マルクスに世界経済を救うチャンスを!

2011年10月18日 (火) at 23:24:18 Posted in 世界経済

Give Karl Marx a Chance to Save the World Economy - bloomberg Aug 29, 2011

今日の綱領講座で、志位さんが紹介していたジョージ・マグナス氏(UBSインベスティメント・バンク上級経済顧問)の論文というのは、こちら↓。ブルームバーグというアメリカの経済誌に載った論評です。

Give Karl Marx a Chance to Save the World Economy: George Magnus – Bloomberg

で、ヘッポコ訳です。志位さんが紹介したものほど翻訳は洗練されておりませんので、そこんところはご容赦を。(^_^;)

マルクスに世界経済救済のチャンスを

ジョージ・マグナス:ブルームバーグ 2011年8月29日

 金融パニック、抗議およびその他の世界を苦しめる病気の連続をどう理解するか悪戦苦闘している政策立案者たちは、長いあいだ葬り去れていた経済学者の著作を研究するのがよいだろう。その経済学者とはカール・マルクスである。彼らが資本主義の一生に一度の危機に直面しているということに気づくのが早ければ早いほど、彼らは、そこから抜け出す道を見つけだす準備をよりうまくできるだろう。
 マルクスは、私がかつて住んでいたロンドン北部に近い共同墓地に埋葬されているが、彼の亡霊は、金融危機と実体経済の落ち込みの真最中で墓からよみがえった。この頭のよい哲学者の資本主義分析は多くの欠陥を持っているが、今日のグローバル経済は、彼が予言した諸条件に不思議なほど似てきている。
 たとえば、資本と労働との内在的対立がどのように現われるかについてのマルクスの予言について考えてみよう。『資本論』でマルクスが言っているように、企業の利潤と生産性の追求は、当然、企業に必要な労働者をますます少なくしてゆき、貧困者と失業者からなる「産業予備軍」を生み出す。「したがって、一方の極における富の蓄積は、同時に〔他方の極における〕窮乏の蓄積である」
 彼が描いたプロセスは、発達した資本主義世界のいたるところで目にすることができる。とくに、アメリカでは、企業のコスト削減と雇用回避のための努力は、アメリカの法人利益を急上昇させ、総経済産出に占める割合は過去60年間で最高水準になった。他方で、失業率は9.1%に達し、実質賃金は停滞している。
 同時に、アメリカの所得格差は、いくつかの指標によれば、1920年代以来の最高水準にある。2008年以前には、所得の不均衡は、いくつかの要因によって見えにくくされていた。たとえば、安易な信用は、貧しい家持層により豊かなライフスタイルを可能にした。いまや問題はわが身に降りかかっている。

過剰生産のパラドクス

 マルクスはまた、過剰生産と過少消費のパラドクスを指摘した。すなわち、貧困に落ち込む人々が増えれば増えるほど、ますます企業が生産する財貨やサービスをすべて消費することができなくなるだろう。1つの企業が儲けを増やすためにコストを削減するのは賢明だが、すべての企業がおこなえば、彼らは、自分たちが収益の基礎においている収入構造と有効需要を掘り崩してしまう。
 この問題もまた、今日の発達した資本主義世界で明白になっている。われわれは十分な生産能力を持っているが、中低所得層のなかには広範な金融不安と消費率の低下が存在している。結果は明らかだ。アメリカでは、新しい住宅建築と自動車販売は2006年のピークに比べてそれぞれ75%、30%落ち込んだままだ。
 マルクスは『資本論』でこういっている。「あらゆる現実の恐慌の究極の原因は、つねに大衆の貧困と制限された消費にある」。

