エンゲルス監訳の英語版『資本論』の第3章第1節の翻訳です。
英語版資本論第3章第1節 (PDF,540KB)
私のつたない語学力でいえば、英語版の方が英語版よりかなり平易なように感じます。翻訳もなるべく平易にしましたが、はたして成功しているでしょうか。
エンゲルス監訳の英語版『資本論』の第3章第1節の翻訳です。
英語版資本論第3章第1節 (PDF,540KB)
私のつたない語学力でいえば、英語版の方が英語版よりかなり平易なように感じます。翻訳もなるべく平易にしましたが、はたして成功しているでしょうか。
資本論草稿集を読んでみると、マルクスは、恐慌論にしても再生産論にしても、行きつ戻りつ、いろいろと試行錯誤を繰り返しています。ところが、リカードウ批判に関していえば、『57〜58年草稿』の段階でも、すでにほとんど出来上がっていて、リカードウ理論をすっかり自分のものにして、自分の理論に即して自在に批判しています。
しかし、僕自身がリカードウの『原理』を読んでみても、たとえば第1章から、問題は労働の価値ではなく労働力の価値なんだ、というような結論がどうやったら引き出せるのか、さっぱり見当もつきません。いったいマルクスは、どんなふうにリカードウを読んで、みずからの学説を作り上げたのでしょうか?
ということで、ちょいとつぶやきました。
岩波新書の日本古代史シリーズ最終巻の古瀬奈津子『摂関政治』。オビにあるとおり、藤原道長を中心に、9世紀から11世紀ぐらいまでを対象にしています。
以前に、講談社の『天皇の歴史』シリーズでも書いたことですが、摂関期ぐらいになってくると、描かれている時代のスケールがうんと小さくなってしまいます。古代律令国家で権力の頂点にあった天皇が、この時代になると、ほとんど内裏から外へはでなくなり、政治もほんの近親の公卿たちによって担われてゆきます。
そのことを、本書でも著者は、天皇との私的関係によって政治がおこなわれるようになると表現するのですが、国のまつりごとが私的な関係によって処理されてゆくというのは、いったいどういうことなのでしょうか?
これ↓は、横浜国立大学の蔵書である『資本論』第1部第2版のPDF版(253MB)。
かなりボロボロです。(^_^;)
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/7686/1/014.pdf
この呟き↓は全面的に間違いでした。「同一労働同一賃金」だと、仕事が違えば賃金は違ってもいいということになり、社会的に「女性の仕事」とみなされる職業と、「男性の仕事」とみなされる職業との間で賃金格差を認めることになるので、仕事は違っていても「同一価値」の仕事なら同じ賃金を払うべきだというものとして提起されたのが「同一価値労働同一賃金」でした。
詳しくは、『前衛』12月号の筒井晴彦「非正規労働についての国際基準はなにか」を参照してください。同論文は、その他の問題でも国際的到達点がわかりやすく紹介されています。
以上、12月6日追記。
今日は、「同一労働同一賃金」と「同一価値労働同一賃金」について、いっぱいつぶやいてしまいました。何かのお役に立ったのであれば良いのですが。
ということで、関連部分のみ、貼り付けておきます。
Twitterで、@NakaYoshikaさんがつぶやいていた、ニューヨークタイムズの記事です。
タイトルは、オイラふうに訳せば、「機械のための仕事は増えても、人々のための仕事はない」というあたりでしょうか。
マサチューセッツ工科大学の2人の研究者が最近『機械との競争』という電子書籍を出版したのですが、もともと彼らは、技術革新がどんな豊かな実りをもたらしたかを論じた『デジタル・フロンティア』という本を出すつもりだったのに、いろいろ調べているうちに、どうもそうではないというところにいたった、ということのようです。ちょっとおもしろそうな話ですね。
Economists See More Jobs for Machines, Not People – NYTimes.com
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