民主党は、1999年から党内に憲法調査会を設置し、時代の変化に対応しうる、言わば生きた憲法を確立しければいけないという姿勢でこれに臨んできた。そしていま、その場凌ぎの対応を繰り返す政府によって憲法の「空洞化」が進み、いわゆる条文上の文言を守ることに汲々として憲法の「形骸化」を放置する状況に直面し、私たちは、21世紀の新しい時代に応える創造的な憲法論議が必要だとの思いを強くしている。
そもそも日本では、中央集権システムの下で、官僚による恣意的な行政指導が横行し、「法の支配」が形骸化するという傾向を強く有していた。そのうえ、今日、例えば、「初めにアメリカありき」の外交により、ルールなき自衛隊の海外派遣が繰り返されて、あたかも日米関係が憲法を超えるかのような政治の実態が生まれている。
明確なルールの下で運営されない政府を持つ国を、アジアの近隣諸国は信用しないだろうし、国民もまた、そうした政府を信頼することもないであろう。
私たちは、こうした現実に何よりも深い危惧を抱くととともに、強い警告を発したいと考えている。
民主党が掲げる「創憲」は、このような危うい政治の現実に対して、立憲政治を立て直し、「法の支配」が確立された社会を創り出すことにその大きなねらいがある。そして、過去を振り返るのではなく、未来に向かって新しい憲法のあり方を考え、積極的に構想していくという意味での「創憲」がいま最も求められているものである。
本「憲法提言中間報告」は、この考えを基に作成されたものである。
―クローバル化・情報化の中の新しい憲法のかたちをめざして―
憲法をめぐる論議が盛んになるにつれて、私たちは何を議論しなくてはいけないのか、どのような検討を行うべきなのか、次第に明瞭になってきた。それは、2l世紀の新しい時代を迎えて、現在の日本国憲法をいかにして深化・発展させていくかというものであり、未来志向の憲法構想を、勇気をもって打ち立てるということである。
私たちはいま、文明史的転換期に立っている。
第1に、近代社会の国家間の暴力や戦争、帝国的な民族支配に代わって、国際テロ・民族浄化・宗教紛争や新型ウィルスの発生、地球温暖化問題など新しい共通の脅威が地球上を覆い始めている。これに伴い紛争の形態も変化し、「国際協調による共同の解決」が主流となりつつある。
第2に、社会の中心的動力が、これまでのr物質的富」に代わって、「情報」にシフトしていくということである。急速な情報化は、人間社会の基本が、人間と人間、社会と社会の間の「コミュニケーション」にあることをいよいよ明らかにしつつある。物質をめぐるゼロサム・ゲームに対して、情報を通じたプラスサム・ゲ−ムへと歴史は大きく転換する。このコミュニケーションに対する権利が新しい世紀の鍵ともなっていく。
第3に、環境権、自己決定権、子どもの発達の権利、少数民族の権利など、21世紀型の新しい権利の台頭は、人間の尊厳が、国家の枠を超えて保障されるべきものであるとの「地球市民的価値」を定着させてきている。
第4に、世界において人間一人ひとりの力が急速に上昇し、情報化技術によって地球規模のネットワークを生み出して、言わば人と人を横に結ぶ「連帯革命」が生まれている。それは、各種国際会議へのNPOの参加となって表面化し、あるいは世界的傾向としての「分権革命」の運動となっている。
そして、これらの紛争形態の変化、大きな価値転換や構造変動に伴って、これまで絶対的な存在と見られてきた国家主権や国民概念も着実に変容し始めている。EUでは、「国家主権の移譲」や「主権の共有」が歴史を動かしている。国際人権法体系の整備は、一国の中の人権問題もそれを国際的な「法の支配」の下に置きつつある。国境の壁がいよいよ低くなり、外国人であっても「地球市民」としてその基本的権利を保護する義務を政府は果たさなければならない。私たちはいま、こうした文明史的な転換に対応するスケールの大きな憲法論議を推し進めていくことが求められているのである。
こうした大きな眺望の下に立つとき、いま私たちが試みなければならない憲法論議の質が、懐古的な改憲論や守旧的な護憲論にとどまるものでないことは明らかである。いま必要なのは、こうした歴史の大転換に応えて<前に向かって>歩み出す勇気と、日本が国際社会の先陣を切る決意で、21世紀の新時代のモデルとなる、新たなタイプの憲法を構想するく地球市民的想像力>である。
しかしいま、日本では、−方に、既成事実を積み重ねて憲法の「空洞化」を目論む動きがある。他方には、憲法の「形骸化」にもかかわらず、それを放置しようとする人たちがいる。私たちは、憲法の空洞化も形骸化も許さず、これを国民生活の中に生きたものとして発展させたいと考える。そのためには、目先の利害や政治的駆け引きにとらわれることのなく、50年、100年先を見通した、骨太の憲法論議が必要である。私たちは、ここにそのための基本的視点を提起し、前へ進みたいと考えている。
第1は、グローバル社会の到来に対応する「国家」のあり方についてである。
そもそも、近代憲法は、国民国家創設の時代の、国家独立と国民形成のシンボルとして生まれたものである。それらに共通するものは、国家主権の絶対性であり、国家による戦争の正当化であった。これに対して、戦後日本が制定した日本国憲法は、国連を軸とした国際秩序に信を寄せて立国の基本を定めたという点で画期的なものであり、国家主権それ自体を相対化する試みとして実に注目すべき内実を備えている。