危機に対処する

 では、どのようにしてこの危機に対処するか? マルクスの亡霊を棺の中に戻すためには、政策立案者たちは雇用を経済的課題のトップに置き、その他の非正当的な手段を検討しなければならない。危機は一時的なものではなく、緊縮財政へのイデオロギー的情熱によっては治癒されないだろう。
 ここに5つの主要な戦略要綱――残念ながら、まだその時期は来ていないが――がある。
 第1に、総需要および所得の伸びを維持しなければならない。さもなければ、われわれは、深刻な社会的結果をともなう債務のワナにはまり込むだろう。差し迫った債務危機に直面していない諸政府――そこにはアメリカ、ドイツ、イギリスが含まれる――は、雇用創出を政策のリトマス試験紙にしなければならない。アメリカでは、就業人口比率は、1980年代と同じぐらい低くなっている。不完全就業の指標はほとんどすべてのところで過去最悪を記録している。雇用主の負担する給与税を削減し、企業に雇用と投資を促す財政的インセンティブを生み出すことが、まず最初にやられるだろう。

負担を軽くする

 第2に、家計の債務の負担を軽くするために、新しい措置は、適格な家計については、住宅ローンをリストラすること、あるいは、一定の債務を将来の住宅価格の値上がりによる貸主への支払いとスワップして免除することを認めるべきだろう。
 第3に、信用システムの機能性を改良するために、十分に資本増強され十分な資本構成を持つ銀行は、とくに中小企業への新しい信用を引き受けるために、一時的に自己資本比率の軽減を認められるべきだろう。政府と中央銀行は、国内投資もしくはインフラ計画にたいして、直接的な財政支出、あるいは、間接的なファイナンスをおこなうことができるだろう。
 第4に、ユーロ圏では政府債務の負担を軽減するために、ヨーロッパの債権者たちは、現在提案されているギリシャにたいする低い利子率と支払期限の延長を拡大しなければならない。もし共同保証ユーロ債が実現されないのであれば、ドイツは、巨大化されたヨーロッパ金融安定機構を通じて不可避的損失の吸収を助けるために、銀行の緊急の資本増強を支持しなければならない。それは、少なくとも債券市場危機を解決するための必須条件だ。

防壁を築く

 第5に、デフレと停滞におちいる危険にたいする防壁を築くために、中央銀行は、債券購入プログラムの先を展望し、むしろ名目経済産出高の成長率を目標にすべきだろう。それは、一時的に適度な高さのインフレをもたらすが、インフレは、実質利子率をゼロ以下に押さえ込み、債務の負担を軽くすることを容易にするだろう。
 これらの提案がどのようにうまくいくか、あるいはそれらの予期せぬ結果がどんなものになるかは分からない。しかし、現状維持の政策もまた受け入れることはできない。それは、アメリカをより不安定な日本にするだろうし、ユーロ圏を破壊して予測不可能な政治的結果をもたらすだろう。2013年までに、西側資本主義の危機は簡単に中国に広がるかもしれないが、それはまた別の問題だ。

小さい間違いはご容赦を。大きな勘違いは、ぜひご教示ください。ヘッポコ訳の出来には何の保証もいたしません。紹介される場合は、英文から自分の責任で翻訳してください。(11/25、あまりに適当な部分を一部改訳しました。)

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9 Responses to “マルクスに世界経済を救うチャンスを!”

  1. アミダ Says:

    革命によるのであれ構造改革的に達成されるのであれ、20世紀において「社会主義経済」というものは、あり得ない空想であることが、ソ連や東欧、中国の実験で世界の人々に理解させた特筆すべき経験だったと思います。生産手段の社会化というスローガンを実践したが、市場の価格メカニズムを壊し、財の適正な配分を不可能にし、経済を破壊した。いまさら社会主義でもあるまい。藤井厳喜氏の言うように修正資本主義でいかざるを得ないのではないか。

  2. GAKU Says:

    アミダさん、初めまして。コメントありがとうございます。

    ソ連・東ヨーロッパ諸国の旧体制は、マルクスが考えていたような社会主義や共産主義ではなかったので、私は、その崩壊によって「『社会主義経済』というものは、あり得ない空想であること」が明らかになったとは思っていません。

    むしろ、マルクスとは全く無縁な、偽りの「社会主義」の看板を掲げたソ連などが崩壊したことによって、いよいよ本格的に社会主義・共産主義をめざす運動が始まる時代がやってきたと思っています。

