エンゲルスの「資本主義の根本矛盾」の定式化をめぐって

先日の古典教室では、エンゲルスが『空想から科学へ』のなかで定式化した「資本主義の根本矛盾」について、講師からかなり立ち入った問題点の指摘がありました。

講師が「私が疑問に思うのは」として指摘したのは、以下の4つの点。

  1. 社会的生産と私的取得との矛盾というエンゲルスの定式には、肝心の剰余価値の搾取が出てこない。
  2. プロレタリアートとブルジョアジーの対立が、根本矛盾の「現象形態」とされているが、しかし、これは資本主義の階級対立そのものであって、何か別の矛盾の「現象形態」だったりするのか?
  3. 生産の無政府性は、商品生産の特徴であり、資本主義以前から商品生産社会では起きていたこと。それが資本主義になるとより大規模に起こる、というだけでは、資本主義の矛盾を説明したことにならない。
  4. このあと、資本主義の枠内ではあれ生産の社会的性格の商品をせまられるとして、株式会社、トラスト、国有化があげられているが、エンゲルスは、これらをもっぱら生産の無政府性を解決するための資本の発展と見ている。それで20世紀から21世紀の資本主義をとらえることができるか?

私が、講義を聞いていて、とくに「なるほど」と思ったのは、この第4の点です。

講師がこの問題を初めて提起したのは、『科学的社会主義を学ぶ』(新日本出版社、2001年刊)のもとになった講義で。その後、『古典への招待』(2008〜2009年、新日本出版社)でもかなり詳しく論じられていますが、この第4の点について、ここまで立ち入って解明されたのは今回が初めてではないでしょうか。

マルクス経済学の講座ものでは、『資本論』にそって商品から初めて、第1部、第2部、第3部の中身を説明したあと、こんどはレーニン『帝国主義論』を踏まえて、独占資本主義論を展開するというのが、かつてのセオリーでした。

そのさい、独占体の形成を論じたあとで、たいてい独占と競争の関係(独占体が形成されたもとで競争はどうなるか)をめぐってひとくさり、独占的資本と独占的資本のあいだの競争、独占的資本と非独占的資本との競争などは、独占資本主義になってもなくならない、云々かんぬんの議論がありました。こうした議論は間違っていないと思うのですが、それでも、すっかり話が底を打ったという感じがしないで、なんだかもやもやぐずぐずした印象が残っていました。

しかし、この日の古典教室で、エンゲルスの定式化にたいする第4の疑問として、議論が生産の無政府性の克服・排除という角度からのものになっているという指摘を聞いて、なるほど、独占資本主義論のあの「もやもや」の原因はそこにあったか、と大いに納得した次第でした。

レーニンの『帝国主義論』が、エンゲルスの定式をベースにしていることはいうまでもありません。もちろんレーニンは、独占による政治的支配や収奪の強化を忘れていませんが、独占体の形成という点では、生産の無政府性の排除・克服というエンゲルスの議論の延長線上で展開されています。だから、独占体の形成=生産の無政府性の排除=競争の排除という議論になるわけです。しかし他方で、現実の資本主義は、独占資本主義、国家独占資本主義といわれる段階になっても、競争はなくならないどころか、資本が巨大になればなるほど競争も激しくなる。そこで、独占と競争との関係をめぐって、ああでもない、こうでもないという議論になるわけですが、そもそも議論の枠組みが生産の無政府性の克服・排除というところにある以上、「すっきり」した結論にならないのは当然だったのです。

より多くの剰余価値の搾取が資本の「推進的動機」「規定的目的」である。独占が形成された場合には、資本は独占的地位を利用して搾取や収奪を強めるし、独占が形成されない場合にはその場合で、競争を利用して搾取や収奪を強める。そういうとらえ方が大事なんだと思いました。

この日の講義では、マルクス自身が資本主義の体制矛盾をどんなふうにとらえていたかにつていも、詳しい紹介がありましたが、生産の無条件的拡大と制限された消費との矛盾――別の言い方をすると、労働力の「売り手」としての自分の労働者にはできるだけ安い賃金しか払いたくないが、「買い手」としての労働者には自分の商品をなるべくたくさん買ってもらわなければならないという矛盾。「搾取の条件」と「その成果を実現する条件」とは違うという問題――という問題は、リーマン・ショックいらいのアメリカ経済の低迷や、経済成長の止まった日本経済の現状をとらえる上でも非常に大事な視点であるということも鮮明になったのではないでしょうか。

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  1. 最近こちらのサイトを発見、特に「僕の書いたもの」を中心に読ませて貰っています。
    幅広く具体的なデータに基づいた情報に感謝しています。

    さて、不破さんの「古典教室」は、日本共産党の動画でネット視聴しています。
    「資本主義の根本矛盾」についてのエンゲルスの定式化、「社会的生産と私的所有」については長い間私も腑に落ちないままでいました。
    確かにそう言う現象は進行するのでしょうが、それがどうして「根本矛盾」として資本主義を掘り崩すことになるのか?、それが自分の頭の中で結び付かなかったんですね。

    不破さんが指摘した剰余価値(搾取率と云い換えて考えた方が、私には分かり易かったのですが)を含めた価格で、商品は市場に売りに出される。
    しかし賃金は、剰余価値を差し引いた分しか支払われず、市場の購買能力は、基本的にその範囲に制約される。
    生産過程での機械化・合理化などで搾取率は強まる一方であり、市場に出回る商品の総額と購買力の乖離が広がって行く。これを回避する道は、資本主義のシステム上、基本的に無い。

    これなら私にも「根本矛盾」として、自分なりに理解できた訳です。
    でも色々な書籍を見るに、上記前段の定式化が主流だったようで、その辺どうも消化不良を感じていた次第です。

    今回の不破さんの講義で、この消化不良がスッキリ解消し、長年の「宿便」が洗い流されたような感じがしています。

    尤も資本家階級も買い物をするし、企業の設備投資も有る。これは剰余価値の市場への還元である訳で、これがどの程度「根本矛盾」を緩和するのか?、どう考えたらいいのか?
    私の中で、依然未消化の部分は有りますけど。

  2. 雄さん、初めまして。

    資本家の購買、企業の設備投資の役割というのは、大事な問題です。実は、これを資本主義延命の中心策として考えたのがケインズです。労働者の購買力の不足を、企業の設備投資などで補えばよい、というケインズ流の考え方にもとづいて、「景気対策」と称して公共事業投資がやられてきました。

    しかし、企業の設備投資は生産力を拡大させるものなので、結局は、生産と消費の矛盾をますます大きくしてしまいます。他方、公共事業投資を拡大し続ければ、財政問題を深刻化し、財政赤字を解消するために増税すれば、労働者の購買力を削り取ってしまうことになります。

    だから、企業の設備投資や公共事業投資は、矛盾の「緩和」にある程度は役だっても、根本的な解決にはならない、というのが答えではないかと思います。

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