昨日付の「東京新聞」夕刊の文化欄「土曜訪問」に、明治学院大学教授の原武史氏のインタビューが掲載されています(「近代天皇制を考える 国民が『知る』ことから議論を」)。
原氏は、明治憲法下の近代天皇制は、現在の日本国憲法の下で「象徴」に変わったことによって「終わったはず」だったにもかかわらず、実は「いまも本質的には変わっていない」という。で、その本質とは何か? 原氏の指摘によれば、「天皇の最大の公務」は、宮中祭祀であり、それは「国民の平安のために祈ること」だという。
原氏は、明仁天皇が、阪神大震災や中越地震のときに機敏に被災地に駆けつけたことなどをあげるが、それを「近代天皇制の本質」とみなせるだろうか? むしろ、天皇が積極的に被災地などに出かけるというのは、明仁天皇が始めたことであって、おそらく昭和天皇のときには実現しなかったことではないか。
その意味でいえば、現在の天皇制のあり方は、戦前からの“歴史”を引きずってきた昭和天皇・裕仁から現天皇・明仁への“代替わり”によって、ある種の転換をしたのであって、それを「近代天皇制は本質的には変わっていない」といって、明治以来の歴史に連続させるのは、そこにある「転換」を見逃すことになると思う。
はじめまして、ちょっと気になったので一言ふれます。
>むしろ、天皇が積極的に被災地などに出かけるというのは、明仁天皇が始めたことであって、
私の持っている岩波新書『憲法と天皇制』横田耕一著p68によると、昭和天皇が1987年6月22日「三原山噴火後の伊豆大島を視察」とありますから「昭和天皇のときには実現しなかったことではないか」というのは違うと思います。
>鮫山さん
ご指摘を受けて、少し調べてみました。
三原山の噴火は、1986年11月ですので、このときは、天皇が出かけるまでに6カ月以上かかっています。
これにたいし、阪神大震災のときは、1月31日に訪問。中越地震のときも2週間後です。北海道奥尻島の津波被害のときも比較的早い時期に現地を訪問したはずです。阪神大震災の時は、訪問中に大きな余震が起こって万が一の事態になったらどうするのかと異論があったのを、天皇自身の強い希望もあって、早い時期の訪問になったというようなことを新聞で読んだ記憶があります。
「天皇が積極的に被災地などに出かけるというのは、明仁天皇が始めたこと」というのは、そういう意味だと理解していただければと思います。