    また、資本主義の市場メカニズムが財の適正配分を実現するとも思いません。もし資本主義が財の適正な配分を実現するのであれば、なぜ「ウォール街を占拠せよ」といった運動が広がるのでしょうか。現在のEUを中心とした金融不安は、資本の投機活動がまさに経済を破壊しつつあることを示していると思います。

    そうである以上、私は、修正資本主義でしかないないという考えには与することはできません。もし資本主義の修正が実現するとすれば、それは資本主義にはとどまっておれないという社会的な運動が、私利私欲を追求する資本の手を縛ることに成功したときだけだと思います。

    だから、私はマルクスを読み、日本と世界の生きた経済の動きを調べ、そこから未来を考えようと思っています。

  3. アミダ Says:

    角をためて牛を殺す愚は避けなければなりません。確かに、19世紀マルクスの時代には資本主義は苛酷で厳しい生活を国民に強いました。しかし、資本主義もただ私利私欲のみでいけば、マルクスの言うように崩壊することを学習し、いろいろ労働者に譲歩し、社会福祉を整えたり、アメリカではフォーディズムのシステムを導入するなど、知恵を働かせてきたと言えます。
     藤井厳喜氏の言うように、資本主義の根本問題は過剰生産と過少消費のインバランスをいかに解決するか、という問題であり、マルクスは失敗し、ケインズが成功したのでした。
     革命による社会主義経済というものは、もちろん世界的な理論研究や実践により、さまざまに解釈され、実践されてきましたが、結局誰が見てもことごとく世界的に失敗したのです。
     労働者階級の権力というものも、多数者による専制政治(その実共産党の)を生みだすに終わるだけで、政治的にも失敗し、社会主義経済制度というものも貨幣による価格メカニズムを否定してしまったことにより、消費財はもとより、生産財の適正な配分を不可能にしてしまった。
     もちろん、今の資本主義がすべてうまくいってきたしうまくいっているとは言いませんが、だからと言って社会主義経済制度に持っていくべきだと考える経済学者、国民は少ないでしょう。科学的に不可能だからです。
     不破議長も、個人の嗜好に合わせた商品の開発、消費財の多様な流行に沿った提供というものが、従来のマルクス社会主義経済論では実現できないことを認めている。市場メカニズムを否定しないと言っている。
     レーニンなんかひどいもので、小商品生産が社会に残っている限り、またそれを根絶しない限り、社会主義社会、共産主義なんて実現できない、世界のゴールドを一つのところに集めて、金のトイレをつくって資本主義の終わりの祝杯を上げようというバカげた考えを書いている。
     さすがに、市場経済を否定した革命後の社会が経済的に機能しない現実を前に、いわゆるネップを行ったのだけれど、何と共産党員に向かって、それまで根絶すべきとしていた仕事、商業、商人になれと言い始める。どんな資本主義国のビジネスマンにも負けないくらい有能な商人に共産党員はならなければならないというのです。
     どこの社会主義国でも同じような経過をたどったことはご存知でしょう。
     格差社会を解消するにも、いろいろ勘案しなければならず、答えがすべてマルクスの資本論にあると考えるのは、科学的な態度とは言えません。いろいろな立場の経済論を学び、経済危機に対処するのに、一つの大道があるとは言えずそれはマルクスではなく、ケインズ主義に基づく、オーソドックスなやり方ですが有効需要の喚起を求めていく方法がベストと言うべきではないかと思います。有効需要を賢明な文明の先見の明のある投資を行うことで引き出し、それによりまた景気は持ち直すのであって、決して崩壊してしまうことはないと思います。
     アメリカやギリシャとは違い、日本は格差社会と言っても、彼国のような極端に格差があるとは言えない。しかも財政的にも円建の国債なので、財政破綻はあり得ません。政府貨幣や日銀の国債引き受けをドンとやれば、経済的にもデフレを克服できるし容易に復興を果たせるでしょう。内外の敵はそれをさせまいとしておりますが、そうするしかないと思います。

