右から
- 山内清『拡大再生産表式分析』(大川書房、税込み6,000円)
- 大西広『マルクス経済学』(慶応大出版会、本体2,400円)
- 齊藤彰一『マルクス剰余価値論の地層』(八朔社、4,000円)
- 孫崎享『不愉快な現実』(講談社現代新書、本体760円)
- 渡辺尚志『百姓たちの幕末維新』(草思社、1,800円)
久しぶりの散財をしてしまいました。(^_^;)
岩波新書の日本古代史シリーズ最終巻の古瀬奈津子『摂関政治』。オビにあるとおり、藤原道長を中心に、9世紀から11世紀ぐらいまでを対象にしています。
以前に、講談社の『天皇の歴史』シリーズでも書いたことですが、摂関期ぐらいになってくると、描かれている時代のスケールがうんと小さくなってしまいます。古代律令国家で権力の頂点にあった天皇が、この時代になると、ほとんど内裏から外へはでなくなり、政治もほんの近親の公卿たちによって担われてゆきます。
そのことを、本書でも著者は、天皇との私的関係によって政治がおこなわれるようになると表現するのですが、国のまつりごとが私的な関係によって処理されてゆくというのは、いったいどういうことなのでしょうか?
遠山茂樹氏の『日本近代史I』を読み終わったので、こんどは同じ岩波全書の『明治維新』にとりかかります。
学生のころに読んだことがあるのですが、見つかりません。岩波現代文庫版はすぐに見つかったのですが、これは初版の再刊。改訂版の方を読みたかったので、あらためて手に入れました。
歴史科学協議会の『歴史評論』9月号に、日本政治史の功刀俊洋氏が「地震と放射線に揺さぶられて――フクシマから」という報告を書かれている。書かれたのは5月時点ということだが、冷静に書かれた文章の行間から、なるほど福島(とくに福島市内)はこうなっているのかと、原発事故の深刻な実態を思い知らされるものだ。
功刀氏は、「これは想像したくないです」と断りつつ、福島原発が事故の収束に失敗して、再び大爆発を起こし、関東と東北地方全域が再び低線量被曝地となり、いわき市や郡山市、福島市を含む60km県内の150万人が避難せざるをえなくなるのではないかという「恐怖」にふれ、その恐怖のもと、福島では「県内での原発の是非を論じるのはタブー」「事故の収束がすべてに優先する課題で、それ以外のことを検討する余地がない」と指摘。その状況を、「はたして今後福島に住みつづけられるのか見通しがないのです。時間が止まっていて、過去も未来も語りにくいのです」と表現されている。
先日読んだ坂上康俊『平城京の時代』でしばしば言及されていたので、続けて鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』(吉川弘文館、2008年)を読んでみました。
坂上田村麻呂の名前ぐらいは日本史の授業で習いましたが、それ以上はよくわかないという人は多いでしょう。古代蝦夷というと、むしろ高橋克彦氏の『火怨』のような小説の題材というイメージが強いかも知れません。本書は、和銅2年(709年)から弘仁2年(811年)までの「征夷」(律令国家のおこなった「東北戦争」)を取り上げ、限られた史料から「征夷」戦争の具体的なプロセスや、蝦夷(えみし)の実態、そしてそもそも律令国家はなぜ征夷をおこなったか(おこなうことを必要としたか)という問題を丁寧に明らかにしています。
岩波新書「シリーズ日本古代史」の4冊目。坂上康俊氏(九州大学教授)の『平城京の時代』です。
対象は、697年の文武天皇の即位からほぼ8世紀いっぱいぐらいまで。ということで、以前に紹介した講談社『天皇の歴史』第2巻『聖武天皇と仏都平城京』とほぼ同じ時期が対象になっています。
それでも、天皇中心の前書にくらべ、本書では、第2章「国家と社会の仕組み」や、第4章第3節「荘園と『富豪の輩』」などで、この時代の国家と社会を支えた庶民の姿が取り上げられていて、おもしろい。


左=吉川真司『飛鳥の都』(岩波新書)、右=同『聖武天皇と仏都平城京』(講談社)
日本古代史のシリーズを読んでいます。1つは、岩波新書ではじまった「シリーズ日本古代史」。「農耕社会の成立」から「摂関政治」までを対象とした全6冊のシリーズで、先月、3冊目の『飛鳥の都』がでました。著者は京都大学の吉川真司氏。「七世紀史」というくくりで、推古朝の成立から遣唐使の派遣、「大化改新」、白村江の戦い、近江大津宮への遷都、壬申の乱、飛鳥浄御原令の制定・施行、藤原宮遷都あたりまでを取り上げています。こうやって概略を書き並べただけでも、激動の時代だったことが分かります。
もう1冊は、講談社が刊行中の『天皇の歴史』第2巻、『聖武天皇と仏都平城京』です。著者は同じ吉川氏で、こちらは天智朝、壬申の乱(672年)あたりから書き起こして、承和の変(842年)あたりまで。こちらは「天皇の歴史」ということなので、天智系と天武系の系譜問題や、近江令、飛鳥浄御原令から律令制の成立、さらに天皇と仏教の関係などが取り上げられています。
またもや、日本史研究者には必読の論文が、『歴史学研究』2011年3月号(第877号)に載っている。安田浩氏の論文「法治主義への無関心と似非実証的論法――伊藤之雄「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」(本誌831号)に寄せて――」だ。
サブタイトルにあるとおり、これは、同じく『歴史学研究』2007年9月号に載った伊藤之雄氏の論文「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」にたいする反論。伊藤氏の同論文は、同氏の『昭和天皇と立憲君主制の崩壊』(名古屋大学出版会、2005年)の書評(瀬畑源氏執筆、『歴史学研究』2006年10月号掲載)にたいするリプライなのだが、そのなかで、伊藤氏が、安田氏の名前をあげて、「近代天皇は『魔力』的な権力がある」とする見解を主張しているとして批判したことから、安田氏が伊藤氏への反論を書いたというわけだ。
「魔力」というのは、もちろん「」付きで使われているもので、伊藤氏は「天皇の特殊な権力を、ここで便宜的に『魔力』と表す」(17ページ)と断っている。しかし、そもそも正体不明の力のことを魔力というのだから、いくら「便宜的」といってみても、戦前の天皇が実際にもち、行使した権力を「魔力」とくくってしまったのでは、およそ学問研究にはならないだろう。
しかし、安田氏の批判は、そうした言葉上の問題にとどまらない。
本日新聞を眺めていたら、日本近世史の林基氏の訃報が出ていました。
林基さんと言えば、『百姓一揆の伝統』(1955年刊)と『続・百姓一揆の伝統』(1971年)が有名。最近は名前をお見かけすることもすっかりなくなっていて、正直なところ、訃報をみてまだご存命だったのかと驚いたほど。しかし、私が学生の頃は、まだまだ日本近世史の必読文献でした。ご冥福をお祈りします。
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