ヘーゲル『小論理学』 概念論を読む

いきなり『小論理学』の概念論へ。第160節?第162節

【第160節】

 概念は「向自的に存在する」、つまり自分自身の足で立っているわけであり、したがって、自分で自分を生み出していく「実体的な力」であり、「自由なもの」である。だからまた、概念は「体系的な全体」だと言っている。

【同補遺】

 形式論理学では、概念とは、「思惟の単なる形式」あるいは「一般的表象」とみなされている。たとえば、現実に存在するイヌは、いろいろな種類もあるし、大人のイヌだったり子イヌだったりするが、そうした生きたさまざまなイヌから、つくりだされたのが「イヌ」という概念。だから、「イヌ」なるものが現実に存在するわけではない。現実に存在するイヌは、雑種のポチだったり、名犬ラッシーだったり、セントバーナードのパトラッシュだったりする。そこから、概念は「生命のない、空虚な、抽象的なもの」という批判が生じるが、ヘーゲルは、これは「概念にかんする低い理解」にたいするものでしかない、といっている。

ヘーゲルにあっては、概念は、そうした「思惟の単なる形式」「一般的表象」ではなく、「あらゆる生命の原理」「絶対に具体的なもの」だという。

概念を1つの「形式」とみることはできるが、その場合、その「形式」は、あらゆる豊かな内容を自分のうちに含んでいて、その内容を自分のなかから展開していく無限の、創造的な「形式」である。

また、「直接に知覚できるもの」を「具体的」と呼ぶならば、概念は「抽象的」である。というのは、概念は、直接手でつかめるようなものではないから。しかし、概念は「生きた全体」だから、「絶対的に具体的なもの」だ、というのがヘーゲルの考え。

そのあと、ヘーゲルは、このように形式論理学の「概念」を批判しておきながら、それにもかかわらず、なぜ同じ「概念」というカテゴリーで、この「生きた全体」としての「絶対者」を表わすのか、という質問に答えている。たとえば、財産にかんする法律を財産の「概念」から導き出すというが、この「概念」がもし形式論理学の言うような「思惟の単なる形式」「一般的表象」のような内容空疎なものであったら、そうした財産の「概念」から財産にかんする法律を導き出すことはできないはずだ。しかし、そうではなく、財産の「概念」から財産にかんする法律が導き出されているということは、「概念」という言葉の一般的な使われ方には、けっして形式論理学的な意味での「概念」にとどまらない、弁証法的論理学的な「概念」という考え方が含まれている、ということだ――というのがヘーゲルのここでの反論。

【第161節】

 概念の進展は、他のものへの移行でもなければ、他のものへの反省でもない。それは発展である、とヘーゲルは言っている。

なぜ概念の進展は発展なのか。補遺で、ヘーゲルは、「発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない」といっている。発展によって、新しいものが生まれてくるように見えるが、実はそれは「潜在していたもの」が顕在化しただけであって、それまで概念に含まれていなかったようなものが突然現われるのではない、ということだ。

ここで、胚からの発展の説明。植物は胚から発展する。胚は、そのなかにすでに植物全体を含んでいる。しかし、それは肺の中に小さい根や茎や葉が存在しているという意味ではない。ただ、育った植物から胚をふり返ってみたときに、そこには「何らの新しいものをも定立せず、ただ形式上の変化を引き起こ」しただけだというのだ。

その意味で、「概念の運動」は「遊戯」だとヘーゲルは言っている。変化ではなく遊戯である。変わったように見えても、実は変わっていない。ただ形式上の変化を引き起こしただけだ。というのが、その意味。

資本主義から社会主義・共産主義の未来社会への発展。一見すると、資本主義を全面的に否定しているように見えるけれども、実は、資本主義のなかに「萌芽」、「胚」として存在したものが表に現れ出るのが、未来社会への移行である、というのだ。

これは、一面では正当なことを言っている。社会主義・共産主義というのは、社会の外から、未来の理想社会の青写真を押しつけることではない。資本主義社会のなかにある矛盾にこそ、資本主義から未来社会へ進まざるを得ない根拠がある、という意味では、まさに資本主義から社会主義・共産主義へ、というのは、まったく別のなにか他のものに移ってしまうようなものではなく、あくまで「発展」である、ということ。

しかし、他方で、資本主義から社会主義・共産主義への発展は、はたして「なんらの新しいものも定立せず、ただ形式上の変化」にすぎず、「遊戯」にすぎないのか? と言えば、やっぱりそういう理解はおかしいだろう。

つまり、1つには、現実の「発展」関係の中には、ここでヘーゲルが「概念の発展」について述べたような内容にとどまらない発展関係がある、ということ。もう1つには、ヘーゲルは、「概念の発展」として、資本主義から社会主義・共産主義への発展といった、ある意味で革命的な転換を、実は念頭に置いていなかったのではないか、という問題。ヘーゲルの保守性が、彼の弁証法に反映している訳だ。

【第162節】

 概念論の区分をあげている。まず、<1>形式的概念。これは、形式論理学でいうところの概念のこと。<2>客観性としての概念。これはヘーゲルはあれこれ理屈づけをしているけれども、具体的な中身としては、機械的関係、化学的関係、目的的関係をあげているように、形式論理学で論じるような抽象的な関係ではないが、しかし、理念としての概念的な発展関係でないような、客観的な発展関係を論じている。
 <3>理念。これは、主観=客観、概念と客観性との統一、絶対的真理としての概念のこと。ヘーゲルが「概念」という言葉で考えているのは、こういう概念のこと。

 注解では、ヘーゲルは、有論や本質論でのカテゴリーの相互関係と概念論のカテゴリーの相互関係の違いを、次のように説明している。
 すなわち、<1>それぞれの規定が移行し反省する「他のもの」が「特殊」として規定されていない。<2>それぞれの規定が反省して復帰するものが「個別」「主体」として規定されていない。<3>それぞれの規定が普遍として規定されていないから、その自由が定立されていない、云々。

 そのあとも大事なところ。概念、判断、推理の形式について、形式論理学では、それはたんなる形式であって、「或るものが真理であるかどうか」は問題ではない、と考えるが、ヘーゲルはこれを批判して、もし概念、判断、推理などがそうした「無活動な容器」であったら、それは「真理にとって余計な、なくてもよい」ことになる。実際には、そうではなくて、それらは「現実的なものの生きた精神」であり、「これら形式の力で」「形式を通じて」真理が現われる、というのだ。形式はたんなる形式ではなく、「現実的なものの生きた精神」だというのは重要な視点。

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  1. GAKUさん。今晩は。
    ヘーゲルの論理学は、現実を考える時、いろいろと示唆に富んでおりますね。古くて新しい問題を提起してくれるようでもあります。古典を読むことはほんとうに力になります。これからも何べんも読ませていただき勉強をしたく思っております。

  2. hamhamさん、初めまして。
    コメントありがとうございます。

    そうなんです。ヘーゲル論理学は、まだまだ一杯宝が眠っていると思います。

    ご声援をいただくと、僕自身もやりがいがあります。(^_^)

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