駅のホームでツバメの巣を見つけました。
今日の「朝日新聞」夕刊に、京都大学の大澤真幸氏が参議院選挙の結果について「われわれは何も選んでいない」と題する文章を書かれています。
小澤氏の論旨は次のようなものです。
まず選挙結果について、大澤氏は「民主党は勝つには勝ったが圧勝とはいえず、自民党も負けたとはいえ、完敗ではない」といわれ、では、いったい有権者は参議院選挙で何を選択したのか?と問題を提起します。
で、大澤氏は、参議院選挙の争点は、(1)イラクでの多国籍軍への自衛隊参加、憲法など安全保障に関わる主題と、(2)年金問題であったが、「有権者の投票行動を規定したのは、主として(2)ではなかったか」と指摘。「(1)を前面に出して戦った共産党や社民党の敗北・不調も「同じ実を示している」といわれる。「ならば、民主党の勝利は、有権者が民主党の提案する年金システムや社会保障制度を選択したことを示しているのか?」と問いかけ、大澤氏は「そうではあるまい」と言われ、あらためて「われわれは何を選んだのか?」と問いかけておられます。
結論からいうと、大澤氏は、「こんな肝心なとき」に、なぜ「憲法の改正/非改正や多国籍軍への参加/不参加が中心的な論点になりえなかった」のか、ということを論じられています。氏は、「多国籍軍への参加に憲法との不整合を覚える人は、少なくないはずだ」とも述べられていますが、にもかかわらず何故それが中心的争点にならなかったのか。そのことを大澤氏は考えてみようと言うのです。
そしてそれは、通常の選択の前提をなすような根本的な選択をおこなう「構想力」の欠如にある、というのが大澤氏の結論です。どうしてそういう結論になるのか。
そこで大澤氏が取り上げるのは、選択には2種類の選択があるということです。すなわち、英語の「ought(あるいはshould)」と「must」に対応する2種類です。曰く、oughtはいくつもの可能な選択肢の中から最良のものを選ぶという「選択」であるのにたいし、mustは「事実上それしかない」「そうする他ない」という「選択」を意味すると。後者が、「それしかない」と言いつつ、なお選択であるのは、「それしかない」というように「限界を定める枠組みをすでに選んでしまっているから」だというのです。
つまり、「自衛隊は多国籍軍に参加させない」ということを選択しようとすれば、「今までとは違ったやり方で――たとえば日米の同盟・友好関係から離れて――」日本の平和や安全というものを考えなければならなくなる。そこから人は、「通常の選択(oughtの水準)の前提をなす本質的な選択(mustの水準)へ」と向かわざるをえなくなる。
で、これは非常に難しいことであり、「事実、社民党や共産党はこれに完全に失敗した」と言われています。では、どうしたらよいのか。氏は次のように、主張されています。
単に護憲や自衛隊の海外派兵を批判しているだけではダメである。まったく異なった枠組みのもとでも、共同体の秩序が存続しているということ、構造のトータルな崩壊はありえないということ、こうしたことを保障してやらなくてはならないのだ。そのために必要なのは、決定的な構想力(想像力)と結果責任への覚悟(「そんなつもりはなかった」と言わないこと)である。
最後の結論に氏は、「だが、それらを担う者はどこにもいなかった」として、「今回の選挙が選んだこと」は「選択と言うことの拒否そのもの」だと結論を下されています。この結論が妥当かどうかは、もっと具体的に考えてみる必要があると思います。なぜならば、共産党は、“アメリカ言いなり、大企業中心”の日本から「国民が主人公」の日本へ、“ルールなき資本主義”から“ルールある経済社会”へ、“アメリカ言いなりの日本から憲法9条を生かした平和日本へ”という、大きな選択を提起していたからです。
しかし、そういう大きな転換が、どういう可能性をきりひらくのか、そのことがどこまで自覚的につかまれたのかという点では、大澤氏の言うように、大きな「構想力」が求められていると私も思います。そして、それはひとり共産党の「構想力」という意味だけではなく、まさに国民的な規模での「構想力」が求められているのだと思います。だから、政党に求められることは、どうやってそういう国民的な「構想力」をつくりだしていくのか、それに成功するかどうかが問われているのだといえます。
その点での違いはありつつも、大澤氏が、こんどの選挙では、実は憲法の改正・非改正、多国籍軍への参加・不参加が肝心の争点だったと指摘されていること、さらに、その中心的争点に対して、大澤氏が憲法非改正、多国籍軍不参加、日米同盟から離れた日本を選択しておられることについては、大いなる賛同を表明したいと思います。
私も大沢氏の小論読みました。このページの大沢氏の評価には、異論はありませんが、大沢氏の小論の結論には違和感を覚えます。「通常の選択(oughtの水準)の前提をなす本質的な選択(mustの水準)」こそが問われている、というのはそのとおりです。しかし「本質的な選択」を困難にしているのは、政党の構想力だけの問題なのか? 「二大政党」選択という形を迫るのは、自・民どちらが勝つか負けるか、という「通常の選択」を強要することを意味し、それを煽っているのは誰なのか? しかも「2大政党」選択を国民が期待して乗りかかっていったように描く見解は底が浅いものと思えます。これは、大沢氏がそう言っているということではなく、この問題を論じていないのではないか、と思うのです。