「です・ます調」資本論(続き)

2012年12月1日 (土) at 19:24:26 Posted in 経済学

すっかり忘れかかっていた「です・ます調」資本論。とりあえず、続きです。^^;

  • 第2節 商品の中に表わされた労働の二面性 posted at 08:35:10
  • そもそも商品は、私たちの前に、二重のものとして、使用価値と交換価値として姿を現わしました。 posted at 08:46:53
  • その後には、価値に表わされた労働が、使用価値の産みの母としての労働に与えられた特徴とは、もはや同じ特徴を持たないことが明らかになりました。 posted at 21:20:03
  • 商品に含まれた労働の二重性は、私によって初めて批判的に指摘されたことです。この点は、経済学の理解をめぐる中心点なので、ここでもっと詳しく検討しておかなければなりません。 posted at 21:29:56
  • 2つの商品を取り上げてみましょう。例えば、1着の上着と10エレの亜麻布です。前者は後者の2倍の価値を持っています。そうすると、10エレの上着=Wの場合、上着=2Wです。 posted at 21:38:01
  • 上着は1つの使用価値であり、それは1つの特殊な欲求を満足させます。それを作るためには、ある種の決まった生産活動が必要です。その生産活動は、目的や操作方法、対象、手段、結果によって規定されています。 posted at 22:20:11
  • 労働の有用性がその生産物の中に表わされている、あるいはその生産物が使用価値であるという点に表わされている、そういう労働を簡単に有用労働と呼びます。 posted at 22:25:31
  • この視点のもとでは、労働は常にその有用性との関係において取り上げられます。 posted at 22:28:18
  • 上着と亜麻布のように使用価値が質的に違う場合は、その存在を媒介する労働も、仕立て労働と機織り労働というように質的に違っています。 posted at 08:44:57
  • もしそれらの物が質的に違わなければ、つまり質的に違った有用労働の生産物でなければ、それらはおよそ商品として交換されることはなかったでしょう。 posted at 08:45:16
  • 上着は上着と交換せれません。同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはないのです。 posted at 08:46:46
  • 様々な種類の使用価値もしくは商品体の全体の中には、同じように多種多彩な、属、種、科、亜種、変種に従って区別される有用労働の全体が現われています。 posted at 08:54:24
  • すなわち、1つの社会的分業です。 posted at 08:55:30
  • 社会的分業は商品生産が存在するための条件です。しかしあべこべに、商品生産が社会的分業が存在するための条件であるというわけではありません。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されていましたが、生産物が商品になることはありませんでした。 posted at 18:33:51
  • あるいはもっと身近な例をあげれば、どの工場でも体系的に分業がおこなわれています。しかし、この分業は、労働者たちがその個人的生産物を交換することによって媒介されているわけではありません。 posted at 18:43:27
  • 自立した、互いに独立の私的労働の生産物だけが、互いに商品として向き合うのです。 posted at 18:47:37
  • つまり、どんな商品の使用価値にも、ある決まった目的に合った生産活動ないしは有用労働が詰まっているのです。使用価値は、質的に違った有用労働がその中に詰まっていなければ、互いに商品として向き合うことはできません。 posted at 18:56:58
  • その生産物が一般的に商品形態をとる社会、すなわち商品生産者の社会では、様々な有用労働は自立した生産者の私的ビジネスとして互いに独立して営まれます。そして、この有用労働の質的な区別は、社会的分業という多様に分かれたシステムへと発展します。 posted at 19:30:29
  • 上着からみれば、裁縫屋によって着られるか、裁縫屋の客によって着られるかは、どちらでもいい問題です。どちらの場合でも上着は使用価値として役立ちます。 posted at 19:40:13
  • 同じように、上着とそれを生産する労働との関係も、それ自体としては、裁縫が特別な専門職に、社会的分業の自立した一部門になっているかどうかによっては変わりません。 posted at 19:45:28
  • 服の必要がそれを強制したところでは、人類は、人が裁縫屋になる何千年も前から、服を仕立ててきました。 posted at 19:55:37
  • しかし、上着や亜麻布は天然に存在する素材的富の要素ではなく、その存在はどれも、特殊な自然素材を特殊な人間欲求に適合させる、特殊な合目的的生産活動によってつねに媒介されていなければならなりません。 posted at 20:12:19
  • だから、労働は、使用価値を形づくるもの、有用労働としてみれば、あらゆる社会形態から独立した、人間の生存条件であり、人間と自然との物質代謝を媒介するための、ということは人間の生活を媒介するための永遠の自然の必然なのです。 posted at 21:38:15
