北海道新聞の世論調査。
憲法改正について、容認派77.0%にたいし護憲派21.2%だとしていますが、改憲容認派に憲法9条1項の「戦争放棄」について聞いたところ、「自衛戦争も含めてすべての戦争放棄を明記」が39.0%で最多で、「自衛のための戦争であれば良いことを明記」の37.9%と拮抗したとのことです。つまり、「戦争放棄をより明確にするために九条改正を求める『護憲的』改憲派が相当数いる」というのです。この点は、僕も読売の世論調査に関連してそういう可能性があると指摘しましたが、北海道新聞の世論調査でその点が明確に裏づけられたと言えます。
改憲容認が77% 本紙世論調査、戦争全面放棄、自衛戦争容認に二分(北海道新聞)
改憲容認が77% 本紙世論調査、戦争全面放棄、自衛戦争容認に二分
北海道新聞社は五月三日の憲法記念日を前に、憲法改正に関する全道世論調査を北海道新聞情報研究所に委託して実施した。「全面的に改めるべきだ」「一部を改めるべきだ」を合わせた「改憲容認派」は77.0%に上った。ただ憲法論議の最大の焦点である九条については、改憲容認派の中でも「すべての戦争を放棄」「自衛戦争は容認」などと意見が大きく分かれ、平和主義を強化する目的での改憲論が相当数あることを裏付けた。
調査で「全面的」改憲を支持する人は14.6%、「一部」改憲の支持者は62.4%。改憲の必要がないとする「護憲派」は21.2%だった。
しかし、改憲容認派に九条一項の「戦争放棄」についての考えを聞いたところ、「自衛戦争も含めてすべての戦争放棄を明記」(39.0%)が最多で、「自衛のための戦争であれば良いことを明記」(37.9%)とほぼ拮抗(きっこう)。戦争放棄をより明確にするために九条改正を求める「護憲的」改憲派が相当数いることを示した。「(九条一項は)変更しなくても良い」は10.4%。一方、今回調査で新設の質問である「戦争放棄の条文は全面削除」は7.5%だった。
また「戦力の不保持」を定めた九条二項の自衛隊の位置付けについては、「陸海空軍などの戦力保持を明記すべきだ」(48.6%)と、「変更しなくて良い」(45.7%)とに意見が割れた。
憲法解釈で禁じられている「集団的自衛権」については「現行解釈は妥当」(21.2%)、「憲法を改め、行使できないようにする」(23.2%)を合わせた「行使否認派」は44.4%で、「行使容認派」の28.4%を上回った。
改憲のための国民投票法の制定については「賛成」(59.8%)が「反対」(11.4%)を大きく引き離した。[北海道新聞 2005/04/30 07:19]
最近、憲法9条を何度も読んでみたのですが、権利としての戦争を王位継承権を放棄するように放棄していることに気がつきました。戦争放棄を4文字熟語で感じていた内容と違っていて、防衛については何の記載もなく、単に好戦的な権利としての戦争を放棄しています。60年前には日本の人々は、地球上で最も好戦的な人々と世界の人たちに感じられていたのでしょうか。
日本の歴史を見ると、
真珠湾攻撃の理由は
7ヶ月後に石油備蓄が消滅し
全艦隊が碇泊港で錆付くまでの制限時間だった。
満州攻撃の理由は
東洋と西洋の最終戦争を予見し
その戦争が各国民総動員の凄惨なものになることを歴史の必然性として予感し、科学技術の発達がもたらす恐怖の決戦戦争の中で、自国が生き延びるための必要最低限の資源確保だった。
これらの攻撃の立案者にとっては
生き延びるために必要な最低限の攻撃であった。
死に物狂いで戦った人々のために涙が流れ、とても好戦的な人々とは思えません。しかし、9条はこのような攻撃をする権利としての戦争を放棄したのでしょう。
戦争は「攻撃は最大の防御である。」という命題に従うものであり、防衛は「防御は最小の攻撃である。」という命題に従うものです。
その意味で憲法9条は防衛については何の規定もしていません。
自衛権や自衛隊の防衛について規定が必要であれば、9条とは別条で規定する方がいいと思います。
憲法9条を「戦争放棄」の熟語で考えると間違った解釈になるようです。「戦争放棄」は戦争そのものを放棄しているように感じられます。9条は戦争そのものを放棄していません。戦争そのものを放棄するためには、戦争が所有できるものであることが前提になります。古代ギリシャでは、戦争は人々の意志ではなく、神々の意図で発生すると考えられました。戦争は所有できないものであり、放棄できればいいが、放棄できないものと感じられているのでしょう。9条は注意深く、権利としての戦争を王位継承権を放棄するように放棄すると規定しています。義務としての戦争、義務としての防衛、権利としての防衛については言及していません。