  4. GAKU Says:

    アミダさんへ

    資本主義の「修正」を実現してきたのは、「修正資本主義者」でもなければ良識ある資本家でもありません。資本主義の搾取で苦しめられた労働者や農民などの運動です。「修正資本主義者」にできたことといえば、それを、資本家に受け入れられる範囲でまとめあげたことぐらいではないでしょうか。

    過剰生産と過少消費が資本主義にとって不可避的な根本的矛盾であることを明らかにしたのもマルクスであって、マルクスのこの解明は今日でもだれも否定できないと思います。ケインズにそれが解決できなかったことは、70年代末から「ケインズ政策の終焉」が叫ばれ、その後「新自由主義」がケインズ政策にとってかわり、今日の格差と貧困、金融危機をもたらしたことを考えれば歴然としています。ケインジアンのみなさんが「新自由主義」がもたらした格差や貧困、バブル経済や金融不安を批判していることはよく知っていますし、なるほどと思うこともたくさんあります。しかし、全部が全部賛成できるわけでもありません。

    旧ソ連の経済体制の失敗については、私もまったく同感です。ただ、旧ソ連の経済体制はマルクスが『資本論』で考えていたような社会主義・共産主義とはまったく異質のものですので、それをもってマルクスの理論の誤りが証明されたとはいえないことは、前にもお答えしたとおりです。

    「市場経済を通じて社会主義へ」という道は、もちろんマルクスが想定もしていなかったものです。レーニンも、当初は市場経済を廃絶することが共産主義への最短コースだと信じていました。しかし、レーニンはその失敗から「市場経済を通じて社会主義へ」の道を探求し、そこをすすもうとしたのですが、その直後に病に倒れ、結局、その道の本格的探求は行なわれませんでした。中国の「市場経済社会主義」は、中国の経験の中からたどり着いた方向だと思いますが、これもまだ探求は始まったばかり。それこそアミダさんがおっしゃるような「修正資本主義」の経験のない中国では、市場経済の害悪が深刻な形で露呈しており、社会主義をめざす国として、それを解決できるかどうかが大きな問題になっています。

    資本主義の「修正」にかかわっていえば、不破さんが、市場メカニズムそのものには格差や貧困を抑制するメカニズムがない、だから社会的なルールづくりが必要なのだといわれていることもご存知でしょう。それを、革命運動の課題として理論的に明らかにして提起したのがマルクスであり、『資本論』です(「工場日」など)。マルクスは、資本主義にとってかわる社会主義経済のプランを描いて、「こうすれば上手くいく」式の革命を考えていたわけではありません。

    なお、私は「答えがすべてマルクスの資本論にある」とは言っていませんし、そんなことを考えたこともありません。人が言いもしない、考えもしていないことを批判して得意になるのは、あまり「科学的な態度とはいえません」。いろいろな立場の経済学を学ぶ必要があることは私も十分わかっていますし、このブログでもケインズについて私なりに勉強したことを書いています。ぜひそれもお読みください。

    有効需要を喚起する必要があることは、私も、このブログでくり返し指摘しているところです。最大の有効需要は、国民の消費生活です。日本の大企業が溜め込んだ内部留保は、投資先も見つからず、文字通り死蔵されています。だからこそ、それを国民生活に還元する(そのやり方はいろいろあると思います)ことが、日本の景気にとって一番の良策だと思います。しかし、従来型の大型公共事業のような有効需要喚起政策は上手くいかないと思います。

    最後に、私のブログでのコメントの取り扱いについて、一言。

    このブログは、私がお金を払って、私の負担によって開設されているものです。ですので、アミダさんがマルクスやケインズについてご自身のお考えを開陳されたいのであれば、それはご自身のコストでお願いいたします。そのことは「コメントとトラックバックのルール」にも明記しておりますので、ぜひご一読ください。

  5. アミダ Says:

