7月2日付の「朝日新聞」が独自取材で、自衛隊創設直後から、首相にも報告しないまま、自衛隊と米軍との共同作戦計画がつくられていたと報じています。
記事の概略は以下の通り。
計画の正式名称は、日本語で「共同統合作戦計画」。英語では「Coordinated Joint Outline Emergency Plan」(CJOEP)。日本語版と英語版の2通りが作れられた。日本語版はA4判で数千ページ。十数部しか作成されず、防衛庁内の金庫に厳重に保管されたという。
計画は毎年改定され、統合幕僚会議議長と在日米軍司令官が署名した。防衛庁内局の防衛局長を通じ、防衛庁長官に報告される形になっていた。
陸海空自衛隊はこの共同作戦計画を前提に、毎年度の日本防衛計画である「年度防衛警備計画」(年防)を策定してきた。
日米の制服間による計画づくりは日米安保条約(旧安保条約)が結ばれた翌年の52年から始まった。自衛隊の前身である保安隊の時代だった。54年に自衛隊が誕生し、翌55年に最初の計画が陸上幕僚監部と在日米軍司令部によって完成。57年から陸海空を統合する形で、統合幕僚会議と在日米軍司令部の間で作られるようになった。
秘密の日米共同作戦計画というと、1965年に暴露された「三矢作戦研究」が有名ですが、編集委員の本田優氏は、「『三矢』は幕僚の研究に過ぎないが、『CJOEP』はれっきとした日米の作戦計画だ」(「解説」)と指摘。「三矢研究」が「極秘」だったのにたいし、「CJOEP」は一段上の「機密」とされていたといいます。また本田氏は、「政治が現実に向き合うことを避け、結果として『制服の独走』を強いてきた」といっていますが、制服組主導でこういう計画が作られたというのは、「政治が現実に向き合うことを避けてきた結果」ではなく、もともと米軍の補完部隊として自衛隊が創設されたという“生い立ち”に原因があるというべきでしょう。
同じ朝日の自衛隊創設50年の特集記事のなかでは、60年安保の時の事件として、群馬県相馬原駐屯地の第1特車(戦車)大隊のなかの小隊長だった村松つとむ氏の話として次のような話を紹介しています。
ある日、富士山麓の演習場で訓練を終え、約50両の車列で群馬に戻る途中、「練馬駐屯地(東京)に向かって前進する」という指示が出た。
上官の中隊長に尋ねると、「東京は大変なことになっている」と告げられた。6月15日の夜。中隊長から「治安出動に出られる態勢をとれ」と命じられ、駐屯地で待機。火炎瓶に備え、戦車のエンジン部分を保護する鉄板のカバーや暴徒を排除するための竹ざおとバッテリーをつないだ「電気ムチ」も準備しました。
これまでも、60年安保のとき、自衛隊の治安出動が準備されていたことの証言はありますが、実際に戦車部隊が出動準備をして練馬駐屯地で待機していたというのは、あらためて震撼すべきことです。