資本論第3部第17章「商業利潤」の翻訳について

資本論第3部第17章「商業利潤」を読んでいて、どうしても日本語として意味不明なところにぶつかってしまった。それはヴェルケ版のページで308ページの終わりから309ページにかけて、商人資本が商業労働者の賃金を支払うために前貸しする可変資本部分にたいして、どうして利潤が支払われるのか?という「困難」を考察した部分。

ここは、もともと「『資本論』のなかできわめて難解な個所に属する」(有斐閣『資本論体系』5「利潤・生産価格」、100ページ)と言われている部分。エンゲルスの編集はおおむねマルクスの草稿どおりなのだが、もともと草稿の文章が入り組んでいるため、邦訳を読んでいても、マルクスが何を論じているのか、文意を追うことさえ難しい。

たとえば、新日本出版社の資本論ではこうなっている。ここでマルクスは、純粋に商品資本の形態転換のために必要な追加資本をB、またその過程で消費される不変資本をK、形態転換を遂行するために必要な労働にたいする支払いをbとして、BおよびKについて検討したあと、問題はbについてであるとして、bおよびbにたいする利潤がどのように商人に支払われるのかという問題に考察を加えている。

 商人がbで買うものは、想定によれば、商業労働、すなわち資本流通の機能であるW-GおよびG-Wを媒介するために必要な労働であるにすぎない。しかし商業労働は、一資本が商人資本として機能するために──それが商品の貨幣への転化および貨幣の商品への転化を媒介するために──一般的に必要な労働である。それは、価値を実現しはするが、なんらの価値も創造しない労働である。そして、一資本がこのような諸機能を行なう──したがって一資本家がこれらの操作、これらの労働を自分の資本で行なう──限りでのみ、この資本は商人資本として機能し、一般的利潤率の規制に参加する、すなわち、総利潤から自分の配当分を引き出すのである。しかしb+(bにたいする利潤)においては、第一には、労働が支払われるように見え(というのは、産業資本家が商人に商人自身の労働の代償として労働に支払うにせよ、それとも商人によって支払われる事務員の労働の代償としてそれに支払うにせよ、同じことであるから)、第二には、商人自身が行なわなければならないであろうこの労働への支払い金額にたいする利潤が支払われるように見える。商人資本は、第一には、bの払いもどしを受け取り、第二には、これにたいする利潤を受け取る。したがって、このようなことは次のことに起因する。すなわち、商人資本は、第一に、それが商人資本として機能するのに用いる労働にたいして支払いをしてもらうということ、そして第二に、それが資本として機能するので──すなわち、機能しつつある資本としての自分に利潤で支払われる労働を行なうので──利潤にたいして支払いをしてもらうということが、それである。したがって、これが解決されなければならない問題である。(上製版『資本論』新日本出版社、IIIa、502-503ページ。新書版(9)504-505ページ)

ほかの訳でも、新日本版とだいたい同じような訳文になっている(国民文庫(6)485-486ページ、岩波文庫(6)468-469ページ)。

とりわけ文意がわからないのは、途中の「しかしb+(bにたいする利潤)においては」以下の部分だ。

結論からいうと、ここで「第一には」「第二には」と訳されている erstens, zweitens という単語を、私は、「まず」「次いで」と訳すべきだと思う。

すなわち、マルクスは、b+(bにたいする利潤)についてはどうなるかというと、事態は次のように見えると言っている。まず、労働が支払われ、次いでその労働への支払いにたいする利潤が支払われるように見える、と。「見える」scheint … bezahlt zu werden というのがポイント。商業労働にかんしては、まず労働が支払われ、次いでそれに見合った利潤が支払われるように「見える」のはなぜか、ということをマルクスは問題にしているのだ。

そこが「第一には」「第二には」と訳してしまうと分からなくなる。翻訳にはほかにも気になるところがいっぱいあるが、ともかく、そこを取り違えた結果、どうやってもマルクスの文意のとれない翻訳になっているように思う。

