Posts Tagged “資本論”
2009年10月28日 at 22:17:35
『資本論』第1部第7章「剰余価値率」の第3節、有名な「シーニアの最後の1時間」の終わり近くに、こんなくだりが登場します。
【新日本版】 ……もし諸君が、諸君の「工員たち」から11時間半ではなく13時間を手に入れることに成功し、そして諸君は当然にそうすると思われるのであるが、超過した1時間半を単なる剰余価値につけ足すならば……(上製版Ia、387ページ、新書第2分冊、386ページ)
この下線部分。実は、戦前の河上肇訳では、次のようになっています。(仮名遣い等は、現代通用のものに直してあります)
【河上訳】 ……なお諸君が、諸君の織工を11 1/2時間でなく無理に13時間労働せしめ、かつその余分の1 1/2時間を全部剰余労働に加えるとすれば、――諸君にはそれらが全く同じものにみえるはずだが――……(改造社、616ページ)
ご覧のように、訳文が全く異なるだけでなく、「そうする」とか「それら」で受けているものが全然違っています。一体、どっちが正しいのか? なぜ、こんなふうに違っているのか? ささいな挿入部分で、ここでのマルクスの議論の筋とはなんの関係もないのですが、気になってしまいました。
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2009年10月27日 at 00:09:26
ドイツ語版とフランス語版との異同について、前回は簡単に結論しか書かなかったので、もう少し詳しく紹介しておきます。
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2009年10月26日 at 23:39:47

大谷禎之介氏の翻訳で、ヨハン・モスト著『資本と労働』(第2版)の新訳が出ました。同書を大谷氏は196年に岩波書店から翻訳・出版されていますが、今回はその再刊ではなく、新しい翻訳、編集による新訳となっています。
本書は、ヨハン・モストという人が執筆した、『資本論』第1部のダイジェスト本『資本と労働』(第1版、1874年刊)に、マルクスが手を入れた改訂第2版(1876年)の翻訳です。「マルクス自身の手による資本論入門」というのは、大谷禎之介氏がつけたタイトルで、マルクス自身は、改訂第2版の出版にあたって、自分の名前を一切出さないように求めていました。
しかし、読んでみると、確かになかなかよくできた「資本論入門」になっていると思いました。
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2009年10月22日 at 22:47:29
唐突ですが、新日本出版社の『資本論』を読んでいると、「自己を発現する労働力」という表現がところどころで出てきます。たとえば、第5章「労働過程と価値増殖過程」の冒頭。
【邦訳1】 労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、その売り手を労働させることにより、労働力を消費する。労働力の売り手は、労働することによって、"現実に"自己を発現する労働力、労働者となるが、彼はそれ以前には"潜勢的に"そうであったにすぎない。自分の労働を商品に表わすためには、彼はなによりもまず、その労働を使用価値に、なんらかの種類の欲求の充足に役立つ物に表わさなくてはならない。(新日本出版社『資本論』上製版、Ia、303ページ。新書版第2分冊、303ページ)
「発現」とは、「実際に現われ出ること。現わし出すこと」です(『新明解国語辞典』第4版)。つまり、労働力が「自己を発現する」というのは、植物の種が(一定の条件さえあれば)ほったらかしておいても、おのずと芽を出し花開いていくように、労働力も、おのずから、他の助けなしに、おのれの力だけで自分自身を表に現わして、労働となっていくかのようです。
しかし、マルクスは、労働力を、こんなふうにヘーゲルばりの「生きた主体」として、本当にとらえていたのでしょうか? この「自己を発現する労働力」というのは、ドイツ語では sich betätigende Arbeitskraft です。そこでまず、『資本論』第1巻のなかで、この表現が出てくる箇所を調べてみました。
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2009年7月22日 at 23:15:26
『資本論』第13章「機械と大工業」の第8節eで、マルクスは、工場法を導入することによって、かえって生産力の発展が促される、という話をしています。そのなかで、注278がついているところ(ヴェルケ版ページで500ページ)に、陶器の作り方の話が出てきます。
これは、製陶業での技術改良の話を、『工場監督官報告』から引用しているところなのですが、そのなかに、こんな表現が出てきます。(新日本新書<3>820ページ。大月書店全集版620ページ)
