戸田山和久『科学哲学の冒険』

科妥??妣??冒険表紙

科学哲学というと、論理実証主義とか構成主義とか、あまりロクでもない観念論的議論が多くて、鬱陶しいだけと思っていたのですが、この本は、科学的実在論の立場に立ち、「それでも科学は実在を捉えている」というのが結論。また、筆者の戸田山氏は、前著『論文の教室』(NHKブックス)が意外に良くて(けっこう文章は乱暴でしたが)、論理の筋道の展開の仕方が分かりやすく、僕の感覚に近いところがあると思っていました。それで、とりあえず買ってきました。

開いてみると、これも会話形式で書かれていて、科学哲学専攻のセンセイ、それに理系のリカコさんと文系・哲学好きのテツオくんというベタな名前の学生が登場。センセイの研究室で、お菓子を食べながら、哲学談義をするという趣向になってます。で、テツオくんが、論理実証主義や反実在論など、いかにも文科系の哲学オタクがはまりそうな議論を持ち出すのにたいし、リカコさんが、科学(この場合は自然科学)をやってる人間として、そんな議論は間違ってると反論し、その2人に引きずられて、センセイが科学哲学とは何か、実在と科学との関係をどう考えるかを述べるというふうになっています。

ということで、文章は会話体なので、小難しい哲学議論が分かりやすく紹介され、すらすら読んでいけますが、でも議論それ自体はけっこう骨太で、あまり細部に突っ込まずに太い筋で科学哲学の基本問題をきっちり取り上げています。

途中で、こんな説明も出てきます。構成主義への反論のなかで出てくるんですが、人間の認識と世界との関係について、「独立性テーゼ」(人間の認識活動とは独立に世界の存在と秩序を認める考え方)と「知識テーゼ」(人間が科学によってその秩序について知りうることを認める考え方)とに分けたうえで、「独立性テーゼ」にYesかNoか、「知識テーゼ」にYesかNoか、という2つの軸で、世界と人間の認識との関係を3つに分けます(2×2で4つに別れるはずですが、「独立性テーゼ」Noかつ「知識テーゼ」Noという立場は、世界について何も考えられなくなるので、除外)。で著者は、科学哲学の議論を、独立性Noかつ知識Yes=観念論、社会構成主義、独立性Yesかつ知識Yes=科学的実在論、独立性Yesかつ知識No=反実在論、に分けています(150ページ)。

独立性=YES 独立性=NO
知識=YES 科学的実在論 観念論
知識=NO 反実在論 (※これは成り立たない)

これって、『フォイエルバッハ論』でエンゲルスが展開した「哲学の根本問題」の第1の問題(外界の客観的実在性を認めるかどうか)と第2の問題(外界は認識可能かどうか)と同じです。

外界の客観的実在性を認める 外界の客観的実在性を認めない
外界は認識可能 唯物論 観念論
外界は認識不可能 不可知論 (※これは成り立たない)

対象の独立性を認めないのが観念論(これは同じ)、対象の独立性を認めかつ認識可能とするのが唯物論(=科学的実在論)、そして対象の独立性は認めるが認識できないというのが不可知論(=反実在論)、ということで、用語は違うけれども結論はまったく同じ。

注目すべきなのは、著者が、反実在論を「広義の実在論」に含めていることです。反実在論は実在論だというのは、用語としていかがなものかという気はしますが、反実在論を広い意味での実在論に含めて考えようというのは、不可知論を主観的観念論の一形態として切り捨てるのでなく、客観的実在を認める唯物論の立場への接近(「恥ずかしがり屋の唯物論)として位置づけるべきだという、少し前に『唯物論と経験批判論』でのレーニンの不可知論批判の「弱点」として指摘された問題提起と共通してます。

もう1つは、後の方になって、たとえば「エーテル説」のように、科学の発展のある時期に妥当と見なされたが、後になってみると、誤っていたことが明らかになったというような問題をどう取り扱ったらよいかという議論が出てきます。そこから、「いまは正しそうに見えても、結局、間違っているかも知れない」という結論を導き出すのが、「悲観的帰納法」(反実在論の立場からの科学的実在論批判)。それにたいする著者の反論の進め方は省略しますが、そこで問題になっていることをわれわれの言葉で言えば、理論の発展を「100%正しい理論」vs.「100%間違った理論」というふうに見ないで、不十分な認識からより正しい認識へという、認識の弁証法的な発展というとらえ方の問題だということです。有限の能力をもった人間が、無限の対象を認識するという議論も出てきますが、これもエンゲルス『反デューリング論』で同じ議論が登場しています。

また著者は、科学的実在論の擁護論の1つとして、「意味論的捉え方」というのを強調しています。これは、文を文としてだけ取り上げて、その論理関係だけを問題にする論理実証主義や社会構成主義にたいして、論理関係だけでなく、その文が何を表わしているかという「意味」を考えないといけないというものです。これは、要するに、問題は文の論理関係ではなく、認識の対象である実在と文(認識)との関係を問題にしなければいけないということではないでしょうか。表象の重要性という話も出てきます。

ということで、結論は、現代的唯物論の立場に立つわれわれからすれば、特別に目新しいものはありませんが、科学哲学の議論の流れとして、そういう結論にたどり着いているというところが、非常に興味深いものに思えました。文科系の哲学研究者(というか哲学オタク)は、科学とか実験・観測というものがどういう意味を持っているのかということを理解せずに、議論のための議論に落ち込むきらいがあるだけに、科学研究者の「常識」に信頼をおいた著者の科学哲学は、安心感と信頼感を与えてくれます。

【書誌情報】著者:戸田山和久(1958年生まれ、名古屋大教授)/書名:科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法を探る/NHKブックス、1022/出版社:日本放送出版協会/出版:2005年1月/ISBN4-14-091022-4/定価:本体1,120円+税

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戸田山和久『科学哲学の冒険』」への2件のフィードバック

  1. ピンバック: はやしのブログ

  2. はじめまして。トラックバックありがとうございます。
    GAKU さんの文章を読ませていただき、社会主義(唯物論)との類似性の指摘はたいへん勉強になりました。私はほとんど社会主義関係の著作を読んでいないのですが、やはり、マルクス・エンゲルスの基本的著作くらいは読んでおかなければ、と反省しました。
    実は、全く別の脈絡から、溪内謙氏の『上からの革命』に取り組みたいと思っていたのですが、なにぶん高価なので躊躇しておりました。もしや、と思ってこのサイト内を探したら、この本についても言及されていました。たしかに、1冊で、あの4巻本(『スターリン政治体制の成立』)のエッセンスが味わえるということであれば、多少高価でも関係ないですね。
    なお、私も、その第4部だけ転がっているのは見たことがありません。(私は、近くの図書館で誰にも借りられずに置いてあるのを、パラパラと見ているだけです。ちなみに、その図書館では第1部が欠けていて、私はむしろ、どこかに第1部だけ転がっていないか、と思っているのですが。)
    話題の逸れたコメントが長くなって失礼しました。

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