もう1つは、マルクスの言いたいことの本筋と、その途中でマルクスが書き込んだ断り書きの部分をきちんと区別して読むということ。「しかしb+(bにたいする利潤)においては」のあとの、「第一には」「第二には」の部分で、「第一には」のほうは、最初に労働が支払われるように見える理由が断り書きとして()のなかで説明されている。ところが、「第二には」のほうでは、die der Kaufmann selbst verrichten müßte という断り書きの部分が「この労働にたいする支払い」にたいする限定句として、本文に組み込まれて訳されてしまっている。しかし、ここはどちらも、マルクスが補足的に書き付けた断り書きと読むべきだろう。

同じことは、そのあとの「このようなことは次のことに起因する」で始まる文にもいえる。ここでは、マルクスは、本筋として「こうしたことは、商業資本が、まず労働を支払わせ、次いで利潤を支払わせることから生じる」と言っていて、そこに「この労働は、商人資本が自分を商人資本として機能させるものである」「商人がこの利潤を受け取るのは、商人資本が資本として機能して、商業労働を遂行させるからだ」という補足を挟み込んでいる、と読むべきだろう。

以上を踏まえて、この部分を僕なりに訳してみると、次のようになる。

 商人がbで買うものは、想定によれば、商業労働だけ、すなわち資本流通の諸機能であるW-GおよびG-Wを媒介するために必要な労働だけである。しかし商業労働とは、一般的に、ある資本が商人資本として機能するために、商品の貨幣への転化および貨幣の商品への転化を媒介するために必要な労働のことである。それは、価値を実現しはするが、なんの価値も創造しない労働である。そして、ある資本がこれらの諸機能を遂行する限りでのみ、したがってある資本家がこれらの操作、これらの労働を自分の資本でもって遂行する限りでのみ、この資本は商人資本として機能し、一般的利潤率の規制に参加する、すなわち、総利潤から自分の配当分を引き出すのである。しかし、b+(bにたいする利潤)においては、まず、労働が支払われ(というのは、産業資本家がその労働を商人にたいして、商人自身の労働の代償として支払っても、商人によって支払われる事務員の労働の代償として支払っても同じだからである)、次いで、この労働への支払い――これは商人自身が行なわなければならない――にたいする利潤が支払われるように見える。商人資本は、まず、bの払いもどしを受け取り、次いで、これにたいする利潤を受け取る。つまり、こうしたことは、商人資本が、まず労働――それによって自分を商人資本として機能させる――を支払わせ、次いで、利潤を支払わせる――なぜなら、それは資本として機能する、すなわち、機能しつつある資本として利潤のかたちで自分に支払われる労働を遂行するのだから――ことから生じる。したがって、これが解決されなければならない問題である。

まだまだ文章は複雑だが、こう読むと、ここでマルクスが説明しているのは次のようなことだということがわかる。

「b+(bにたいする利潤)」についていえば、商人は、まずその商業労働全体について産業資本家から支払いを受ける。なぜなら、商人が労働者を使わずに、自分自身で労働すると仮定した場合には、この商人の労働は、商人資本にたいする平均利潤という形で、商人が産業資本家から受け取るのであり、そのことは、商人が労働者を働かせてその職務を遂行した場合でも同じだというのである。そして、そのあとで、商人自身が、こんどは労働者に労賃を支払う。これは商人自身が行わなければならない支払いだとマルクスも言っている通りである。

こういうことを、マルクスはここでは論じようとしているのだろう。

ただし、この部分は、従来から指摘されているように、商業利潤の由来を考察しているのだが、そのやり方は間違った方向を向いており、マルクス自身、この直後に、この考察を放棄している。

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投稿者:

GAKU

年齢:50代 性別:男 都道府県:東京都(元関西人) 趣味:映画、クラシック音楽、あとはひたすら読書

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