蒸気による代わりに圧力によって陶土漿をつくる改良された方法……
陶土漿というのは、陶器用の土に水を混ぜてドロドロにしたものであるとの訳注が、新日本版にはついています。しかし、蒸気で陶土漿をつくるかわりに圧力で陶土漿をつくる、って、いったいどういうことなんでしょうか? どう考えても、よく分かりません。
この部分、大月版では、「蒸発によらないで圧力によって陶土漿(slip)をつくる」となっています。蒸気と蒸発では、全然意味が違ってきますが、それもまた疑問。謎が謎を呼ぶばかりです。
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2009年7月18日 at 00:02:45
『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第3節「貨幣」b「支払手段」の終わり近く、注(107)がついているところで、マルクスは、次のように書いています。(上製版Ia、238ページ、新書版第1分冊、239ページ)
支払手段の通流速度にかんする法則の帰結として、どんな起源をもつ支払いであろうと、すべての周期的支払いにとって必要な支払手段の総量は、諸支払期間の長さに正比例する。
この部分、長谷部文雄氏の翻訳では、次のようになっています。
支払い手段の通流速度にかんする法則からして、その起源のいかんをとわずすべての周期的な支払いにとっては、支払手段の必要分量は支払期間の長さに逆比例する、ということになる。
ご覧のように、新日本訳で「正比例」となっている部分が、長谷部訳では「逆比例」(反比例)と、正反対の意味に訳されています。「正比例」か「反比例」か、 どっちが正しいのでしょうか?
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2009年7月9日 at 21:04:42
カミザワさんのコメントから、さらに問題意識が発展。そもそも「章標」って何? という話です。もちろん、マルクスが『資本論』でどういう意味で使ったのかということではなくて、「章標」という言葉は日本語としてどうなのよ、という話です。
ちなみに「章標」という言葉は、手元にあるいろいろな国語辞典を引いても、どれも載っていません(三省堂『大辞林』、岩波『広辞苑』、小学館『大辞泉』、三省堂『新明解』、太修館『明鏡』など)。似ている言葉としては、「章票」、あるいは「標章」は出てきますが、「章標」というのは、どうやら広く世間で使われている言葉ではなさそうです(もちろん、そうしたことは学術用語にはしばしばあるものですが)。
だからこそ、「章標」ってなによ? ということになるわけです。で、またまた電子辞書を駆使して、いろいろ調べてみました。(^_^;)
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2009年7月9日 at 00:06:28
『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」の第1節「価値の尺度」に、こんなくだりが出てきます。
ある物の名称は、その本性にとってまったく外的なものである。ある人の名がヤコブであると知っても、私はその人物についてはなにもわからない。同じように、ポンド、ターレル、フラン、ドゥカートなどの貨幣名においては、価値関係のすべての痕跡が消え失せている。これらの秘教的章標の奥義をめぐる混乱は、貨幣名が商品の価値を表現すると同時に、ある金属重量の、すなわち貨幣の度量基準の、可除部分をも表現するだけに、なおさら大きくなる。(新日本新書版『資本論』第1分冊、171ページ)
この「秘教的章標の奥義」という部分。いくら読んでも、これだけでは???だらけ。「秘教」の部分には「カバラ」とルビがふってあるのですが、「カバラって何?」と、ますます疑問符が増えるだけです。(^^;)
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2009年6月30日 at 00:05:01

すでに出ていることは知っていたのですが、書店のマルクス・コーナーをいくら探しても見つからず途方に暮れていました。それもそのはず、実はマルクス・コーナーではなく、マンガ売り場にならんでおりました。(^_^;)
前作『まんがで読破 資本論』は、「蟹工船」をヨーロッパのどこかのチーズ工場に置き換えただけみたいなストーリーで、いまひとつの出来だったのですが、『続・資本論』の方は、読み応えもあって、なるほどこれが資本論かと思わせる、なかなか面白い内容になっています。
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2009年6月20日 at 01:34:12