  • 使用価値である上着、亜麻布等々は、つまり一言でいえば商品体は、自然素材と労働という2つの要素の化合物です。上着、亜麻布等々の中に含まれている、様々な有用労働をすべて抜き去ると、そこにはいつも、人間とは無関係に天然に存在する物質的基体が残ります。 posted at 21:51:25
  • 人間が生産の中でやれることは、自然自身がやっているのと同じやり方をとることだけです。つまり、素材の形態を変えることだけです。それだけではありません。素材を造形するこの労働そのもののにおいて、人間は、いつも自然力によってサポートされています。 posted at 01:07:10
  • ですから、労働は、それによって生産された使用価値、素材的富の唯一の源泉ではありません。ウィリアム・ペティが言ったように、労働は素材的富の父であり、大地はその母なのです。 posted at 01:14:08
  • 私たちの仮定では、上着は亜麻布の二倍の価値をもっていました。しかしこれは量的な区別でしかなく、それはさしあたりまだ私たちの関心ではありません。 posted at 01:53:08
  • そこで思い出すのは、1着の上着の価値が10エレの亜麻布の2倍の大きさを持っているのであれば、20エレの亜麻布は1着の上着と同じ大きさの価値を持っているということです。 posted at 18:53:38
  • 価値としては、上着と亜麻布とは、同じ実体を持った物、同種の労働の客体的な表現です。しかし裁縫と機織りとは質的に異なった労働です。 posted at 19:02:27
  • とはいっても、ある社会状態では、同じ人間が代わる代わる裁縫をしたり機織りをしたりする、だから、この二つの違った労働のやり方は同じ個人の労働の形態変化でしかなく、まだ別々の人間の特殊な固定した機能にはなっていない、ということがあります。 posted at 19:11:34
  • それは、わが仕立屋が今日仕立てる上着と、明日つくるズボンとが、同じ個人の労働の変化ということしか前提にしていないのとまったく同じです。 posted at 19:21:31
  • さらに、資本主義社会では、労働需要の流れが変わるたびに、人間労働の一定割合が代わる代わる裁縫形態で、あるいは機織り形態で供給される、ということも明らかです。この労働の形態転換は摩擦なしには進まないかもしれませんが、しかし進まざるを得ないのです。 posted at 19:38:39
  • もし生産活動の規定性を、したがって労働の有用的特徴を捨象すれば、労働には、それが人間労働の支出であるということが残ります。 posted at 23:31:00
  • 裁縫と機織りは、質的には異なる生産活動ですが、どちらも人間の脳、筋肉、神経、手、等々の生産的支出であり、その意味でどちらも人間労働なのです。 posted at 23:31:29
  • それは、人間の労働力を支出する2つの異なる形態でしかないのです。もちろん、あれやこれやの形態で支出されるためには、人間労働力そのものは多少なりとも育成されていなければなりません。 posted at 23:39:17
  • しかし、商品の価値は、人間の労働そのものを、人間の労働力一般の支出を表わしています。 posted at 23:58:28
  • いろんな種類の労働がそれを測る単位としての単純労働に還元される様々な割合は、社会的過程によって生産者たちの背後で確定されます。だからそれは習慣によって与えられているかのように見えます。 posted at 00:36:00
  • 単純化するために、以下では、様々な種類の労働力をそのまま単純労働力とみなします。そうすることによって、還元の手間が省かれるだけです。 posted at 09:20:01
  • 要するに、上着と亜麻布は、価値としてみれば、使用価値の違いが捨象されており、同じように、それらの価値に表わされた労働としてみれば、裁縫と機織りというそれらの有用な形態の違いが捨象されているわけです。 posted at 21:34:50
  • 使用価値としての上着や亜麻布は特定の目的をもった生産活動と布や糸の結合ですが、それにたいして価値としての上着や亜麻布は単なる同種の、ゼラチン状に固まった労働でしかありません。 posted at 08:50:37
  • だから、価値に含まれている労働は、布や糸にたいするその生産的な振る舞いによってではなく、ただ人間労働の支出としてのみ通用するのです。 posted at 08:57:41
  • 上着や亜麻布の使用価値を形成する要素は裁縫労働であり機織り労働ですが、それらが使用価値の形成要素になるのは、それらが異なった質をもっているからに他なりません。 posted at 10:16:37
  • それらが上着価値や亜麻布価値の実体であるのは、ただ、その特殊な質を捨象されて、どちらもが同じ質、人間労働という質を持つ限りにおいてです。 posted at 12:55:00
  • しかし、上着も亜麻布も単なる価値一般ではなく、なにがしかの大きさを持った価値です。そして私たちの仮定に従えば、上着は10エレの亜麻布の二倍の価値を持っています。この価値の大きさの違いはどこからくるのでしょうか? posted at 13:18:25
  • それは亜麻布が上着の半分の労働しか含んでいないからです。つまり、労働力が、上着の生産のためには、亜麻布の生産のために支出された二倍の時間、支出されているということです。 posted at 13:30:27