21世紀の新しいタイプの憲法は、この主権の縮減、主権の抑制と共有化という、「主権の相対化」の歴史の流れをさらに確実なものとし、これに向けて邁進する国家の基本法として構想されるべきである。国家のあり方が求められているのであって、それは例えば、ヨーロッパ連合の壮大な実験のように、「国家主権の移譲」あるいは「主権の共有」という新しい姿を提起している。
第2に、急速に進展する情報化が「個人」と「社会」のあり方そのものを劇的に変化させている。
個人はこれまで、地域社会や階級・民族など様々な中間的団体組織へ組み込まれて、その中で人生を全うすることを余儀なくされてきた。このため、近代社会において、「国家権力からの自由」は憲法によって保障されることになったものの、私的領域とされたこれらの社会や組織の中では、人権保障はなかなか及ばないとされてきた。家族という親密な共同体の下では、「法の下の平等」など想定もされなかった。
しかし、国民の権利意識の向上と情報化の進展は、家族における抑圧や、民族や宗教の名による人権の侵害、企業権力による不当な差別をも、憲法の下に据えることを要求している。とりわけ、情報化がもたらす新しい権利侵害に対して「新しい権利」も提起されている。プライバシーの権利や情報へのアクセス権、国民の知る権利、あるいは文化的少数者の権利などは、そうした新しい時代に応える権利の要請である。未来志向の憲法は、まずこの課題に応えていかなければいけない。
第3に、「自然と人間の共生」にかかわる環境権の主張もまた例外ではない。2l世紀型の新しい人権の確立に向けて、時代は大きく展開しようとしている。
私たちは、日本が培ってきた「和の文化」と「自然に対する畏怖」の感情を大切にするべきであると考えている。「和」とは、調和のことであり、社会の「平和」を指すものである。21世紀のキーワードはいまや、「環境」「自然と人間の共生」、そして「平和」であり、日本の伝統的価値観の中にその可能性を見出し、それを憲法規範中に生かす知恵がいま必要である。
そして第4に、人間と人間の多様で自由な結びつきを重視し、さまざまなコミュニティの存在に基礎を据えた社会は、異質な価値観に対しても寛容な「多文化社会」をめざすものでなくてはいけない。これもまた、<一神教的な>唯一の正義を振りかざすのではなく、多様性を受容する文化という点においては、日本社会に根付いたく多神教的な>価値観を大いに生かすことができるものである。
この憲法の名宛人は、どこなのか、誰なのか。従来は「国家」とされてきたが、今日では国民統合の価値を体現するという意味を込めて、国民一人ひとりへのメッセージであるとともに、広く世界に向けて日本が発信する宣言でもあることが期待される。
もともと、「憲法(コンスティテユーション)」とは、国家権力の恣意や一方的な暴力を抑制することに意味があった。あるいは国家権力からの自由を確保することにあった。これは、言わば「…するべからず」というものであるが、これに対して、今日求められているものは、こうした「べからず集」としての憲法に加えて、新しい人権、新しい国の姿を国民の規範として指し示すメッセ−ジとしての意味を有するものである。時代はいま、禁止・抑制・解放のための最高ルールとしての憲法から、希望・実現・創造のための新たなタイプの憲法の形成を強く求めている。
新しいタイプの憲法は、何よりもまず、日本国民の意思を表明し、世界に対して国のあり方を示す一種の「宣言」としての意味合いを強く持つものでなければならない。そのことを通じて、これを国民と国家の強い規範として、国民一人ひとりがどのような価値を基本に行動をとるべきなのかを示すものであることが望ましいと考える。同時に、憲法は、法規範としての機能を果たさなければいけない。それを侵すならば、それに相応しいぺナルティが課せられる「法の支配」が貫徹されるものとすることが重要だ。新しいタイプの憲法は、日本国民の「精神」あるいは「意志」を謳った部分と、人間の自立を支え、社会の安全を確保する国(中央政府及び地方政府)の活動を律する「枠組み」あるいは「ルール」を謳った部分の二つから構成されるべきである。
今日の日本政治の現実は、こうした時代の流れに逆行し、憲法の形骸化・空洞化を推し進めている。いまや、憲法は「クローゼット中に」押し込まれて、国民の日常生活や現実政治とは遠いところに置かれている。どのように立派な法であっても、それが不断に守られ、生かされるのでなければ、国の枠組みやあり方を規制する基本法としての役割は果たせない。この現状を克服し、「法の支配」を確立することがいま何よりも必要である。
私たちは、こうした憲法の「空洞化」の最大の要因の一つに、いわゆる9条問題があると受け止めている。「武力の保持」を禁止した憲法にもかかわらず、世界屈指の軍隊としての自衛隊を保有し、その海外派遣を繰り返す姿に、立憲政治の重みは存在しない。