    自分たちが真理を独占している、自分たち以外のブルジョア経済学者御用学者の議論はすべてバカか欺瞞かごまかしにすぎない、と私自身は共産党員時代思いこんでおりましたので、あなたの議論に出くわして、確かにあなたは様々な理論を公平に検討されて議論されていると私も信じますが、議論の仕方が特徴的なので、レベルはあなたの方が高くてかないませんが、部分的に昔の自分に似ているかなと、あんまり当時の共産党と変わっていないなあと嘆息するだけです。
    社会主義経済とは一体どのようなものになりますか。むかしは、産業の国有化は世界の趨勢であり、社会主義への必然の道、と不破哲三委員長は主張しておられましたが、今は市場社会主義ですか。なんで一つの政党が真理を独占する必要があるでしょうか。肩に力が入りすぎています。
     みんなが広く学び考え、議論をし、政策をつくり、可能な方法でそれを実現し、誤りがあれば柔軟に見直す。それだけの話で、なんで一つの正統な哲学、経済学、政治学、文学論、原理に固執しなければならないと考えるのかと昔の自分を慙愧しながらそう思います。お金のために、無駄な議論はしたくないということでしょうから、この辺でお暇します。

  6. GAKU Says:

    アミダさん、論点をそらせるのはやめてください。

    あなたは最初、ソ連や東欧の「実験」で「社会主義経済」というものはあり得ない空想であることが明らかになったと主張しました。それにたいして、私は、「ソ連・東ヨーロッパ諸国の旧体制は、マルクスが考えていたような社会主義や共産主義ではなかったので、私は、その崩壊によって「『社会主義経済』というものは、あり得ない空想であること」が明らかになったとは思っていません」とお答えしました。

    あなたが、ソ連や東欧の旧体制の破綻によって社会主義というものがあり得ない空想であることが明らかになったと考えるのは自由です。それは、私が、ソ連・東欧はマルクスが考えていたような社会体制ではなかったので、それが崩壊したからといってマルクスの考えが間違っていたと言うことにはならないと考えるのが自由なのと同じです。

    いずれにせよ、私は、理由を挙げて、あなたの意見にお答えしました。

    ところが、あなたは、「角をためて牛を殺す愚は避けなければなりません」といって、私の返答にはまったく考慮せず、私の議論は間違ったものだと決めつける議論を続けてきました。それにたいして、あなたのコメントをもう済んだこととして片づけることもできましたが、私は、あなたの意見を公開して、「答えがすべてマルクスの資本論にある」などという考え方を私はしていないと指摘するとともに、マルクスは、資本主義にとってかわる社会主義経済のプランを描いて、「こうすれば上手くいく」式の革命を考えていたわけではないことや、資本主義を「修正」する社会的なルールづくりが必要だということを革命理論としてはじめて提起したのはマルクスだということもご紹介しました。

    しかし、あなたはそういうことにまったく興味も関心も示さず、こんどは、「自分たちが真理を独占している、自分たち以外のブルジョア経済学者御用学者の議論はすべてバカか欺瞞かごまかしにすぎない」とか「肩に力が入りすぎている」とか言っているのです。ずいぶんと失礼な態度だと思いませんか。

    あなたが、自分でブログを開設して、そこでこれからは修正資本主義だという意見を書いたとしましょう。そこに、誰かが「ケインズなんて、70年代にすでに破綻している」とコメントをつけたとしましょう。それにあなたが、理由を挙げて「70年代にケインズは破綻したといわれているのは、事実ではない」と答えたのに、さらに「あなたは、自分だけが正しいと思っている」「あなたは一つの考えに固執している」と言われたら、どうしますか? そんな議論に真面目につきあえるでしょうか?

    私は、現在の日本経済に有効需要の喚起が必要なことを認めました。さらに、最大の有効需要喚起は、国民の消費生活を豊かにすることであり、そのためには大企業が「死蔵」している内部留保を還元すべきこと、そのやり方はいろいろありうることも指摘しました。

    しかし、「広く学び考え、議論を紙、政策をつくり、可能な方法でそれを実現」しようというあなたは、そういう私の意見を一切無視して、引き続き「一つの正統な哲学、経済学、政治学、文学論、原理に固執しなければならないと考えるのか」などと言われるのです。あなたは、私が何を書いても、あなたの思い込んだイメージにしたがって私に非難の言葉を投げかけ続けているだけなのです。そういう議論に、どうして私が場所を提供しなければならないのでしょうか。

