『剰余価値学説史』はどう読めばよいのか(3)

『1861-63年草稿』220ページ(MEGA II/3.2 S.335)

さて、『剰余価値学説史』の続き。大月書店『資本論草稿集』第5分冊の170ページから。

マルクスは、「今度は、スミスについて考察すべき最後の論点――生産的労働と不生産的労働の区別――に移る」と書いているが、こんなことを書きながら、{}で括りながら、「あらかじめ、前述のことについてもう1つ」といって、再生産論にかんする書き込みをしている。ここで注目されるのは、次の部分。

年々の労働の生産物がそのうちの一部分をなすにすぎないところの年々の労働生産物が、収入に分解する、というのはまちがっている。これにたいして、年々の個人的消費に入っていく生産物部分が、収入に分解する、というのは正しい。(170ページ下段)

後半の「年々の個人的消費に入っていく生産物部分が、収入に分解する」というのは、再生産表式を使って説明すると、こういうこと。

Iが生産手段生産部門、IIが消費手段生産部門。

Ic + Iv + Im = WI
IIc + IIv + IIm = WII

このとき、「年々の個人的消費に入っていく生産物部分」というのは WII(= IIc + IIv + IIm)のこと。それにたいして、収入に分解する部分というのは、(Iv + Im) + (IIv + IIm)のこと。単純再生産では、この2つの部分は一致する。したがって、

IIc + IIv + IIm = (Iv + Im) + (IIv + IIm)

ここから、左右両辺に共通するものを削除すると、

IIc = Iv + Im

となる。これは、単純再生産が成立する場合の部門間均衡の条件そのもの。つまり、この部分で、マルクスは、事実上、単純再生産の均衡条件を探り当てているということになる。

その次の{}による書き込み(171ページ)は、『資本論』でいえば、貨幣の価値尺度機能と、貨幣の度量基準としての役割との混同。

以上2つの書き込みを挟んで、A・スミスの生産的労働と不生産的労働の話に移る。

生産的労働と不生産的労働の問題は、『剰余価値学説史』での議論につきあう前に、まず、『資本論』でのマルクスの結論的命題を確認しておくことが大事。マルクスは、『資本論』で次のように言っている。

まず、第5章「労働過程と価値増殖過程」の第1節「労働過程」次のように述べている。これは、「単純な労働過程」における「生産的労働」概念。

 全課程を、その結果の、すなわち生産物の立場から考察するならば、労働手段と労働対象の両者は生産手段として、労働そのものは生産的労働(7)として現われる。
 原注(7) 生産的労働のこの規定は、単純な労働過程の立場から生じるのであって、資本主義的生産過程にとっては決して十分ではない。(『資本論』新日本新書版、第2分冊、309〜310ページ)

次は、第14章「絶対的および相対的剰余価値」の冒頭部分。ここでは、2つのことが言われている。

(1) 労働過程が純粋に個人的な労働過程である限りは、のちには分離されるすべての機能を同じ労働者が1つに結合している。彼は、自分の生活目的のために自然対象を個人的に取得するにあたって、自分自身を管理している。のちには、彼が管理される。個々の人間は、彼自身の頭脳の管理のもとで彼自身の筋肉を動かすことなしには、自然に働きかけることはできない。自然体系〔生来の人体〕では頭と手が一組になっているように、労働過程では、頭の労働と手の労働とが結合されている。のちには、この2つは分離して、敵対的に対立するようになる。生産物は、一般に、個人的生産者の直接的生産物から1つの社会的生産物に、1つの全体労働者、すなわち1つの結合された労働人員――その成員は労働対象の処理に直接または間接にかかわっている――の共同生産物に、転化する。そのため労働過程そのものの協業的性格とともに、生産的労働の概念や、その担い手である生産的労働者の概念も、必然的に拡大される。生産的に労働するためには、みずから手をくだすことはもはや必要でない。全体労働者の器官となって、そのなんらかの部分機能を果たせば十分である。生産的労働にかんする前述の本源的な規定は、物質的生産そのものの性質から導き出されたものであり、総体として見た場合の全体労働者にとっては依然として真実である。しかし、その規定は、個々に取り上げられたその各成員にとっては、もはやあてはまらない。
(2) しかし他面、生産的労働の概念がせばめられる。資本主義的生産は商品の生産であるだけでなく、本質的には剰余価値の生産である。労働者は自分のためにではなく、資本のために生産する。それゆえ、彼が一般に生産を行なうということだけでは、もはや十分でない。彼は剰余価値を生産しなければならない。資本家のために剰余価値を生産する、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけが、生産的である。物質的生産の部面外から一例をあげてもよいのであれば、学校教師は、児童の頭脳を加工するだけでなく、企業家を富ませるための労働にみずから苦役する場合に、生産的労働者である。企業家がその資本を、ソーセージ工場の代わりに、教育工場に投下したということは、その関係を少しも変えない。それゆえ、生産的労働者の概念は、決して単に活動と有用効果との、労働者と労働生産物との、関係を含むだけでなく、労働者を資本の直接的増殖手段とする、特殊に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも含んでいる。それゆえ、生産的労働者であるということは、幸福ではなく、むしろ不運である。(同前、第3分冊、871〜872ページ)