国民の多くは、憲法に対して言わばシニカルになり、この国に立憲政治の実現を期待することも止めてしまうのではないかと懸念する。この現状を変えるとともに、先に示した憲法の基本価値を実現する政治、人間の自立を支える新たな仕組みへと転換させていくことが重要である。
未来志向の憲法を打ち立てるに際しては、国民の強い意志がそこに反映されることが重要である。しかし、日本ではこれまで、憲法制定や改正において、日本国民の意思がそのまま反映される国民投票を一度も経験したことがない。私たちは、憲法を国民の手に取り戻すためにも、やはり国民による直接的な意思の表明と選択が大事であること強く受け止めている。
近代憲法は、立法・執政・司法による権力分立原則を採用しているが、今日では、地方分権、独立の準司法機関などを含めて多元的な権力分立の仕組みが出来上がっている。また、わが国では、三権分立の基本形の中心に「行政」を忍び込ませて立法府や政治そのものの関与を排除している側面も見られる。こうした混乱と恣意的な憲法解釈あるいは権力運用を避けるためにも、権力分立に関する明示的な規定を設けるべきである。
国民の信託により、中央のほか、地域にも政府が存在することを認め、日本が分権国家として構成されることを明確にする。このため、中央政府の役割について限定列記するとともに、地域にできることは地域においてこれを担うことを明記する。
憲法及び同付属法における「内閣」を主体とする諸規定を再検討して、「首相(内閣総理大臣)」主体の規定へと変更すべきである。
執行権とは、行政をコントロールし、政治目的に向けてそれを指揮監督する権限を指す.憲法第65条に規定される行政権は、本来は執行権に相当するべきものであり、それが内閣ではなく内閣総理大臣(首相)に属することを明確にすべきである。
<1>現行の国家行政組織法や国家公務員法によって守られて聖域化している官僚機構のあり方を見直す。行政組織権を執行権を有する内閣総理大臣に属することを明確にするとともに、政治的リーダーシップを発揮するため、政府の中に政治任用を拡大する。
<2>内閣以外の議員の行政への関与を厳しく制限して、行政のコントロールに関する内閣の主導性を確保し、弊害の大きい政府・与党の二元構造を解消する。同時に、野党第一党に対してシャドーキャビネットの設置を義務付け、一定の範囲で行政への関与を制限的に容認する仕組みを確立するべきである。より具体的には、政治家と公務員との接触に関するルールを設けて、政府にあっては大臣を通じて与党議員は公務員にアクセスできるものとし、野党に対しては第一党のシャドーキャビネット大臣に同様の役割を持たせて、それ以外の政治家が直に接触することを原則禁止する。
現行の参議院の役割を大幅に見直し、例えば参議院議員の大臣指名の廃止、衆議院における予算審議と参議院の決算審議の役割分担、長期的視野に立った調査権限や勧告機能の拡充などを検討すべきである。
また、衆議院と類似する現行の選挙制度を改め、地域代表制を中心として、専門性も加味した選任方法へと改革することも検討すべきである。
議会制民主主義における政党の重要な地位と役割に鑑み、政党に憲法上の地位を与えるとともに、財政の公開、活動の報告などを義務づけた、憲法付属法としての性格を持つ政党法を制定するべきである。
選挙制度は、憲法の根本規範の一つである国民主権の根幹に関わるものであり、政治家や政党による恣意的な修正を許すものであってはならない。選挙制度のあり方については憲法上の規定を設け、その違反には厳格な法の適用を行えるようにすべきである。
日本でも、例えば、主権の移譲を伴う国際機構への参加などの場合について、国民の意思を直接問うことができる国民投票制度の拡充を図るべきである。そのための手続きや効力について詳細な検討を行い、細かく規定していくことが重要である。
憲法解釈の機関として立法府に設置されている衆参両院の法制局を強化し、執行機関の一部局たる内閣法制局は縮小すべきである。同時に、現在の司法裁判所に充実した憲法審査部門を設けるか、あるいはヨーロッパや韓国などが採り入れている憲法裁判所もしくは憲法院など違憲審査のできる固有の審査機関を新たに設置することを検討すべきである。
財政及び公共団体の公会計制度は、透明性の高いルールと公正な第三者機関の監視の下に置かれるべきである。公会計のあり方に関する基本原則を明記するとともに、会計検査院及び国会の中に新たに設置すべき行政監視院による監察・調査・勧告等を可能にするべきである。財政については、内閣総理大臣の予算・決算の提出者として全責任を負うべきこと、及び予算編成方針の決定段階から国会への説明責任を果たすべきことを明記するとともに、現行財政法の基本原則を憲法に書き入れることなどを検討する。なお、決算報告について事実上2年以上かかっている現状を改め、電算処理による迅速処理を生かして、次年度予算の編成に概数による決算報告が可能な仕組みを確立して、それを義務づけるものとする。
政府からの独立性を確保された人権委員会(仮称)や公正取引委員会などについては、憲法上の位置づけを明確にすることが望ましい。また、国会にその根拠を持つ福祉オンブズマンの設置などについても、その高い独立性を保障するために憲法上の機関として明確にする。