次のような図式になります。
権利としての戦争 ?(例)真珠湾攻撃、満州攻撃(9条で放棄)
義務としての戦争 ?(例)国連平和維持軍に参加(結成された場合)
義務としての防衛 ?(例)江戸時代の鎖国政策(攻撃的ではありません)
権利としての防衛 ?(例)自然法(正当防衛です)
戦争は「攻撃は最大の防御である」という命題に従い、防衛は「防御は最小の攻撃である」という命題に従うものです。義務としての戦争、義務としての防衛、権利としての防衛をどのようにするかという考察が必要です。
玉川陽平さん、コメントありがとうございます。掲載が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。m(_’_)m
9条の戦争放棄ですが、第1項だけだと玉川さんのような議論も考えられますが、第2項では明確に「戦力を保持しない」「交戦権を認めない」と書かれています。
僕も、9条のもとでも自衛権そのものまで放棄されてはいないと考えていますが、しかし、自衛のためであっても戦力の保持は禁止されていると思います。
それから、国連の集団安全保障や平和維持活動については、戦力の保持を禁止されている以上、武装力として参加することは不可能。文民として可能な協力はおこなうべき、と思っています。
1項と2項は矛盾のないものです。前項の目的を達成するために戦力を保持しないということになります。義務としての防衛のための防衛力の保持を禁止しているとは思えません。交戦権を認めないというのはわかりにくくなっていますが、権利としての戦争をしないように好戦性の権利を認可されないという意味です。
9条が「自衛のための戦争」を放棄しているかどうかが議論になりますが、それは権利としての戦争か、義務あるいは権利としての防衛かによって判断されることになります。
真珠湾攻撃や満州攻撃の立案者は、その攻撃を自衛のための戦争というでしょうが、それは「攻撃は最大の防御である」という命題に従っており、9条で明確に放棄されています。
英米仏蘭四国連合艦隊の下関砲撃に対して、長州藩の奇兵隊が防戦しました。これは義務としての防衛であり、9条で放棄されていません。但し先に砲撃したのは長州藩であり、領海を侵犯したかどうかが問題になります。
9条の文言は、満州攻撃や真珠湾攻撃で始まった第二次世界大戦により、被害を受け、命を失った沢山の人々から流された血によって石版に刻まれた文字のように思います。
それは闇の川を流れる灯篭のように、もう動かなくなった時計のように、失われた命のレクイエムとして、深い悔悟と反省の文言になっています。
防衛ができないと勘違いして、その文言を変えたいという人がいれば、再び真珠湾攻撃や満州攻撃のようなことをするのですかと聞きたい。
9条がそのまま残り、世界が平和であることを祈っています。
自民党が8月に発表した新憲法草案「第1次案」の9条の改正案は、戦争と防衛に関する定義、現行9条と自衛隊
との関連などを考慮せずに作成されているように思います。またこの案では、戦力を保持できることになり、1928年
に成立した不戦条約の内容のようになっています。不戦条約は期限がないために現在でも効力を持っていますが、
第二次世界大戦を防ぐことはできなかったという反省は必要だと思います。
自民党案に反対するとともに、戦争と防衛に関する定義をもとにして、以下のような憲法9条改正案を作成しました。
■憲法9条改正案
第2章 戦争の放棄と防衛の保持
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力に
よる威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認め
ない。
第9条の2 日本国民は、国際平和を誠実に希求し、その維持のために諸国民の協同により発動される
国際平和維持の活動に参加し、その国際協力のもとで自国の安寧幸福の保持を求める。
2 前項の目的を達するため、防衛軍その他の防衛力を保持し、常に諸国民との協同を旨とする。
【変更追加部分の説明】
「第2章 戦争の放棄」となっているところを「第2章 戦争の放棄と防衛の保持」としました。これは防衛に
関する記載を追加するためです。現行9条1項と2項は変更ありません。第9条の2として防衛に関する記
載を追加しました。自民党の案では防衛に関する記載のために、9条2項を削除していますが、それは戦争
と防衛に関する定義がしっかりできていないから、そのようなことをしたのだと思います。戦争と防衛の定義