(1)では、生産過程が、個人的なものから社会的な生産過程に発展した場合。労働そのものが個人的労働から、結合された労働者の労働にかわるのに応じて、「生産的労働」の概念が拡大されるというのだ。つまり、直接、手を下して生産をおこなうことは必要ではなくなり、共同しておこなわれる生産活動の部分機能を担っていれば、それは生産的労働の概念に含まれる。端的に言えば、生産管理のための事務労働なんていうのも、生産的労働だということ。

(2)では、逆に、資本主義的生産においては、生産的労働の概念が狭まると言われている。それは、資本主義の立場からすれば、剰余価値を生産する労働だけが生産的労働だということ。学校教師も、資本家が学校を経営する場合には、資本家のために剰余価値を生産しているのだから、生産的労働に含まれるというわけだ。

『資本論』では、以上のように結論的な部分だけが書かれているが、『剰余価値学説史』では、スミスの議論につきあって、実にいろいろさまざまなことが書かれているので、上の結論的命題に沿って、より豊かに考えることができる。

資本主義的生産の意味での生産的労働とは、賃労働のことであって、これは、資本の可変的部分(賃金に投下される資本部分)と交換されて、資本のこの部分(またはそれ自身の労働能力の価値)を再生産するだけではなく、その上に資本家のための剰余価値をも生産する。……資本を生産する賃労働だけが生産的である。(171ページ下段)

マルクスは、「生産的労働のこうした理解は、剰余価値の厳選したがって資本の本質にかんするA・スミスの理論から当然に出てくる」と評価している。(172ページ下段)

他方で、スミスは、「第二の誤った見解」もある。

生産的労働についての正しい概念。

この生産的労働者のなかには、当然、なんらかの仕方で商品の生産に協力する本来の手工労働者から支配人や技師(資本家とは区別されるものとしての)にいたるまでの、すべての労働者が属する。したがって、工場にかんする最近のイギリスの官庁報告書もやはり、工場主だけを除き、工場と付属事務所で使われているすべての人を「はっきりと」就業賃労働者の部類に数え上げている。(177ページ上段)

スミスは、生産的労働を正しく確定したのだから、「なにが不生産的労働であるかも絶対的に確定されている」。すなわち

それは、資本とではなく、直接に収入と、つまり、賃金または利潤と……交換される労働である。(同前)

で、いろいろな例をあげて、生産的労働・不生産的労働の説明。

たとえば俳優は、道化師であっても、もし彼が資本家(企業家)に雇われて働き、賃金の形態でその資本家から受け取るよりも多くの労働を返すならば、生産的労働者であるが、他方、資本家の家にやってきて彼のズボンをつくろい、彼のために単なる使用価値をつくる修理専門の裁縫師は、不生産的労働者なのである。(同前、下段)

いわゆるサーヴィス労働について。

(資本主義的生産が支配的になっていることを)前提すれば、……収入は、資本のみが生産し販売する諸商品と交換されるか、さもなければ、そうした諸商品と同様に消費されるために買われる諸労働――つまり、……買い手や消費者に与えるサーヴィスのゆえに買われる諸労働――と交換されるかの、どちらかでなければならない。こうしたサーヴィスの生産者にとっては、このサーヴィスの提供が商品なのである。(180ページ下段)

労働の、したがって労働生産物の、素材的規定性は、生産的労働と不生産的労働とのあいだのこうした区別とは絶対に何の関係もない。(181ページ上段)

こう述べてマルクスは、ホテルで働く料理人や給仕の例をあげる。

たとえば、一般のホテルの料理人や給仕は、彼らの労働がホテル所有者のための資本に転化されるかぎりでは、生産的労働である。(181ページ上段)

資本が生産全体を征服し、したがって、家内的で小さな、すなわち自己消費のための非商品を生産する産業形態が消滅するのと同じ度合いで、サーヴィスを直接に収入と交換する不生産的労働者の大部分は、個人的サーヴィスだけをおこなうようになり、ごくわずかな部分(たとえば料理人、裁縫女、つくろい裁縫師など)だけが物的な使用価値を生産するようになる。(182ページ上段)

