生産手段の共有にもとづく個人的所有の再建とは

マルクスが考えた「生産手段の共有にもとづく個人的所有の再建」とは何かについて呟きました。

本日のツイートは、このほかにも、余ったもやしは茹でて冷凍しておけばよいという、大変ためになることを教えていただきました。(^_^;)

  • 生産者が自由であるのは、生産者が生産手段を所有している場合に限られる。それには、個人的に所有する場合と集団的に所有する場合とがあるが、前者はもはや不可能。となれば、生産者が自由になるためには、生産手段を生産者たちが集団的に所有する場合しかない。 posted at 16:23:04
  • @marukenkyu その個人的所有とは、生産手段の所有? posted at 16:27:40
  • @marukenkyu 生産手段が共同占有され、同時に個人的所有もされるというのは、一体どういう事態を表しているのでしょうか? 同じ生産手段について共同占有と個人的所有が同時に成り立っている状態というのは、ありえないと思うだですが。 posted at 17:03:20
  • @marukenkyu それは生産手段の共同占有のことではないのでしょうか。生産手段の共同占有の上に、個人的所有が再建されるとしているのだから、再建される個人的所有と共同占有は別物だと思うのですが。まあ、これ以上は、ちゃんと御著書を読んだ上で考えたいと思います。 posted at 17:13:22
  • @marukenkyu なお、先ほど僕が個人的所有と集団的所有と言ったのは、フランス労働者党綱領前文を念頭においたものです。フランス語を確かめてはおりませんが、個人的と訳されているのはindividualだったと思います。 posted at 17:15:50
  • @marukenkyu 占有は事実としての所有を指すもにだと僕は思います。生産手段の全体労働者による共同占有自体は資本主義のもとで成立しているとも思います。しかし、このパラグラフでマルクスが共同占有に基づく個人的所有といっているのは社会主義・共産主義の段階でのことでしょう。 posted at 17:22:58
  • @marukenkyu そうすると、社会主義・共産主義になったあとで、ただ共同占有しか実現してない段階と、アソシエートされた諸個人による個人的所有の段階とがあるという理解になるのでしょうか? posted at 17:54:16
  • @marukenkyu 確かに「資本主義時代の成果」とは書かれていますが、否定の否定のあとの話なので、僕は、ここでいう共同占有が資本主義のもとでの共同占有だという解釈は違うのではないかと思います。 posted at 18:26:21
  • いずれにしてもフランス労働党綱領前文では、マルクスは、生産手段の所有形態を個人的所有と集団的所有に2分して、生産者個人が個人的に生産手段を所有するケースと、生産者の集団が集団的に生産手段を所有するケースを上げ、個人的所有が不可能である以上、生産手段の集団的所有しかないと言っている posted at 18:32:33
  • @marukenkyu 私は、再建される個人的所有とは消費手段にたいする個人的所有だと思います。生産手段の個人的所有にもとづく消費手段の個人的所有→資本家による生産手段の資本主義的私的所有(と生産者の消費手段の所有の否定)→生産手段の共有にもとづく消費手段の個人所有の再建 posted at 18:34:58
  • @marukenkyu まあ、見解は平行線ということで。大谷先生の本は買ったものの積ん読のまま。(^_^;) 以前、アソシエーションの論文を書かれたものは入手して読んだのですが。ぼちぼち勉強します。 posted at 18:40:45
  • 生産手段の集団的所有という場合に、名目的な所有が集団(生産協同組合や国・自治体など)になればそれでいいということでないことは、もちろん言うまでもない。 posted at 18:52:44
  • 生産手段にたいして、全体労働者が「自分のもの」としてかかわることができなければならない。したがって、その生産手段を使って何を、どの程度、どのように生産するか、余剰部分はどう配分するか、等々を自分たちで決定することができなければ、生産手段を集団的に所有しているとはいえない。 posted at 18:55:01
  • ここで全体労働者というとき、それは直接には生産単位、個々の生産体でアソシエートした労働者集団のことであるが、他方では、社会全体での生産の意思決定ということも考えなければならない。この両者は、直接的には一致せず、利害が対立する場合もありうる。 posted at 18:58:04
  • そこで、社会全体での意思決定をどう分節化するか、ということを考えたのが、置塩先生の問題提起。だから、僕は置塩先生の問題提起は、生産手段の集団的所有とはそもそもどういうことかという根本的な問題提起だったと思う。それをすでに80年代に行っていたことに断然敬意を払わなければならない。 posted at 19:00:17
  • 否定の否定のところは、僕は、マルクスの基本的な問題関心は、消費手段に対する生産者の所有が、生産手段の所有が変わることによって、どう変わるのかということを論じたものだと思う。資本主義になることによって生産手段に対する所有関係がどう変わるかは、すでにさんざん論じてきたのだから。 posted at 19:14:43

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