硬性憲法の実質を維持しつつ、より柔軟な改正を可能とするために、現憲法の改正手続きそのものを改正する必要がある。例えば、<1>憲法改正の発議権は国会議員にあると明記する、<2>その上で、各議院の総議員数の過半数によって改正の発議を可能にする、<3>改正事項によっては、各議院の3分の2以上の賛成があれば、国民投票を経ずとも憲法改正を可能とする、<4>ただし、主権の移譲など重要な改正案件に限定して国民投票を義務付け、その場合、有効投票の過半数の賛成を条件とする、など改正手続きを見直す。
今日、人権の実現と保障は「国際社会の共通の利益」と認識されており、日本における人権もまた、憲法とともに国際法規範によって支えられている。国連憲章は「人権と基本的自由を尊重するよう助長奨励すること」を国際連合の目的として掲げている(1条)。また、この目的の実現のために加盟国が国連と協力して共同及び個別の行動をとることを義務づけている(55条)。またその下に人権委員会を設置して、世界人権宣言を起草し、国際人権規約を作成した。これらは、今日では確立された国際法規範の一つに数えられている。
憲法第97条は、憲法の最高法規性の根拠が、個人の尊厳を中核とする基本的人権を現在及び将来に及ぶ「侵すことのできない永久の権利」として継承することにあることを示している。また続く第98条の2項で、国際法(締結した条約及び確立した国際法規)の誠実な遵守を明記している。この条項は、条約及び確立された国際法に対する遵守義務を課すことによって、憲法前文の国際協調主義を具体化するものである。国際法として確立した国際人権もこの最高法規性に基づいて保障されることがここに明示されている。
しかし、日本においては、国際人権法を詳細な検討なしに、国内法の条文解釈で事たれりとする根強い法意識が存在し、総じて国際人権法の活用について消極的な傾向が少なくない。この現状を克服するために以下の点に取り組むべきである。
第1に、司法の項に「国際人権法の尊重」を記述するべきである。第2に、国際人権保障にかかる動向を追跡し、必要な事項について国に対して勧告する権能を有する国内機関の設置を検討すべきである。第3に、憲法第98条2項に、国際条約の尊重・遵守義務に加えて、そのための適切な措置を講ずることを記述する必要がある。第4に、憲法第97条に、国際人権法の支配を認める表現(「今日、確立された国際人権制度の下で、普遍的な人権の保障の達成をめざすことは国民に対して課せられた義務である。」)を書き入れるべきである。
日本国憲法は、第3章第14条以降に人権に関する個別規定を置いている。しかし、急激な社会変化及び人権意識の高まりに伴い、憲法制定当時には予想していなかった権利や利益の主張がなされるようになり、これらを「新しい人権」として憲法による保護を認めるべきだとの意見が生まれている。また、幸福追求権を規定している憲法第l3条は、「新しい人権」の根拠となる一般的かつ包括的な権利であり、裁判上の救済を受けることができる具体的権利であると解されるようになっている。
この動向を受け、その権利が、個人の人格的生存に不可欠であり、長期におよび国民生活に基本的なものである等の要件を満たすものについては憲法上の権利として認めて、人権保障を明確にするために憲法上の人権カタログとして明記すべきである。
この権利は「私生活をみだりに公開されない法的保障ないし権利」と解されてきたが、さらに近年の情報化社会の進展に伴い、「自己に関する情報をコントロールする権利」と捉える見解がある。公権力に対し積極的に保護を請求する権利として、憲法上明記すべきである。また、名誉権は従来、民法上、刑法上の権利として認識されてきたきらいがあるが、憲法上の人権としての位置づけを明記すべきである。いずれの権利も、表現の自由との関係で緊張関係を有する。
とりわけマスメディアの発達に伴い、情報の受領・収集の自由を保障するために「知る権利」と捉えることが必要になってきた。国民主権の深化を目指す立場からも「知る権利」を憲法に明記すべきである。
環境権を正面から承認した最高裁判例はないが、憲法25条と13条に根拠を持ち、早くから新しい人権として主張されてきた。人権としての環境権もしくは国家の責務として環境保全義務など、環境権に係わる規定を憲法に明記すべきである。
自己決定権とは、一般的に<1>自己の生命・身体の処分<2>家族の形成・維持<3>個人のライフスタイルに関する事項の自由をさすが、ライフスタイルの多様化に伴い益々重要な権利となってきている。権利の内容を検討した上で憲法に明記すべきである。
21世紀は「人権の世紀」とも言われている。これは、1990年代、国連を中心とした国際人権保障が「基準設定」から「人権の実現」へと大きく歩み出したことによるものである。日本国憲法は、人権に関する規定と保障において優れた諸規定を設けているが、その文言を形に変える「実現」のための方策について曖昧であり、多くの人権が実現されないままに、いわば「泣き寝入り」するという状態が放置されている。これは、人権の実現に関する公正な第三者機関を欠いているせいでもある。