    あなたにはあなたの議論があるでしょう。それは、御自分の責任で公表されれば良いのです。さまざまな経験を経て、マルクスに従って考えようという結論にたどりついた人と、同じくいろいろな経験を経て、修正資本主義しかないという結論にたどり着いた人とが、ネットのコメント欄で一言ふた言意見を交わして、「そうですね、やっぱりマルクスは間違ってますね」とか「やっぱりマルクスは正しいですね」という結論に達する、なんていうことが起こりえないことは考えるまでもないことでしょう。ですから、あなたがご自分の考えを広く世間に訴えて、ともに議論をしたいのであれば、それはあなたがあなたの責任と負担でやっていただけませんか、と申し上げているのです。

    いまの不況、金融危機をどうするか、失業している人、非正規で働かされている人をどう解決して、国民が安心して暮らせる社会を実現するために、どんな政策を取るべきか、そういう問題であれば、修正資本主義の方とも、いくらでも議論して、共通の結論に達することも可能だと思います。しかし、そのことと、マルクスの理論が正しいかどうか、現代になお有効性をもつかどうかという議論とは、次元が違います。前者についてはいくらでも議論に応じることができますし、私も私なりにそのことをこのブログでも書いてきました。しかし、後者についてであれば、私は絶対に自説を譲るつもりはありません。それは、あなたが、これからは修正資本主義だというお考えを簡単に譲るつもりがないであろうのと同じです。そのことを尊重していただきたいだけです。

    なお、あらためて指摘しておきますが、アミダさんがコメントを寄せている、この記事――「マルクスに世界経済を救うチャンスを!」――は、アメリカのブルームバーグという著名な経済紙に「マルクスに世界経済を救うチャンスを!」という記事が出ているよということを紹介しているだけです。私は、そういう議論が登場するところに、いまの資本主義の混迷や、マルクス『資本論』の議論が現代にも生きているという事実が現われていると思っていますが、別に、そのことをもって、マルクス以外のブルジョア経済学はみんなバカだとか、資本論のなかには何でも答えが書いているとか主張しているわけではありません。ましてや、日本もソ連や旧東欧のような経済体制をめざすべきだなどという考えは、まったくどこにも書かれていません。それらは、すべてアミダさんが勝手に思い込んだだけのことですので、念のため。

  7. アミダ Says:

    私にはあなたのように専門的に経済学を論じる力はありません。ただ、日本共産党が主張してきたマルクス主義経済学を基礎とした経済問題をいろいろ調べもし、支部会議でも主張してきた過去を持つ者でして、まあ資本論も、剰余価値学説しか頭に入りませんでしたが、あなたのように深く理解が行き届いているわけではない盆暗にすぎないので、そんなにヒートアップなさるに及びません。
     その上で質問を二三したいと思います。素人議論ですから、不備がいろいろあることはご容赦願います。
     マルクス経済学は、今日の経済学界において少なくともアカデミックな世界では、ケインズにより克服され滅ぼされたと聞いております。あなたはそんな事実はないと仰るでしょうが。いわゆるケインズ革命、その前にも限界革命という理論的パラダイム転換がありました。それらの革命的理論の転換をあなたはどう見るのか教えてほしい。
    第二に、労働価値説について。これは市場が確固として機能している社会においては当てはまるけれど、社会主義社会では、その意味が二重の虚構が重なったものにすぎないこと。一つは、市場を想定していないマルクス主義者が過去に行った失敗がある。たとえば、毛沢東の大躍進政策で、農作業を投げ出して小規模炉で粗悪な鉄を大量に生産することに取り組んだ結果、使い物にならない鉄が無意味に生産されたばかりか、そのために農作業ができず、何千万人の餓死者を出した失敗。このような過程で生産された鉄の価値は労働価値説ではどのように説明できるのかということ。いくら社会的労働で商品の価値を測ると言っても、やはりそれは市場という前提があっての議論でしかないと私は思います。二つに、社会主義社会ではもはや賃労働は克服され、資本の増殖のための労働ではなく、生きがいや楽しみのために労働し、生産力の桎梏を取り除くことによって、無限に増大する生産物により、もはや労働者は、必要な量を好きなだけ消費できるという空想物語は今日、現実世界はもとより学説的にもあり得ない。労働価値説によって、労働の意味するところが科学的に果たして捉えられたとし、それは今日でも有効であると言えるのだろうか。続きは、仕事から帰ってまた書き込みます。
     