が正しくできれば、防衛についての条文を追加するために9条2項を削除する必要はありません。
以前から、述べていますように、戦争と防衛の定義を次のようにしています。
戦争は「攻撃は最大の防御である」という命題で規定され、防衛は「防御は最小の攻撃である」という命題
で規定されます。そして、「権利としての戦争」、「義務としての戦争」、「義務としての防衛」、「権利としての
防衛」の4種類があります。この定義であれば、戦力と防衛力は異なるものであり、現行の2項と何の矛盾
も起こりません。
「自国の安寧幸福の保持」については、硫黄島守備隊海軍部隊最高指揮官 市丸少将の米国大統領
「ルーズベルトニ与フル書」の終わりの言葉、「凡そ世界を以て強者の独専となさんとせば永久に闘争を
繰り返し遂に世界人類に安寧幸福の日なからん。」の安寧幸福を利用させていただきました。
自民党が8月に発表した新憲法草案「第1次案」の9条の改正案では自衛軍の保持について、以下のように記載しています。
第九条の二 侵略から我が国を防衛し、国家の平和および独立並びに国民の安全を確保するため、自衛軍を保持する。
侵略とは、「ある国が武力を行使して、他国の主権・領土・政治的独立を侵すこと。」として定義されるとした場合、次の設問に対して、自民党新憲法起草委員会の方はどのような回答するだろうかという疑問が起こります。
設問、「過去100年間において、東アジアで侵略戦争をした国はどこか。」
日本以外の国の人々は、即座に「それは日本、それ以外にはない。」と答えるでしょう。
過半数以上の日本人は、即座に回答できず、「日本は侵略戦争をしました。 しかし、それは自衛のための戦争でもあり、植民地解放戦争でもあった。」とためらいがちに答えるでしょう。
第二次世界大戦後、中国、朝鮮、ベトナムで起こった戦争は自国の領土内でのイデオロギー対立の戦争であり、侵略戦争とは言えないと思います。
日本の歴史を見ると、真珠湾攻撃の理由は、7ヶ月後に石油備蓄が消滅し、全艦隊が碇泊港で錆付くまでの制限時間だった。
満州攻撃の理由は、東洋と西洋の最終戦争を予見し、その戦争が各国民総動員の凄惨なものになることを歴史の必然性として予感し、科学技術の発達がもたらす恐怖の決戦戦争の中で、自国が生き延びるための必要最低限の資源確保だった。
これらの攻撃の立案者にとっては、生き延びるために必要な最低限の攻撃であった。死に物狂いで戦った人々のために涙が流れ、とても侵略戦争をした好戦的な人々とは思えません。
太平洋の島々では全部隊が玉砕し、硫黄島では逃れられない運命の中で、祖国防衛のために過酷な戦いの中でほぼ全員が死んだ。それらの人々にとって、その戦いが侵略戦争として有罪となった極東軍事裁判の判決ははとても受け入れがたいものでしょう。
過半数の日本人が大東亜戦争を侵略戦争とのみみなすことはできないのにかかわらず、「侵略から我が国を防衛し、・・・」という文言は、東アジアにおいて、過去侵略があり、将来においてもあることを前提としていると思います。 侵略という歴史的評価および定義が定まっていない事象を憲法の中に書き込むのは、人々の判断を間違ったものに導くと思います。
現行の9条では国権の発動たる戦争を放棄すると記載しており、侵略戦争を放棄するとは書いていません。以前にも書きましたが英語表現では、権利としての戦争を放棄するのであり、日本の過去の戦争が侵略戦争であったと判断しているような表現ではありません。太平洋戦争を戦った日本人が戦争を名誉ある放棄するという表現です。
玉川陽平さん、こんにちは。
いつも僕のブログを読んでくださってありがとうございます。コメントも興味深く読んでいます。
ただ1つお願いがあります。
「コメントとトラックバックのルール」で書かせていただいているのですが、ブログのコメント欄というのは、僕のコストによって管理・維持されているスペースですので、そこで長々と自説を論じていくのは、ご勘弁ください。
http://ratio.sakura.ne.jp/usage.php#rules
玉川さんもホームページをお持ちなのですから、ご自分のホームページに自分のご意見をお書きになって、こちらにはそれへのリンクを投稿していただくようにお願いします。
管理人殿
コメントが長過ぎて、迷惑を掛けていたこと、気が付つかなかったとは言え、本当に申しわけありません。
謹んで、お詫び申し上げます。
次からはトラックバックにさせていただきます。
玉川陽平さん
こちらのお願いを快くご了解いただき、本当にありがとうございます。これに懲りずに、これからもこのブログをよろしくお願いします。m(_’_)m