他方、1993年の国連総会のいわゆる「パリ原則」は、「国内人権機関」は、<1>憲法またはそれに準ずる法律を設置根拠とし、<2>法定された準司法的機能を含む独自の権限を有し、<3>国家機関とは別個の高い独立性を持つものでなければならないとしている。司法的救済手段の充実とともに、人権侵害の状況に対する不断の監視と、人権の実現のためのサポートシステムとして独立性の高い国内人権保障機関の確立が強く求められている。
(1)国家機関から独立した第三者機関としての「人権委員会」(仮称)の設置を、現在の会計検査院のように、憲法に明記する。
(2)憲法に基づいて新たに設置される人権保障機関は、「相談、斡旋・指導等、調停、仲裁、勧告・公表、訴訟援助」(法務省答申)に加えて、強制手段を含む救済訴訟の機能を付与する。
(3)また、公権力に対する強制調査手段とともに、私人間についても、一定の厳格な要件の下で強制調査の権限を有するものとする。この権能は、メディアによる人権侵害についても適用される。
(4)新たな「人権委員会」に「提言機能」を持たせて、同委員会の判断が以後の人権保障に実効的に作用するよう、立法・行政にその尊重義務を課すものとする。
(5)以上の機能を有する国内人権保障機関へのアクセスを可能にする条件整備を国および地方公共団体に義務づける。
日本国憲法は、人権に関する基本原則の一つとして、差別の禁止を謳い、国民の平等権と「法の下の平等」を保障している。ただし、これまで、憲法上の規定は、国家と個人との間に適用されるものであって、私人間の関係にはこの規定は原則として直接適用されず、14条のみを根拠として被差別者の救済をはかることはできないとされてきた。このため、私人間の差別に関しては、民法90条の公序良俗違反規定や709条の不法行為規定など私法上の条項を媒介にして、憲法上の人権規定を間接適用するという方法がとられてきたが、この方法には致命的な欠陥がある。公序良俗規定は抽象的に過ぎて、人権保障があまいであり、権利性の確保に十分なものとは言えない。かつ、この規定では、生活慣習の異なる外国人の人権や、従来の通念を超える同性愛者の権利保護などを取り込むことには限界がある。
(1)カナダ1977年人権法の例のように、人権カタログを拡大し、その内容についても簡潔に明示するといった、憲法上の人権カタログの再整備を行う必要がある。
(2)独立性の高い人権保障救済機関の立ち上げ、個人の人権実現をサポートするオンブズマン制度の確立などについて憲法上の位置つけを明確にしつつ、人権保障・人権救済のための仕組みを整備するべきである。
(3)私人間の権利関係であっても、「法の下の平等」が確保されることは憲法上の要件であ ることを踏まえ、上記の国内法の整備と合わせて、「差別禁止」が私人間であっても適用 できるものへと憲法及び関係法の見直しを行う。
一般に、表現の過誤は権力によって糾されるべきではなく、思想の自由市場によって淘汰されるべきであり、説得と投票箱の過程を基礎付ける表現の自由によって可能な限り保障されるべきであるが、「言論に対しては言論で」という図式は、巨大マスメディアが登場した現代社会では必ずしも現実的でないケースがある。特に個人に対する関係ではマスメディアは人権(特にプライバシーあるいは名誉権)侵害の主体となりうるという点を見落とすことができない。とりわけ高度情報化時代を迎え、インターネットなど新しい媒体での表現の自由をどのように保護し規制するか、他の基本的人権や社会的利益との調整をどうすべきか改めて検討する必要が出てきている。
(1)「表現の自由」については、本来的にはメディアによる自主的取組みに委ねられるべ きであるが、その位置づけを何らかのかたちで法の下に位置づける必要がある。
(2)さらに、国家機関から独立した第三者機関としての「人権委員会」設置を憲法上明記し、メディアによる人権侵害に対しても、一定の厳格な要件の下で強制調査の権限を与えるべきである。
(3)放送メディアについては、伝統的に周波数帯の有限稀少性と放送の持つ特殊な社会的影響力などから、活字メディアにはない規制がかけられてきた。しかし、近年ではCS(通信衛星)や光ファイバーを利用した放送が普及してきたことや、インターネッ卜を通じた情報流通が急速に広がるなかで、これまでの規制の根拠がそのままでは必ずしも妥当しなくなっている。改めて、放送メディアに対する規制のあり方について見直し、憲法上も厳格な枠組みの設定を検討する必要がある。
憲法第22条は、「職業選択の自由」を規定している。そして、「選択の自由」が実際に保障されるために、政府にはその選択の自由のための社会基盤を整備する責務があると見なければならない。例えば、職業能力の開発・向上のための機会の提供、差別的募集・採用・昇進による「選択の自由」の阻害要件の排除、職業に関する情報提供及びアクセスの保障や相談機能の整備などである。さらに、ハンディキャップを有する人々に対して開かれたユニバーサルシステムの採用なども検討すべきである。とりわけ、女性にとっての家族責任と職業選択のトレードオフ状況の解消は大きなテーマである。