『資本論』第1部の第1章「商品」、第2節「商品に表わされる労働の二重性」の一番最後に登場する注16の意味がようやく分かりました。(^^;)
現在の新日本新書の翻訳は、こうなっています。
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2009年6月13日 at 21:31:25

毎日新聞客員編集委員の岩見隆夫氏が、今朝の「毎日新聞」の「近聞遠見」で、「不破哲三とマルクス」と題して、不破さんの最新著『マルクスは生きている』(平凡社新書)の感想を書かれています。
近聞遠見:不破哲三とマルクス=岩見隆夫 : 毎日新聞
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2009年6月11日 at 00:23:19

今日、書店へ行ったら、こんな本を見つけてしまいました。
咲木英和『誰もが読める「資本論」』(新生出版)。著者は奥付によれば元中学校の先生。出版社はいわゆる自費出版系の会社です。「『資本論』は労働者のために書かれた」けれども、「このままではこの大著は歴史の中に埋もれてしまう」という危機感から、『資本論』第1部の内容を分かりやすく紹介したものです。
ぱらぱらとめくった限りでは、長谷部文雄氏の翻訳をベースに、『資本論』の太い筋をきちんと追いかけているように思います。あまり『資本論」からの引用を多用せず、『資本論』の内容を自分の言葉で説明しながら、そこに日本の歴史や現状をおりまぜて、現在の読者が近づきやすく読みやすくなるような工夫をしているようです。
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2009年6月7日 at 23:45:04
ドイツの演劇集団?「リミニ・プロトコル」が先日、東京で上演した「カール・マルクス:資本論、第一巻」(東京バージョン)がNHK教育の芸術劇場で放送されます。
2月に僕も見てきましたが、プロの俳優を使わず、『資本論』に関連する素人が登場し、『資本論』の朗読もしながらすすむ不思議な演劇です。
放送予定は、7月10日(金)午後22時30分からです。
7月10日(金)の放送内容: NHK教育 芸術劇場
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2009年5月31日 at 22:05:27
井村喜代子氏の『「資本論」の理論的展開』の続きです。
まず、第8章「『商品過剰論』と『資本過剰論』との区分の誤りについて」から。これは、論争史的には面白いところですが、こんにちではすでに過去の問題になってしまっているので、井村さんがいくつか指摘している面白いところだけを抜き出しておきます。
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2009年5月30日 at 22:52:07
不破さんが新著『マルクスは生きている』(平凡社新書)の中で、イギリスの10時間労働法に関連して、『資本論』の一節を「社会的バリケードを奪取する」と大胆に――しかし、マルクスの本意にぴったりくる――意訳されていることは、前回紹介したところですが、あらためて考えてみると、この不破さんの「意訳」は、なかなか重要な問題を提起していると思いました。
問題は、『資本論』第1部第3篇第8章「労働日」の一番最後の、「わが労働者は生産過程に入ったときとは違うものとなって、そこから出てくる」(新日本新書版、第2分冊、524ページ)で始まる段落です。
以下、繰り返しになりますが、まず、この部分が従来どう訳されてきたか、ドイツ語原文がどうなっているか、不破さんはそれをどう「意訳」しかた、をまずふり返っておきたいと思います。
たとえば新日本訳では、この部分は次のように訳されています。
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2009年5月25日 at 23:35:41
井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』の続き。いよいよ「生産と消費の矛盾」の話です。井村さんは、「生産と消費の矛盾」がいかに恐慌となって爆発するか、その展開を考えなければいけないと言われています。
これは、恐慌の「運動論」として提起されている問題と共通する指摘です。
第7章 『資本論』における<生産と消費の矛盾>
はじめに
・マルクスは<生産と消費の矛盾>に、周期的な過剰生産恐慌の「究極の根拠」を求めている。(205ページ)
・しかし、『資本論』は「資本一般」体系であったため、そこでは、この<生産と消費の矛盾>がいかに展開し、どのようにして恐慌となって爆発するのか、ということは解明されていない。『資本論』における<生産と消費の矛盾>の基本的把握を正しく理解した上で、<生産と消費の矛盾>の展開を解明していくことが不可欠である。(207ページ)