  8. GAKU Says:

    私は、あなたが、私の書いたことを読みもせず、私が言ってもいないことを言っているかのように決めつけて、一方的に非難を投げつけていることを批判しているのです。質問を続けるのであれば、まず、その非礼をわびることぐらいしてもよいのではないですか。その段になって、「私は勉強してないから」などというのはますます身勝手な話で、相手がまじめに答えているのに「私は勉強してない」といって、相手が何を言っても同じ議論をくり返すのは、子どもが駄々をこねて泣き叫んでいるのと同じようなものです。

    それについて、あなたがどう考えているのか、まずお答えください。そのことを最初に指摘しておきます。

    その上で、ご質問にお答えしましょう。

    1、近代経済学や国民経済統計については、今日の経済を理解・分析するツールとして利用することができると思っています。だから、ケインズ理論についても勉強しなければいけないと私は思って、少しずつですが勉強をしています。ただし、その基礎にある経済理論については、マルクスの理論にたって批判的に検討しなければなりません。ケインズの投資関数という考え方についても、置塩信雄先生が、その階級的な含意を明らかにされ、私はそれは正しいと思っています。そのことを踏まえれば、ケインズの投資関数というものを、マルクス経済学的に活用することは可能だと思います。
     マルクス経済学がアカデミックな世界ではケインズ理論によって滅ぼされたというような話は、私は聞いたことがありません。「新自由主義」理論が登場したからと言って、ケインズ理論が滅ぼされたということもありません。一般的に言っても、社会科学の理論というのは、何か新しい理論(あるいは新しい理論を標榜するもの)が登場したからといって、古いものが滅び去るといったものではないと思います。もちろん、「マルクス経済学はもう古い」という人はたくさんいます。しかし、これまで何度も「マルクス経済学はもう古い」ということが言われたのに、またもやアメリカの代表的経済紙に「マルクスに世界経済を救うチャンスを!」という論文が出るというのは、結局、マルクス経済学が少しも古くなっていないことを示しているのではないでしょうか。

    2、そもそも労働価値説は資本主義経済において成り立つものです。マルクスは、社会主義・共産主義の未来社会においても、社会全体で支出できる労働量を、社会のさまざまな需要に応じて配分することは必要だと考えましたが、それは価値という形態をとることはありません。つまり、社会的な労働が適切に各産業分野や個々の生産物に適切に支出されているかどうかを、商品の価値という形で表わすのは資本主義経済においてのみです。
     ただし、マルクスの想定とは違って、こんにちでは、資本主義社会から社会主義・共産主義社会にすすむという場合には、長期にわたって市場が存続し、市場のなかで社会主義部門が資本主義部門と競争してその優位性を発揮する形で、国民の支持をえて一歩一歩社会主義へむかっていくことになるだろうと考えています。その場合、長期にわたって市場が残り、したがって価値法則も存続することになるでしょう。しかし、それは長期にわたるとはいえ、あくまで「過渡期」の問題ですので、具体的にそれがどういう形をとってすすむのかという問題は、実際にどんな形で社会主義へむかう過渡的段階に足を踏み出すかという問題にかかっています。
     レーニンは、ロシア革命直後に、内戦の必要上、国家による直接的な配給による生産物の分配へ踏み出しました。いわゆる「戦時共産主義」です。レーニンは、一時、これを共産主義に直接移行する道筋だと考えましたが、内戦の終了後、農民との矛盾の深まりなど、現実に迫られ、これでは経済建設はうまくゆかないと考え、いわゆる「ネップ」に方向転換しました。
     「ネップ」は、従来はやむを得ざる「一歩後退」のように受けとめられていましたが、決して一時的な「後退」などではなく、上述したように、資本主義社会から社会主義へ市場経済を通じてすすんでいくのは合理的なものだと考えられます(中国の「社会主義市場経済」やベトナムの「ドイモイ」も、それが上手くいっているかどうかは別にして、市場経済を通じて社会主義へすすむという道筋が合理的かつ普遍的なものであることを示していると思います)。
     このような理論的な発展は、マルクス後の歴史的な経験から導かれたもので、マルクスの著作の中には、「市場経済を通じて社会主義へ」という考え方は存在しません。マルクスは、出来上がった社会主義・共産主義の未来社会では市場は存在しないだろうと考えましたが、資本主義から社会主義へ具体的にどのような道筋をすすむべきかということは、将来の、長期にわたる実践の問題として、こうやれば上手くいくといった図式づくりはしませんでした。