また、憲法第27条は、勤労の権利と義務を明記し、続いて、勤労条件の基準についてこれを法律によって定めるとしているが、多様な形態の勤労のあり方を選択する権利がどこまで保障されているのか、新たな課題となっている。さらには、報酬を伴わない社会貢献的活動としての勤労には、その社会的活動基盤の整備促進をすることを、中央及び地方の政府の「責務」であることを明記すべきである。
(1)そもそも、憲法第22条には性格を異にするものが混在したままである。独立分離し、職業選択の自由に関する精度の高い規定を設けるべきである。
(2)職業機会は、すべての人々に開かれたものでなければいけない。例えば、国は、家庭と仕事の両立支援の責任を負い、企業はこの両立を理由として差別的な待遇を行ってはならない。また、「職業選択の自由」を保障するものとして、職業能力開発支援と年齢や性別による差別を禁止することは国及び地方公共団体の責務であることとすべきである。
(3)多様な形態の勤労のあり方を保障する。報酬を以て行う勤労については、均等待遇の確保が優先される。報酬を伴わない社会的活動としての勤労には、その社会的活動基盤の整備を促進する。これらの選択は個人の自由にゆだねる。社会奉仕時間の保障も明記する。
(4)いわゆる雇用関係や経営活動は異なるものの、各種の社会サービスや公共性の高い市民事業などについてこれを「自由な選択」の重要な対象として位置づけて、例えば、「何人も、公共の福祉の増進ための市民労働への参加を妨げられない」など、憲法に新たな条項を起こすことも検討すべきである。
日本国憲法第3章に、外国人の人権は明文化されていない。マクリーン事件最高裁判決では「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきである」と示された。外国人の人権保障を考える際には、世界人権宣言、難民条約、国際人権規約などを有力な基準として採用し、国際人権保障の要請に応えるべきである。
具体的な課題として、ここでは、主に<1>地方自治体における外国人の参政権問題、住民投票問題、<2>外国人登録及び再入国について、<3>難民受入れ制度を検討する、<4>その他の外国人の人権問題をとりあげる。
(1)「地球市民」 「連帯の権利」が主張されている現在の国際的な潮流に鑑みても、外国人の人権は、その保障を明確にするために、憲法に明文規定を設けるべきである。
(2)地域住民としての義務を果たしている永住外国人の地方参政権を制限する根拠は乏しく、人権保障の観点からも問題がある。永住外国人に地方参政権を認めるべきである。また、住民投票についても同様に保障すべきである。
(3)国際人権A規約に関する委員会は、外国人の登録証明書の常時携帯義務については、一般永住者、特別永住者への適用、また、特別永住者への再入国許可制の適用は廃止すべきだと勧告している。この2点について見直すべきである。
(4)出入国手続と難民認定手続が同一の機関で行われていること自体に根本的な矛盾がある。難民認定業務を分離し第三者機関に行わせることが必要である。
(5)外国人の両親が不法滞在者である場合の子どもの法的取扱い、日本人の配偶者となっている者のその日本人である配偶者が死亡した場合の在留資格の扱いなど、人権侵害の状態が続いている。国連、I LOなど外国人のセーフティネットのための国際規約の批准を急ぎ、上記の「外国人の人権」に関する憲法規定の明確化と合わせて、国内法の整備を進めるべきである。
日本国憲法29条1項は、「財産権は、これを侵してはならない」と定めて、個人が現に有する財産上の権利(財産権)を保障している。これに対して、財産権といえども、公共の福祉に服さなければならないと強い考えがある。とりわけ国民生活に不可欠で、かっ希少価値を有する土地・エネルギー・自然環境資源等については、環境の質の確保や公正・公共的な利用の観点から、社会的目的に沿ったより合理的な規制が置かれてしかるべきである。
いわゆる所有権の絶対性を強調する考えから大きく超えて、「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」としてドイツ・ワイマール共和国憲法以来、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国基本法やイタリア共和国憲法、フランス第4共和国憲法など、公共の福祉による所有権の行使(利用)の制限を憲法上の規定として明示するところが少なくない。財産権、とくに土地の所有にかかわる所有と利用のあり方を見直すべきである。
(1)第二次大戦後のヨーロッパ諸国で確立されてきた、所有権の絶対不可侵を超える社会的利用に関する考え方を採り入れ、現代型の財産権を再定義する必要がある。
(2)日本国憲法29条について、もともと公共の福祉に服すべき性質の強いものと、それ以外の財産との違いを考慮した規定を設けて、合理的な財産権の行使と制約を明確にする。
(3)例えば、《奈良県ため池条例事件》判決などに見られるような判断を基準に、社会的目的に適合した土地所有の制約と受忍の限度に関する規定を考慮しつつ、条文の見直しを行う。
(4)財産権の制約に際して伴う補償のあり方については、その公正な手続きと「正当な補償」の基準についても合わせて明記する。
(5)著作権、特許権、商標権等に関わる保護についての一般的規定を明記し、いわゆる知的財産権に関する憲法上の保障を付与する。
