちで消滅する」もの、「固定資本」は「事物が同じ作業に耐えず繰り返し何度でも役にたつ場合」である、というもの。これは、のちのマルクスの定義と一致している。それにもかかわらず、ここでマルクスは、「この区別づけには、生産行為における技術学的区別への観点があるだけであって、形態的な観点はまったくない」と批判(ここで言っている「形態的」というのは「経済的形態規定」のこと)。その定義は、「固定されているもの」、「流動しているもの」であるとするような「標識」はもっているが、「資本という『名称』にふさわしい資格をまったくもっていない」。(395ページ上段)

【第31段落】395ページ下段?396ページ上段
 ――ラムジ。ラムジは「必需品だけが流動資本である」と言っている。マルクスは、ラムジが「必需品」を「生産局面それ自体の期間中に流通する唯一の資本部分」だから、「とりわけすぐれた流動資本である」と言って、「彼は正しい」と評価している。(395ページ下段?396ページ上段)

【第32段落から第34段落】396ページ下段?398ページ下段

ここは、またもや複利計算。回転と総回転中に生み出される剰余価値の関係。市場の大きさと流通の速度など。

【第35段落から第36段落の冒頭部分まで】398ページ下段最終行?403ページ下段本文7行目まで

リカードウの定義について。

マルクスがそれをどう評価したのか、いまいち分かりにくいが、結論として、第36段落の冒頭(403ページ下段)で、「リカードウの説明のすぐれた点」として、「再生産の緩急の必然性という契機が強調されていること、つまり消滅性の大小――消費……の緩急――が、資本そのものへの関連のなかで考察されていること」と評価している。(しかし、これは「固定資本」「流動資本」の定義についての評価か?)

その前に、マルクスは、「使用価値と交換価値との区別立てが……一般に経済的形態規定の外部に属する、と判断すること以上の誤りはない」(401ページ上段)と指摘している。

しかし、やっぱり「固定資本」「流動資本」についてのリカードウの定義そのものについて、マルクスがどう評価したのか、よく分からない。(^^;)

【第36段落の途中から】403ページ下段?405ページ上段1行目

シスモンディ、シェルビュリエ、シュトルヒの批判。

シスモンディは、人間による直接の消費か間接の消費か、対象が人間にとって直接的な生産手段か間接的な生活手段かということを、「固定資本」「流動資本」の定義に「直接にもちこんでくる」と批判されている。

なお、シスモンディのところで、「第1の転化」と「第2の転化」というのが出てくる。あとで、「大循環」と「小循環」という話が出てくるが、それの発端か?

マルクスは、「固定資本それ自体が、流動資本の停滞してしまった形態」とみなしているとして、シスモンディを批判。これは、シュトルヒにも共通。シュトルヒも「どんな固定資本も、もともとは流動資本」と言っている。

【第37段落】406ページ上段

シュトルヒの続き。

【第38段落、第39段落】406ページ下段

またもや複利計算の問題。「年金計算の公式」が出てくるのは、リカードウが『経済学と課税の原理』で、固定資本の単年度割り戻しを「年金計算の公式」にしたがってやっているから。

【第40段落】406ページ下段?407ページ上段

不変資本・可変資本の区別について。さらに、「資本の再生産費の騰落」にともなう「資本それ自体」の「価値」の変化。後者については、「実在的な資本」「多くの資本相互の交互作用」として考察される「項目」で「初めて論じられるべきこと」であって、「ここでの資本の一般的概念」では論じられるべきではない、という断り書。

