『1857-58年草稿』 「固定資本と流動資本」を読む(5)

第42段落から第54段落までは、回転時間の相違に関する数式計算。マルクスは一生懸命やってるが、あまり実りがないので、とりあえず省略。

【第55段落】419ページ上段?419ページ下段のお終いまで

ここでは「競争の法則」として、『資本論』第3部で展開されることになる内容が展開されている。

 競争には価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは、価値が、それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく、それが生産されうる労働時間、すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている、という法則である。最初の法則がくつがえされたかのようにみえるにもかかわらず、実はこのことによってはじめて、個々の資本が資本一般の諸条件のなかに置かれる。……これが競争の法則である。(419ページ上段)

ここでマルクスが言っているのは、「資本一般」から「個々の資本」に上向していくときに、「最初の法則がくつがえされたようにみえる」けれども、実は、それによって、初めて「個々の資本」が「資本一般」の法則的な現われであることが明らかにされる、ということ。認識の発展にとって、前進は後退である、ということ。面白い。

さらに、「需要、供給、価格(生産費用)」「市場価格としての価格」「一般的価格」「一般的利潤率の措定」。「市場価格による諸資本の様々な部門への配分」「生産費用の引き下げ」等々。(これらは、第3部の内容。)

面白いのは、次の指摘。どれも同じことを言っている。

ここではいっさいの規定が、資本一般におけるのとは逆となって現われる。さきには価格が労働によって規定されたが、ここでは労働が価格によって規定される、等々、等々。(419ページ下段)

個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが、それらの一般的法則の措定である。(同前)

そして、最後に信用、株式資本まで展開。

諸資本の個別資本としての相互間の作用は、こうしてまさに、諸資本の一般的資本としての措定となり、また個別的諸資本の外見的独立性と自律的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは、信用においてである。そしてこの止揚が行き着く、だが同時に、資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある究極の形態は、株式資本である。(同前)

【第56段落】420ページ上段?422ページ下段

流通時間が資本にとっての制限であるということを、いろいろと展開している。

「資本の生産性……は、流通時間に逆比例する」。「流通時間」は、資本の「価値増加にとっての制限として現われる」。「流通時間は……資本の自己再生産を困難にする条件」(420ページ)。「資本が見いだす、自己増殖にとっての――すなわち生きた労働の取得にとっての――障害」(420ページ?421ページ)。

「資本の必然的傾向は、流通時間のない流通であり、そしてこの傾向は、信用と資本の諸々の信用の仕組みとの基礎規定である。」(421ページ下段)

ここから信用についてさらに展開。

「信用は、資本が、自己を個別諸資本から区別して措定しようと、すなわち、自己の量的制限された区別された資本としての個別的資本を措定しようと努めるときに資本がとる形態である」(同前)。

その結果は、「一方では架空資本」であり、他方では資本の「集中」、すなわち「集中していく個別的諸資本のかたちでの諸資本の絶滅の新しい要素」(同前)

信用は、「貨幣をたんに形態契機としてのみ措定しようとする」。その結果、貨幣は「価値であることなしに、形態転換を媒介するようになる」。「これは流通時間のない流通の一つの形態」。「信用のかたちで流通の新たな所産物」。

他方で、流通時間そのものに「価値を与えようとする企て」、「流通時間のすべてを貨幣として、……資本として措定しようとする企て」(422ページ上段)。「流通時間を短縮するための機械装置」って何?

【第57段落】423ページ上段?424ページ上段

「労働時間と流通時間との対立」。「通貨」(これはcurrencyのことだと思う)の問題が入ってくるかぎりで、「信用論をそっくり含んでいる」。

「可能な生産時間からの控除としての流通時間」(これがマルクスの言う本来の流通費)以外の「流通の現実の費用」について。それはすべて「流通時間を短縮させるために、資本が自分で片づける費用」。イコール「すでに創造されている剰余価値からの控除」(423ページ下段)

実際には、生産時間が流通時間によって中断されることはない。それは、「どの資本も諸部分に分かれていて、一つの部分は生産局面にあり、他の部分は流通局面にあるからでしかない」。(423ページ下段)

そのときに、信用によって、「ある資本」(生産局面にある部分)が「倍加するといったかたちで事態が展開する」場合がある。そうすると、資本の一部が流通局面にあって、したがって剰余価値を生まない、ということが見かけ上はなくなる訳で、したがって、「その場合には、この資本……にとっては、流通時間がまったく存在しなかったのと同じこと」になる。(これは、あるいは、信用によって「流通過程の短縮」がおこなわれ、流通局面にある資本部分がすぐに回収・実現される、ということかも知れない)

「信用亡者」は「むしろ債務者である」(424ページ上段)

【第58段落】424ページ上段?同下段

先程の、資本の一部が生産過程に、一部が流通過程に分かれるという話をくり返している。

【第59段落】424ページ下段?425ページ上段

ここで話が、流動資本に戻ってくる。

「さらに、〔資本の〕それぞれの部分が、他の部分と比べて固定的または流動的とみなされることができる」。「それらはかわるがわる現実に相互的にこうした関連にある」云々。(424ページ下段?425ページ上段)

「身体では骨格が固定資本であって、それは肉や血が更新されるのと同じ時間では更新されない」(425ページ上段)

これ↑は、かなり正解に近い固定資本の定義。

【第60段落】から425ページ下段?

また話が、回転時間の違いによる剰余価値の量的な変動に戻っている。

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