  • 要するに、商品に含まれた労働が、使用価値との関係では質的にしか意味を持たないとすれば、価値の大きさとの関係では、すでにそれ以上の質を持たない人間労働に還元されているのだから、量的にしか意味を持たないのです。 posted at 13:45:49
  • 使用価値については、労働がどのように何をするかが問題であり、価値の大きさにかんしては、労働がどれだけ多くか、労働の継続時間が問題になるのです。 posted at 13:50:49
  • ある商品の価値の大きさはその商品に含まれる労働の量を表わしているだけです。だから、諸商品をしかるべき割合で取り上げれば、必ず価値の大きさは等しくなるはずです。 posted at 13:56:18
  • 生産力が、言い換えれば、上着の生産に必要とされるすべての有用労働が変わらないままであれば、上着の価値の大きさは上着の量につれて増えます。1着の上着がx労働日を表わすとすれば、2着の上着は2x労働日を表わす、等々ということです。 posted at 08:44:36
  • 1着の上着の生産に必要な労働が2バイトに増えるか半分に減るかしたと仮定してみましょう。前者の場合は、1着の上着はかつての上着2着分と同じ大きさの価値を持ち、後者の場合は、2着の上着がかつての上着1着分と同じ大きさの価値を持ちます。 posted at 08:55:28
  • とはいっても、どちらの場合も、1着の上着は相変わらず同じように役立ちますし、その中に含まれている有用労働の品質も変わりません。しかし、上着の生産に支出されたる労働の量が変わってしまったのです。 posted at 09:00:40
  • ある大きさの量の使用価値はそれ自体があろ大きさの物質的富です。2着の上着は1着の上着より使用価値の量が多いわけです。上着が2着あれば2人の人間がそれを着ることができますが、1着では1人しか着ることができない、等々です。 posted at 10:27:54
  • とは言え、物質的な富の量が増えるときに、同時的にその価値の大きさが減るということが起こることもあります。このような矛盾した動きは、労働の二面性から生まれてきます。 posted at 10:34:06
  • もちろん生産力というのはつねに有用で具体的な労働の生産力であり、所定の時間内における合目的的な生産活動の効率を規定します。だから有用労働は、その生産力の上昇・下落に正比例して、生産物のより豊かな、あるいはより貧しい源泉になります。 posted at 12:09:17
  • それに対して、生産力の変動は、価値に表わされた労働それ自体にはまったく影響しません。生産力は具体的有用労働に属するものだから、その具体的有用形態を捨象してしまえば、当然ながらもうそれ以上労働に関わることはできません。 posted at 23:07:00
  • 生産力がどれほど変動しても、同じ労働は同じ時間内に同じ大きさの価値をもたらします。しかし、それは様々な量の使用価値を供給します。生産力が高くなれば提供する使用価値はより多く、生産力が低くなればより少なくなります。 posted at 23:15:33
  • したがって、労働をより多産にして、従ってそれが供給する使用価値の量を増やす同じ生産力の変動が、それらの生産に必要な全労働時間を短縮する場合には、このより増えた使用価値の価値の大きさは小さくなります。 posted at 23:25:46
  • 逆の場合は逆の結果に。 posted at 08:48:44
  • すべての労働は、一面では、生理学的な意味での人間労働力の支出です。すなわち、同種の人間労働もしくは抽象的な人間労働という性質での人間労働力の支出です。 posted at 09:19:55
  • 他方で、すべての労働は特定の目的に規定された人間労働の支出であり、具体的有用労働というこの性質において使用価値を生み出します。 posted at 08:17:42
  • 3)価値形態あるいは交換価値 商品は、使用価値あるいは価値体の形態で、すなわち鉄、亜麻布、小麦等々としてこの世に現われ出てきます。これが、商品のありふれた現物形態です。 posted at 08:26:29
  • しかしながら、それらが商品であるのは、それらが二重物、使用価値であると同時に価値の担い手であるからにほかなりません。 posted at 08:28:22
  • だから、それらがただ商品として現われ、ただ商品形態だけをもつのは、それらが二重形態、すなわち現物形態と価値形態とをもっているからにほかなりません。 posted at 08:33:11
  • 商品の価値対象性というものは、寡婦のクイックリーとは違って、それをどこでつかまえたらよいかわかりません。商品体の感覚でもはっきりとつかまれる対象性とは正反対に、価値対象性には自然素材はまったく含まれません。 posted at 08:49:22
  • だから、たった1つの商品を好きなようにこねくり回すことはできますが、その商品は相変わらず価値物として不可解なままです。 posted at 08:40:09
  • しかしながら、商品が価値対象性を持つのは、それが同じ社会的な単位、人間労働の表現である限りにおいてであること、したがってその価値対象性は純粋に社会的なものであることを思い出してください。 posted at 21:52:59
  • そうすれば、その価値対象性が商品の商品にたいする社会的関係の中でしか姿を現わさない、ということが自ずからわかります。実際、私たちは交換価値あるいは交換関係から出発して、その中に価値が隠されている価値対象性までその痕跡を追求してきました。 posted at 22:01:46