    3、中国の「大躍進」について、毛沢東が労働価値説にもとづいて実践したことだとは思えません。マルクス自身は、どんな社会でも社会的な需要に応じた適切な労働の配分が必要だと考えていたわけですから、生産力の水準や農作業の必要を無視して、小規模炉で粗悪な鉄を大量生産すれば、経済的に失敗するのは当然でしょう。社会的必要を満たさない粗悪品は、いくらこしらえても価値などないことは言うまでもありません。
     問題は、社会主義にむかう道に踏み出したときに、どのようにして社会的必要をはかり、それに応じて資源と労働を配分し、需要に応じた生産を合理的に組織することができるか、ということです。この点では、市場にかわる手段がいまあるわけではありません。だから、さしあたりは市場を通じた道をすすむしかないと思います。同じ市場経済のなかでも、資本主義的企業と社会主義的企業とでは、当然、生産活動の行動原理が違うはずです。社会主義的企業が社会主義らしさを発揮しながら、市場の中で資本主義的企業と競争して、一歩一歩その経済的地歩を固めていく。そのなかで、商品の価値・価格に代わる手段として何があるのかも明らかになってゆくのではないでしょうか。いずれにせよ、それがどんな形でつくられていくかは未来の実践にかかっています。

    4、ソ連・東ヨーロッパの旧体制については、私は、マルクスが考えたような社会主義社会でもなければ、それをめざした「過渡期」の社会でもなかったと思っています。ですから、ソ連などの体制崩壊によって、マルクスが考えた未来社会の展望は「空想物語」で、「現実世界はもとより学説的にもありえない」ことが明らかになったとは考えません。これは、最初から何度も私が書いていることです。あなたが、それに同意される必要はありませんが、私がそう考えているということはご理解ください。ですから、同じことを何度質問されても、私の答えは同じです。

    5、なお、労働価値説というのは、労働一般の意味するところを明らかにするというようなものではありません。もちろんマルクスの考え方の根本には、人類の社会生活を支えるのは経済であり、物質的生産だ、だからいくら王侯貴族や大ブルジョアジー、政治家たちが世界を動かしているように見えても、根本で歴史をつくりだしているのは直接的生産に携わる労働者だという考えがあります。しかしこれは、史的唯物論とか唯物史観といわれるもので、労働価値説ではありません。
     労働価値説というのは、あくまで資本主義社会で、労働生産物が商品という形をとり、社会的必要労働が商品の価値という形で計られるというものです。ほとんどすべての労働生産物が商品の形をとるというのは、人類史的にみれば、ごく最近の出来事です。資本主義以前の社会では、労働生産物は商品の形をとらず、したがって社会的労働が商品の価値という形もとりませんでした。なぜ資本主義経済においては、そうではなく、労働生産物が商品の形をとり、社会的労働が商品の価値という形で計られるのか、そのことを明らかにしたのがマルクスの労働価値説です。くれぐれも誤解なきように。
     で、今日でも有効なのかとのご質問ですが、今日でも、労働生産物は商品の形をとり、社会的労働が商品の価値の形をとって計られている以上、労働価値説は有効であり、労働価値説にもとづかなければ資本主義経済の根本的な解明はできないと思います。

  9. 小俣和夫 Says:

    翻訳ありがとうございます。ツイッターで引用させてもらいました。kazu0912

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