日本国憲法は、第26条2項、第27条3項などに子どもに関する規定を設けているが、日本における子どもをめぐる政策論が、少子化対策、治安対策など特定の政策目的として語られ、ひとり一人の子どもの権利をどのように保障するかという観点に欠ける傾向があるともされている。このためもあって、日本はこれまで、国連子ども権利委員会より2回の勧告を受けている。第2回勧告の中では、それまでの勧告の内容が、十分実行されているとはいえないと指摘され、一層の改善措置を求められている。これらの具体的勧告に基づき、政府の諸施策のあり方を見直し、国内法整備を行うことが急務である。
子どもの権利条約は、 「世界中の子どもが幸せな子ども期を過ごし、一人ひとりの子どもが、その能力を最大限に発達させ、自由で民主的な大人として、成長することが、世界平和の礎である」とする人類の願いを成文化したものであるが、条約が求めている通り、「恩恵」や「福祉」を施すことではなく、子どもにとっての「最善の利益」を最優先することが基本でなくてはならず、その前提の上に「権利」の保障ができるようにすべきある。
(1)憲法に子どもが権利を享受し、行使する主体である旨、明記すべきである。また、実効的に権利を保障するために、子どもからの苦情や権利侵害の救済に対応できる独立した「子どもの権利保障機関」の設置も必要である。
(2)政策への子ども自身の参加の仕組づくりを含め、憲法付属法としての「子ども権利基本法」の制定も不可欠であり、基本法には、条約にも盛り込まれている「生命、生存、発達の権利」「意見表明権」「プライバシーの保護」「障害のある子の自立」などを明記すべきである。
(3)非嫡出子、在日韓国、朝鮮人ら少数者の子どもへの差別、日本人の父親と外国人の母親との間に生まれた子どもが、父親の認知がなければ日本国籍を取得できない問題、女子の結婚最低年齢を16歳から18歳に引き上げることなど、憲法が求める「法の下の平等」に適合するものへと、国内法改正を子どもの権利条約は、 「世界中の子どもが幸せな子ども期を過ごし、一人ひとりの子どもが、その能力を最大限に発達させ、自由で民主的な大人として、成長することが、世界平和の礎である」とする人類の願い を成文化したものである速やかに行うべきである。
信教の自由は、明治憲法において明文で保障されていたものの、神道が事実上国教化していた経緯がある。現行憲法は、明治憲法への根本的反省から、信教の自由(20条1項前段・3項)を政教分離(国家と宗教の分離/20条1項後段・2項、89条)と一体的に規定している。戦後は、宗教的活動の禁止に係る判例が蓄積されているものの、信教の自由の侵害を請求原因とする訴訟においては、憲法判断回避も含め実効的な権利救済がなされていないのが現状である。また、政教分離規定が人権規定ではなく制度的保障と理解されているため、憲法上の訴えを提起しにくいという状況にある。
また、「少数者」の信教の自由と政教分離が対立する事例が出てきていることから、宗教的人格権(静誰な宗教的環境の下で信仰生活を送る権利)の位置づけをどうするか、その在り方を検討すべきである。
(1)現状では政教分離をめぐる訴訟を通じては、人権侵害の事実認定が困難で、権利救 済にも国家への歯止めにもなりにくいことから、国家と宗教との「厳格な」分離を基本理念(出発点)として規定すべきである。
(2)許容される関わり合いについては、厳格な目的効果基準(レモンテスト)を憲法位 置づけることを検討すべきである。その際、当該行為の目的が宗教的意義を持つか、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉等になるかに加えて、国と宗教との間に過度の関わり合いを促すかを判断基準とし、いずれか一つに該当すれば違憲と解するべきである。
(3)上記に関して、立憲民主主義の立場から、特に少数者の信教の自由を保障できなければならない場合、それを国家の責務として明確化すべきである。
(4)宗教的人格権を、個人の人格的生存に不可欠な権利として、新しい人権に位置づけることを検討するべきである。
(5)政治的解決策として、新しい国家追悼施設の建設・整備を進め、靖国神社参拝問題を事実上終焉させるべきである。
現行憲法は、政治的民主化の一環として地方自治について4か条の原則的規定を定めた。しかし、その後も戦前と同様の機関委任事務制度が長く続いたこと、自治体の組織・運営・財政の全般にわたって国の法律によるがんじがらめの統制が行われ、大半の地方自治体関係者もこれに甘んじてきたこと、中央政府が自らの事務や権限を一貫して肥大させ続けてきたことなどが、真の意味での地方自治の定着や自治の文化の形成を妨げてきた。画一的な行政や補助金漬けの公共事業・ハコモノ行政の結果、美しい自然や多様な地域文化は破壊され、疲弊しきった地方自治体に借金だけが残されたといっても過言ではない。いまこそ、「地域のことは地域で決める」「自分たちのことは自分たちで決める」という民主主義の原点に立ち返り、「分権国家」への転換を展望した新たな憲法提案を行う必要がある。