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One Response to “「です・ます調」資本論(続き)”

  1. 長谷部 Says:

    たたまた検索で引っかかり、訪問しました長谷部と申します。東京江東区在住で、恐らく同じ志の持ち主です。年齢は40で、10歳は年下と思います。
    今、私は学生時代以来の資本論再読に挑戦中です。仕事をしながらなので、スローペースですが、何とか3巻の後半までたどり着きました。再読をしようと思ったきっかけは、ディビッド・ハーベイというニューヨーク州立大学の地理学教授が書いた資本論入門を読んだことです。数ある資本論解説のひとつと思ったのですが、彼の資本論理解の深さと斬新さに衝撃を受けました。この本はリーマンショック後に資本論の講義をネットで公開したものをまとめたもので、現在も二巻、三巻の講義を続けています。
    詳細を書くと長くなりますが、彼は、資本主義は恐慌を避けれらないこと、それを様々な方法で回避してきたが、その回避が新たな恐慌の原因になることを、資本の運動から解明し、恐慌が避けれない資本主義を乗り越えることを主張しています。未来社会や変革の道筋のイメージは漠然としていますが、彼の資本主義分析は非常に興味深いものがあります。
    初対面で、不躾なお願いになりますが、もしディビッド・ハーヴェイの著作を読んでおられるなら、その感想などをブログに掲載していただければ幸いです。

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