今日は、神奈川県立近代美術館・葉山館の「ヴィルヘルム・レームブルック展」を見てきましたが、その行き帰りで、アルチュセール ((フランスの「構造主義」マルクス主義の哲学者。1918年生まれ、1980年に妻を殺害。1990年没))の『国家とイデオロギー』を再読。かつて読んだときには気づかなかったことにいろいろ気がつきました(だから、読書は面白いのですが)。
以前は、アルチュセールのいう「国家イデオロギー装置」というのを、機能というより、実体として捉えていて、国家機構を「国家抑圧装置」と「国家イデオロギー装置」とに二分して捉えたものというふうに理解していましたが、あらためて読んでみると、確かにそういうふうに実体的に二分する議論がなされていることは事実ですが、むしろアルチュセールの議論として注目されるのは、そもそもイデオロギーとは何か、イデオロギーというのはどうやって機能するのか、こういうことについての彼の分析です。
- 人々は「実際問題を処理する仕方」を学ぶ。(21ページ)
- 子どもたちは「支配的なイデオロギーの中に包み込まれた《かけひき》(フランス語、算術、博物学、科学、文学)や、あるいはごく簡単に、純粋状態にある支配的なイデオロギー(道徳、公民科、哲学)」を学校で教え込まれる。(48ページ)
- 「人間がイデオロギーの中で描き出すのは、彼らの存在の現実的諸条件や彼らの現実世界ではなく、なによりもまず、そこで人間のために描き出されるこららの存在の諸条件にたいする人間の関係である」(61ページ)
- イデオロギーにおいては「諸個人がその下で生きる現実的な諸関係にたいするこれら諸個人の想像的な関係が表わされている」(62ページ)
- 「これらの実践(イデオロギーにもとづいて主体が行なう行為)はさまざまな儀式によって調整されている」「これらの実践は……小さな教会の小さなミサ、埋葬、スポーツ団体の小さな試合、小学校の授業、政党の集会や討論会、等々といった……イデオロギー装置の物質的な存在のただなかで、これらの儀式の中に刻み込まれている」(67ページ)
- われわれは「イデオロギーの中で《自発的に》あるいは《自然に》生きている」(71ページ)
- 「あらゆる明証を明証と信じさせること(信じさせるといったふりをせずに、なぜならこれは明証なのだから)、これこそまさにイデオロギーの特性である」(72ページ)
- イデオロギーについて科学的な論述を始めようと思ったら、イデオロギー的な再認のメカニズムの科学的な認識に到達しなければならない。(74ページ)
- イデオロギーによる、イデオロギーのイデオロギー的性格の実際上の否定は、イデオロギーの効果の1つであって、イデオロギーはけっして《私はイデオロギーである》とは言わない。(76ページ)
- 私はイデオロギーの中にいる、私はイデオロギーの中にいたと言いうるためには、イデオロギーの外側、つまり科学的認識の中にいる必要がある。(76ページ)
- イデオロギーは主体としての諸個人に呼びかける。諸個人は常に=既に主体として、イデオロギーによって呼びかけられている。(77ページ)
- 子どもは、家族的イデオロギーの中に産まれてくる。(78ページ)
- 多数の宗教的主体が存在しうるのは、別種の絶対的な唯一の主体、すなわち神が存在するという絶対的な条件の下においてのみである。(81ページ)
- あらゆるイデオロギーは、唯一絶対の主体の名において諸個人に呼びかける。この構造は、反射的、すなわち、鏡の状態にあって二重に反射的である。この二重に反射的な構造がイデオロギーを構成し、イデオロギーの機能を保証する。つまり、あらゆるイデオロギーは、絶対的な主体が中心の唯一の場所を占め、この主体が、二重に反射的な関係の中で、諸主体としての諸個人に呼びかけることによって、この諸主体を絶対的な主体に従わせる。(83ページ)
と、こういうふうに読み返してみると、イデオロギーの実践意識としての役割を的確にしたアルチュセールの議論に改めて感心しました。
他方で、なるほど確かに上野俊樹氏が指摘したように、イデオロギーの中における「再認」関係は論じても、「否認」関係はどこにも論じていないこともよく分かります。また、これはアルチュセール自身が認めていることですが、イデオロギー一般については論じても、それが階級的形態を帯びたときにどのような規定を受けるのかは具体的に何も述べていません。
さらに、イデオロギー的認識と科学的認識との関係についても、あらゆる実践がイデオロギー的な実践意識に導かれることを前提としつつ、しかし、そこから科学的認識にふみだすことの重要性を指摘しながらも、それを自覚的な形では述べていません。そこから、被支配階級も、イデオロギー的に、「国家イデオロギー装置」に統合される側面だけが強調されて、どこで、どのようにして、このイデオロギー的な再認関係を踏み破っていくかが明らかにされない。その結果、一面で被支配階級がいつまでもイデオロギー的に統合されっぱなしになる一方で、「国家イデオロギー装置」の中に階級闘争が反映するといったときに、どのような形で反映するか具体的に明らかにできないということにもなっているようです。
他方で、アルチュセールが、資本主義国家における中心的な国家イデオロギー装置は学校だとしたことについては、今日、イデオロギー的上部構造の真ん中にあって、諸個人=諸主体の「再認/否認」の中心になっているのは法律的イデオロギーだという批判があります。たぶん、社会全体、国家全体を見た場合にはその通りなのでしょうが、アルチュセールの“つもり”としては、そういう法律的イデオロギーを内部化していくように諸個人が主体として形成される過程というものに注目したのではないでしょうか? 僕も、個人が人格形成をとげるとき、家族的イデオロギーの中から抜け出して、社会的なさまざまな関係についての「実践意識」を身につけて、いわば社会的な人格を形成する過程というものに注目する必要があると思っています。
それにしてもアルチュセールの議論は面白い。かつての「重層的決定」論や「審級」論、「ネオ・マルクス主義」などの枠にとらわれずに、もう少し研究してみたいと思いました。