「地域でできることは地域に委ねる」という「補完性の原理」に立脚し、住民に身近な行政は優先的に基礎自治体に配分する。都道府県を広域的に再編して道州を設け、司法・外交・出入国管理など文字通り国家主権に関わる行政を除く大半の広域的行政を道州に移管する。これらの行政権限配分を憲法上明確にする。
これまでのような法律の範囲内での条例制定権限ではなく、地方自治体と中央政府の権限配分に対応し、地方自治体に専属的あるいは優先的な立法権限を憲法上保障する。中央政府は、地方自治体の専属的立法分野については立法権を持たず、地方自治体の優先的立法分野については大綱的な基準を定める立法のみ許されることとする。
自治体の組織・運営のあり方は住民自身が決めることを原則とする。これまでの首長と議会の二元代表制だけでなく、「執行委員会制」や「支配人制」など多様な組織形態の採用、地域コミュニティ等を準地方自治体とする三層制の採用、住民発案案件を議会が否決した場合には住民投票により決着をつける「住民発案住民投票」制度の採用などをいずれも自治体に委ねる。
地方自治体が自らの事務・事業を適切に遂行できるよう、その課税自主権・財政自治権を憲法上保障し、必要な財源を自らの責任と判断で調達できるようにする。課税自主権は、各自治体が自らにふさわしいと考える税目・税率の決定権を含む。これらを補完するものとして、現在の地方交付税制度に代えて、新たな水平的財政調整制度を創設する。
――憲法9条論議の焦点と基本方向――
日本における安全保障問題を展望するとき、いま、もっとも危険なことは憲法の「空洞化」である。時々の状況に流されて、政府が行う恣意的な憲法解釈がこの国の安全保障をして、憲法政治の実現を著しく困難なものにさせている。
私たちは、憲法は現実政治に生かされるものでなければならないと考えているので、憲法の条文を固持することに汲々として、その形骸化・空洞化を放置する立場はとらない。憲法を鍛え直し、国家権力の恣意的解釈を許さない、確固たる基本法としての構造を確立することが必要だと考えている。
一方で、古いタイプの脅威と国家間紛争に代わって、新しいタイプの脅威が地球規模で覆いつつあり、これに対応しうる新たな安全保障と国際協調主義の確立が求められている。私たちは、これまでの日米関係一辺倒の外交と安全保障政策を脱して、2l世紀の新時代にふさわしい、「アジアの中の日本」の実現に向かって歩み出すべき時を迎えている。また、国際協調主義の立場に立ち、国連中心の国際秩序の形成に向け積極的な役割を果たしていくべきである。そのためには、例えば、EUの発展過程に見られるような「主権の移譲」もしくは「主権の共有」を含めた、よりグローバルな視点からの憲法の組み直しにもあえて挑戦する気概が必要だと感じている。
以下、主に憲法9条問題に焦点をあて、私たちの基本姿勢と検討方向を提示する。
そもそも日本国憲法は、国連憲章とそれに基づく集団安全保障体制を前提としている。前文に謳われている国際協調主義は、国連憲章の基本精神を受けたものであり、第9条の文言は国連憲章の条文をほぼ忠実に反映したものである。
日本は、憲章が掲げる「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小国の同権」に関する信念を国際社会と共有し、その集団安全保障が十分に機能することを願い、その実現のために常に努力することを希求し、決意した。日本は、憲法9条を介して、一国による武力の行使を原則禁止した国連憲章の精神に照らし、徹底した平和主義を宣明している。それはまた、日本国憲法が、その精神において、「自衛権」の名のもとに武力を無制約に行使した歴史的反省に立ち、武力の行使について強い抑制的姿勢を貫くことを基調としていることにも反映されている。
以上の原則的立場については、日本国憲法又は9条の「平和主義」を国民及び海外に表明するものとして今後も引き継ぐべきである。
私たちは、政府の恣意的な憲法解釈を放置することなく、日本の安全保障政策が憲法の下に確たるかたちで位置づけられる、憲法9条問題の解決に向けて、以下の基本的考えを提案したい。
第1は、憲法の中に、国連の集団安全保障活動を明確に位置づけることである。国連安保理もしくは国連総会の決議による正統性を有する集団安全保障活動には、これに関与できることを明確にし、地球規模の脅威と国際人権保障のために、日本が責任をもってその役割を果たすことを鮮明にすることである。
第2は、国連憲章上の「制約された自衛権」について明記することである。ここに言う、「制約」とは、<1><1>緊急やむを得ない場合に限り(つまり他の手段をもっては対処し得ない国家的脅威を受けた場合において)、<2>国連の集団安全保障活動が作動するまでの間の活動であり、かつ<3>その活動の展開に際してはこれを国連に報告すること、の3点を基本要件とすることを指す。
第3に、「武力の行使」については最大限抑制的であることの宣言を書き入れる。国連主導の下の集団安全保障行動であっても、自衛権の行使であっても、武力の行使は強い抑制的姿勢の下に置かれるべきである。わが国の安全保障活動は、この姿勢を基本として、集団安全保障への参加と、「専守防衛」を明示した自衛権の行使に徹するものとする。