【第41段落】407ページ上段?410ページ下段

「自由競争」についての考察。

「自由競争」は「資本に先行する生産諸段階に特有の諸限界および諸制限の否定」として現われた(407ページ上段)。

407ページ下段では、「制限と限界の弁証法」が論じられている。非常に長いが、資本主義をその誕生から克服まで見通したスケールの大きな考察になっている。

 ――まず、資本は「以前の生産様式の内在的限界」を乗り越えて発展し、それら「諸限界」を「資本の運動、発展、実現にとっての諸制限」として取り払う。それはにとっての「いっさいの限界を止揚した」ようにみえるが、実は「いっさいの制限を使用したのでもなく、ただ、資本にとって諸制限と鳴っていた、資本に照応していない諸限界を止揚だけだった」。
 ――資本は、「それ自身の諸限界の内部」では、「自由なもの、制限をもたないもの、すなわち自己自身によってだけ、自己自身の生活諸条件によってだけ限界づけられたものだと感じる」。それは、同職組合の全盛時代にもっていた「制限」は、同職組合からみれば「自由」なものだったというのと同じだ。同職組合は、それを「自己の内在的諸条件として発展させた」のであって、「外的な窮屈な諸制限として発展させたのではない」云々。
 ――そうした資本の「諸限界」は、「より高度の見地」つまり資本主義を乗り越えた社会主義・共産主義の見地からみると、「生産の諸制限として現われ」るし、「資本自体の歴史的発展によって」生産の諸制限として「措定されたもの」として現われる。云々。
 ――自由競争は、「資本が自己自身にたいして、他の一資本にたいする様態で連関すること、すなわち資本が実在的に資本として振る舞うこと」である。「資本の内在的諸法則」は、「自由競争が発展するかぎりで、はじめて法則として措定される」。「自由競争」は、資本主義的生産様式の「自由な発展」であり、「資本の諸条件と、こうした諸条件として諸条件をたえず再生産する資本の過程との、自由な発展」である。「自由競争において自由なものとして措定されているのは諸個人ではなく、資本が自由なものとして措定されている」。「資本に立脚する生産が社会的生産の発展にとっての必然的な形態、したがって最もふさわしい形態であるあいだは、資本の純粋な諸条件の内部での諸個人の運動が、彼らの自由として現われる」。「自由競争は資本の実在的な発展である」。「この競争によって個々の資本家にとっての外的必然性として措定されるものこそ、資本の本性に照応し、資本に基づく生産様式に照応するものであり、資本の概念に照応するものである」。
 ――この自由が「教義として」保証されるのは、「自由競争によって取り払われた諸制限への不断の反省によって」である。
 ――「資本は、自己自身を発展の制限と感じ、そのように意識しはじめると、自由競争を抑制することによって資本の支配を完成するようにみえる諸形態に逃げ道を見いだす」。その「形態」は、「資本の解体の」、資本主義的生産様式の「解体の告知者」である。
 ――「自由競争」を「人間的自由の究極の発展と見なし、また自由競争の否定を個人的自由と個人的自由に基づく社会的生産との否定にイコールであるとみなす愚劣な観念」。それは、「局限された」「資本の支配という基礎」のうえでの「自由な発展」にすぎない。「この種の個人的自由は同時に、いっさいの個人的自由の最も完全な止揚」であり、「物象的諸力……という形態をとる社会的諸条件のものへの個性の完全な屈服」である。
 ――「競争は自由な個性の絶対的形態だと称するような……幻想が消え去る」ことは、資本主義的生産様式の「諸条件がすでに制限だと感じられ、またそう考えられている」こと、「すでに現にそうなっていること」の「一つの証拠」である。
 ――自由競争が「人間的自由の発展の究極の形態」だというのは、「中産階級」(ブルジョアジーのこと)の支配が世界史の最後の段階だという「時代遅れの成り上がり者にとって心地よい観念」だ。云々。

【第42段落から第54段落まで】411ページ下段?419ページ上段最初の3行まで

 マルクス自身が「固定資本および流動資本にについての諸見解」に戻る前に、「以前に展開した」問題に立ち戻ると書いている。この「以前に展開した」問題とは、回転時間の問題と、それが一定期間に生み出される剰余価値の大きさにどんな影響を与えるかという問題にかんする考察。

考察は、記号を使った数式まで出てきて、くだくだしく展開されるが、あまり実りがあるとは思われないので、とりあえず省略。(^^;)

ということで、まだまだ、一体どこまで続く?

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