・<生産と消費の矛盾>は、いずれは「商品の販売、商品資本の実現、したがってまた剰余価値の実現」において現れるものとして把えられている。(207ページ)
・したがって、<生産と消費の矛盾>は、労働者が自分で生み出した価値生産物(v+m)のうちの一部分(v)しか消費にあてることはできないという資本制生産固有の矛盾それ自体を指すものではない。(208ページ)
・マルクスは、「市場」における「商品の販売」「過剰生産」「恐慌」を考える場合、労働者大衆の貧困・制限された消費それ自体に問題を求めていない。資本制生産固有の生産力・生産の無制限的発展傾向が労働者の消費を制限する傾向と対立・矛盾するという関係において、矛盾を把えている。この点でマルクス理論は「過少消費説」と峻別される。(208ページ)
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2009年5月21日 at 21:33:40
井村喜代子さんの『「資本論」の理論的展開』のノート。まだまだ続きます。今回は第6章。『資本論』第3部第3篇「利潤率の傾向的低下の法則」のなかの、とくに第15章「この法則の内的な諸矛盾の展開」についてです。
第6章 生産力の発展と資本制生産の『内的な諸矛盾の展開」
――『資本論』第3部第3篇第15章をめぐって――
はじめに
まず、井村さんの問題意識。
しかしながら、第3部第3篇についてみると、各章の主題も、資本蓄積論・恐慌論におけるそれらの位置づけも、いまなおけっして明らかになってはいないと思われる。とくに、第3篇第15章「この法則の内的な諸矛盾の展開」は、生産の諸条件と「実現」の諸条件とのあいだの矛盾、「既存資本の減価」(K.III, S.258)、資本の過剰と人口過剰との併存など、きわめて重要な諸問題を取り上げているところであるにもかかわらず、この第15章を貫いている主題はなにか、またそれは第13、14章で説明された「利潤率の傾向的低下の法則」といかなる関連で把えるべきか、第15章を「この法則の内的な諸矛盾の展開」と題するのは正しいかどうかなどについて、なお多くの問題が残されている。(同書、169ページ)
これについて、不破哲三氏は、「恐慌論は恐慌論として読む」ということを提起されていて、相通ずるものがあると思う。
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2009年5月18日 at 19:48:53
不破さんは最新著『マルクスは生きている』の中で、イギリスの10時間労働法に関連して、『資本論』から次のようなマルクスの言葉を紹介しています。
責め苦の蛇(ドイツの革命詩人ハイネの詩からとった言葉――不破)から自分たちの「身を守る」ために、労働者たちは結集し、階級として、1つの国法、1つの強力な社会的バリケードを奪取しなければならない。(第1部第3篇第8章)
これは、新日本新書版『資本論』でいえば第2分冊、525ページ(ヴェルケ版320ページ)にでてくる部分ですが、訳文は、だいぶ分かりやすく改められています。新日本新書版では、この部分の訳文は次のようになっています。
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2009年5月14日 at 20:44:26
井村喜代子さんの『恐慌・産業循環の理論』(有斐閣、1973年)を読んでいますが、序説「分析の基本視角と本書の構成」で、井村さんは、恐慌論の「基軸」について、次のように書かれています。
資本制生産が、生産諸力を「無制限的」に発展させる傾向をもつと同時に、労働者の消費を狭隘な枠内に制限する傾向をもつこと、――この<生産諸力の無制限的発展傾向と労働者の制限された消費とのあいだの矛盾>(本書では<生産と消費との矛盾>と略す)こそは周期的過剰生産恐慌の生じる基礎・「窮極の原因 der letzte Grund 」をなすものである。(同書、4ページ)
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2009年5月10日 at 21:32:55
第5章 拡大再生産表式分析の意義と方法
初出:『三田学会雑誌』73-6、1980年
はじめに
・表式分析にもとづいて拡大再生産過程、拡大再生産経路を考察しようという試みの共通した問題点。マルクスの表式例の前提――貨幣の価値どおりの環流、固定資本の捨象――のもつ意味を看過したまま、その前提のもとでの表式例、数式の時系列的展開を試みていること。したがって、I(v+mv+mk)=II(c+mc)を満たす範囲であればI、II部門の拡大率をまったく自由に想定できるように考えて、展開を試みている。(137ページ)
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