このことは、A・スミスが言っているように、こうした不生産的労働者のサーヴィスの価値が、生産的労働者のそれと同じ(または類似の)仕方で規定され、また規定されうる、ということを妨げない。すなわち、これらの労働者の維持または生産に費やされる生産費によって。(182ページ下段)

 生産的労働者の労働能力は、彼自身にとっての1つの商品である。不生産的労働者のそれもそうである。しかし、生産的労働者は、彼の労働能力の買い手のために商品を生産する。不生産的労働者は、買い手のために、単なる使用価値を生産するのであって、商品を生産せずに、想像的または現実的使用価値を生産するだけである。不生産的労働者は、彼の買い手のために少しも商品を生産しないのに、しかも買い手から商品を受け取るということが、彼にとっては特徴的である。(同前)

はっきりしていることは、資本が生産全体を征服するのと同じ度合いで、……ますます、生産的労働者と不生産的労働者とのあいだの素材的相違も現われるであろうということである。なぜならば、前者は、わずかな例外を除けば、もっぱら商品を生産するだろうが、他方、後者は、わずかな例外はあっても、個人的なサーヴィスだけを行なうだろうからである。(184ページ上段)

以上がサーヴィス労働にかんする指摘。マルクスの段階では、たとえば介護労働のように、社会化されたサーヴィス労働というものは、ほとんど想定されていない。マルクスは、資本主義が発展すれば発展するほど、サーヴィス労働はますます個人的なものになっていくと考えていた。

次は、ふたたび生産的労働の概念。

第一に、A・スミスは、当然、売ることができ交換することができる商品に固定され実現される労働のなかに、物質的生産において直接に消費されるすべての知的労働者を含めている。直接的な手工労働者または機械工だけではなく、監督、技師、支配人、事務員など、要するに、一定の物質的生産部面において一定の商品を生産するために必要な全人員の労働、つまりその労働の協力(協業)が商品の生産に必要な全人員の労働を含めている。実際、彼らは、不変資本にその総労働をつけ加え、この額だけ生産物の価値を高めるのである。(同前、189ページ)

ふたたびサーヴィス労働について。

 したがって、一方では、いわゆる不生産的労働の一部が、同じような商品(売ることのできる商品)でありうる物質的使用価値に物体化されることがあるとすれば、他方では、すこしも客観的姿態をとらない――物としてサーヴィス提供者から分離された存在をもつことなく、また価値成分として商品に入っていくこともない――一部の単なるサーヴィスが、資本をもって(労働の直接の買い手によって)買われ、それ自身の賃金を補填し利潤を生ずることがありうるのである。(192ページ下段)

 資本の支配が発展し、事実上、物質的富の創造に直接に関係のない生産部面もまたますます資本に従属するようになるのに応じて――とくに実証科学(自然科学)が物質的生産の手段として役立ちうるようになるのに応じて――、云々。(206ページ下段)

生産的労働と不生産的労働の話はなかなかつきないが、マルクスは、215ページで、「ここで、われわれは、生産的労働と不生産的労働にかんするA・スミスの節に反対しているおしゃべりを簡単に検討しておこう」と書いて、スミスの反対論者たちの検討に移ると宣言するのだが、その前に、J・S・ミルにかんする長い書き込みが出てくる。これは、大月版草稿集で、215ページから280ページあたりまで続く。そこには、リカードウも登場する。

この書き込みの後、281ページで、マルクスは、「われわれは、いまや生産的労働と不生産的労働とに立ち返る」と書いて、ふたたび生産的労働・不生産的労働の問題に立ち返っているが、その議論は、287ページ上段で、また再生産論へと移っている。この再生産論は、304ページ上段「この件はこれだけ」と書かれたところで締めくくられる。そして、マルクスの議論は、ふたたびガルニエに戻る。

そして、305ページあたりから、また生産的労働・不生産的労働の問題が論じられる。その話は、308p上段まで。

で、308ページ下段から、今度はガルニを取り上げて、資本主義における「富」や価値・使用価値の大きさの問題を論じ始める。

ガニルが正当であるのは、リカードウらを、彼らの体系が交換価値を基礎としているにもかかわらず、「彼らは交換なしの労働を考察している」と批判する場合。(310ページ)

スミス(321ページ)、ペティ(322ページ)の書き込みを挟みつつ、ガニルが続く。323ページ下段あたりからは、生産力が変動した場合の剰余価値の大きさ・率の変化を問題にしている。

「ところで解雇された5人の労働者はどうなるか?」(327ページ下段)――これは、相対的過剰人口の始まりか?

さらにいろいろな書き込みを挟みつつ、333ページでもガルニが続く。

まだ、生産的労働と不生産的労働をめぐる議論は続くが、今日はこのあたりまで。疲れました…。

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