的場昭弘『マルクスを再読する』

マルクスを再読する

最近読み終わったのは、的場昭弘『マルクスを再読する 〈帝国〉とどう闘うか』(五月書房、2004年6月刊)。的場氏は、もともと一橋大学社会科学古典資料センターのアーカイビストで、現在は神奈川大学教授。最近、『マルクスだったらこう考える』(光文社新書)も刊行されていますが、内容はほぼ同じ。でも、『再読する』の方が何を考えているかがよく分かると思います。

最近さかんにマルクスを掲げ注目される的場氏ですが、結論からいうと、氏のマルクス論は……

あえて昔風の言い方をすると、“無政府主義的、アナルコ・サンディカリズム的”マルクス解釈といえます。別の言い方をすれば、1848年革命に引き戻すことによって成り立つマルクス論ということもできるでしょう。そういう解釈も成り立つということはできるかも知れないし、それはそれで、はじめて「マルクス」に接した人には(的場氏の描くマルクスが、実際のマルクスと相当違っていたとしても)相当な「衝撃」かも知れません。

しかし、氏のマルクス論は、結局、現実社会の変革には何の具体的な関係も持てない「虚しい」思想となっているのが特徴だと思います。そのことは、「共産主義は、いわば実現できそうにもない幻」「ひどく実現しがたい亡霊の運動」という形で氏も認めざるをえなくなっているのですが…。

的場氏の議論の特徴の1つは、平田清明氏らに代表される「市民社会」派への批判が強く前面に打ち出されていることです。しかし、だからといって、「共同体は、共同生産と共同所有の世界」「そこには個々人の世界はない」、「集合した集団が主体」、「人間集団を一つとして考え」る、「全体で一つ」という主張は、あまりにも異様です。そんな、個の自立なしの「集団」など、不気味としかいいようがありません。「市民社会」派マルクス主義の誤りは、資本主義のもとで、プロレタリアートをふくめ自立した「市民」の社会が実現できると考えたことにあるのであって、的場氏が批判するように、個の自立を主張したことが悪い訳ではありません。

あとがきで的場氏は、「全体としてこれまでのマルクス像を一新しているという確信はあります」と自負されています。しかし僕は、本書で提示されているマルクス像が意外と古い、という印象を持ちました。

たとえば、「既存の国家を破壊しなくちゃいけない」「出来合いの国家というものをことごとく解体しようと言っている」「マルクスは明確に近代国家を破壊すると言っている」等々は、レーニン、スターリン流の国家機構「粉砕」論そのままです。また、労働についても、「苦しみを受苦的に受け入れること、これが至福の世界に至ることだ。そう『経済学・哲学草稿』で述べています」と書いていますが、これも、「必然性の国」の上での「自由の国」の発展というマルクスの未来社会論に比べると、古色蒼然としています。

氏は、『再読する』や『こう考える』では、スピノザを持ち出されています。そこが的場流マルクス論の1つの特徴なのですが、つまるところ、グローバルな資本主義の批判というものは外在的にしか与えられないという議論を正当化する役割をスピノザが果たすという仕掛けになっています。それはそれで、新しいマルクス解釈かも知れませんが、そこにこそ、上に書いたように、氏の議論が現実とは関わりを持てなくなる理由もあるわけです(なぜなら、氏の理論のなかでは、変革の運動は、外在的にしか与えられなくなるから)。

原理的には、グローバル資本主義にたいする「批判」に見えるかもしれないけれど、その原理と現実とをどうやって結びつけるか、その議論が欠けているだけでなく、欠けていて当然だという議論になっているのが氏のマルクス論の最大の特徴だと思います。

結局、こうした議論では、原題の社会変革の展望をつかむことは不可能だといわざるをえないでしょう。

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