アルチュセールの『不確定な唯物論のために』(イタリアの哲学者フェルナンダ・ナバロ女史によるインタビュー、原著1988年刊、邦訳=大村書店、1993年刊)を初めて読みましたが、彼のイデオロギー論についての非常に分かりやすい解説になっていると思いました。
1つは、彼の議論が、実はスターリン主義流の哲学――いわゆるヘーゲル主義にたいする批判をねらったものだということが非常によく分かったこと。
- 「依然として存続していたスターリン主義の影響と闘うために」(p.35)
- 「普遍的な弁証法的諸法則をともなった唯物論的一元論を除去することが、私には緊要だと思われました。それは、ソ連科学アカデミーの有害な形而上学的考えであって、ヘーゲルの『精神』や『絶対理念』の位置に『物質』を置いたものなのですよ」(p.36)
- 「スターリンの政治戦略とスターリン主義の一切の悲劇は、部分的には、『弁証法的唯物論』に基礎を置いていた」(p.37)
そこで、こうしたヘーゲル的でないマルクスの唯物論をアルチュセールは「不確定な唯物論」と呼ぶ。それは、「『資本論』の哲学、彼の経済・政治・歴史思想の哲学」(p.45)であり、「マルクス主義のための哲学」とも呼んでいる。「偶然性の唯物論」とも言っているが、「偶然性を必然性の容態あるいは例外として考えるのではなく、さまざまな偶然的なものの出会いが必然になったものだと、必然性を考えなければなりません」とも指摘する(偶然というものを認める必要性、つまりすべてを必然性によって説明できないし、説明できると考えるのは正しくないということは、見田石介氏や鈴木茂氏が強調された点である)。
2つ目には、イデオロギーとは何かという問題。
- 哲学の機能について。「科学的実践を覆い隠すイデオロギー的支配から、そうした実践を解放するために、科学的なものとイデオロギー的なものとの範囲を確定したり、両者を分離したりするのを可能にさせる、境界線を描くこと」(p.99〜100)
- 「イデオロギー的な諸要素全体を統一する」もの、「かつては、こうした統一者の役割」は宗教が担っていた(同前)
- しかし、こういう支配階級のイデオロギーは「自らの階級的条件を超越したりはできない」
- 哲学は、「現実的・具体的な諸実践に対して、あれこれのイデオロギーの媒介によって、遠くから働きかける」(p.102)――つまり、科学は、イデオロギー的な実践意識に転化しなければならないということ。
- 人間の「いかなる行為も、言語や思惟抜きには考えられません。したがって、言葉で表現される観念システムなしでは、いかなる人間的実践もありえません。かくして、そうした実践のイデオロギーが構成されるのです」(p.104)――つまり、実践的意識としてのイデオロギーの役割。
- 他方で、「あるイデオロギーが観念システムであるのは、それが何らかの社会関係システムと関係している」からだ――イデオロギーとイデオロギー諸制度との相互前提関係
- イデオロギーというのは「個人の幻想から生まれる何か」ではなく、「社会的に設定される諸観念」である(同前)
では、イデオロギーはどこから始まるか?
- 「意識が、そうした観念を『真理』だと認める場合に、このメカニズムが発動する」(同前)
- 「真理なるものの現前、実在、なしいは明証の効果」のもとでの再認。「観念の外部で私を支配し、その現前との出会いを通じて、私に自らの実在と真理との再認識を強要するような観念を信じる場合」に、「真理」は(真理である)「かのように」生じる。つまり、「イデオロギーを構成する諸観念が、人間の『自由な意識』を強要して、そうした観念が真理であると自由に再認識させるかたちで、個々人に呼びかける」(p.105)
- 個々人は、「イデオロギーを構成する諸観念における『真理』を再認識できるような、自由な主体としてみずからを構成する」(同前)
- 「人間はいつも、イデオロギー的社会関係のもとで生きてきた」(p.106)
- 「イデオロギーの社会的実在を考える場合、大切なのは、それらのイデオロギーと諸制度とが、分離不可能であること」(p.108)
- 「そうした制度を通じて、イデオロギーはおのれのコード、言語、習慣、儀礼、儀式とともに、みずからを表明する」(同前)
- 実践的諸イデオロギーの「観念体は、諸制度からなるシステムと分離できない」(p.109)
- イデオロギー的諸装置は「以前から存在していた」。「そうしたさまざまな社会的諸機能……の陰に隠れて、イデオロギー的諸装置が、支配的イデオロギーによって浸透され、統制されいている」(同前)
- 「いかなるイデオロギーもまったく恣意的な訳ではない」(同前)
- イデオロギーと個人との関係は「呼びかけのメカニズム」によって打ち立てられる。「呼びかけの機能作用は、個人がみずからのものだと認識している一つの社会的役割を個人に割り当てることで、彼をイデオロギーに服従させる」(p.111)
- こうした「承認の効果」によって、主体は「社会的存在」として構成される。主体は、「他者」や同胞=隣人との同一化を必要とする。その同一化を通じて、主体はみずからを実在すると認識する。
- イデオロギーは、「社会・家族的に形成されたイメージ」として、機能する。「子供はこうした予示された像を、社会的主体として実在するために、自分が持つ唯一の存在可能性として受け入れる」(p.112)。社会・家族的イメージとしてのイデオロギーこそ、「子供にみずからの個体性を授けてくれるもの」(同前)。このようにして「社会的主体としての自己構成の過程を開始する」ことによって、社会的生産関係の再生産が保証される(p.112〜113)
- 主体はつねにイデオロギー的主体である。しかし、そのイデオロギーは、支配的イデオロギーから革命的イデオロギーに変更可能である(p.114)――しかしながら、どうして支配的イデオロギーから革命的イデオロギーに変更可能か、アルチュセールは述べていない。
- 支配階級は、諸主体の自由な同意を通じて服従を獲得する。それが「諸イデオロギー――矛盾した――のシステムが果たす目的の一つ」(同前)。
- 支配的イデオロギーをこのように理解するならば、「哲学に固有の機能を把握できます」(p.117)
う〜む、こんなメモで意味が分かるか? (^^;)