まだ第1部の座談会(橘木俊詔、刈谷剛彦、斎藤貴男、佐藤俊樹の4氏による)を読んだだけですが、中身はかなり面白い感じです。
座談会のテーマの1つは、「結果の平等」と「機会の平等」の問題です。いわゆる「構造改革」論議の中で、しばしば戦後日本は「結果の平等」を重視するあまり効率が悪くなった、これからは「機会の平等」こそ重視すべきだという議論が出されますが、そもそも「結果の平等」と「機会の平等」は、そんなに二律背反的、排他的な関係にあるのか? ということです。座談会メンバーのなかでも、橘木さんは「結果の平等」(としての所得格差の問題)を重視し、佐藤氏は、「機会の平等が保障されていれば、結果がいくら不平等でもかまわない」と言い切るということで、一見するとまっこうから意見が対立しているように見えるのですが、座談会の中で非常に興味深い視点が指摘されています。
- 戦後の日本では、高度成長期の終わり=1970年代まではずっと「機会の不平等」も「結果の不平等」の縮小する方向に動いてきたこと。つまり、原理的にはともかく、実態的には「機会の平等」と「結果の平等」は連動してきたということ。
- 「機会の平等」を保障するという場合、「結果の不平等」が「機会の不平等」に結びつくときは、「機会の平等」を保障するために「結果の不平等」を是正しなければならないということ。そういう「機会の不平等」を明らかにして是正する方が現実的だというのが、佐藤氏の主張なのです。また、「機会の不平等」の指標として「結果の不平等」も有効な指標の1つになるということ。
さらに、少し角度が違うのですが、刈谷氏が現代の教育格差の問題として、児童・生徒の勉強への意欲、自発性の格差を指摘していることです。つまり、親の階層によって、勉強にたいする意欲、自発性にはっきりした格差が見られる。それが、「自ら学ぶ」態度を重視した「ゆとり教育」のなかで、さらに拡大したというのです。刈谷氏が、それを少し角度を変えて「コミュニケーション能力」の格差という側面からも問題にされているのは、注目される点でしょう。平たく言えば、「言葉」によって自分を表現できるかどうか、自分の意見、考え、気持ちなどを「言葉」によって他人に向けて伝えられる人と、それができない人との格差が、今日の一番の格差であり、それが親の階層差によって決まってしまうことによって、階層格差が固定化される傾向にある、というのが刈谷氏の結論です。
不平等というと、これまで経済的格差、つまり所得や資産の格差にもっぱら目がいっていましたが、この本によって、もっと多面的な角度から現代の「不平等」を考えてみる必要があるということがよく分りました。
【書誌情報】編者:橘木俊詔編/書名:封印される不平等/出版社:東洋経済新報社/出版年:2004年7月/定価:本体1800円